A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)①

読んだ本

久しぶりにいい本に出会えたなと思わせてくれた。
じっくりと余韻を味わいながら,印象的だった記述をメモ形式で以下に書き残しておきたい(本文を改変している場合も有り)。数回に分けて書いていく予定。

はじめに

・福祉とは「特別な人たち」のためだけのもの?
 →誰にとっても,やがてくるその日のための大切な備えであり,心構えであるはず
 →不安の少ない安定した社会をつくっていくための有益な“社会投資”【p.11-12】

・障害者について考えること⇒健常者について考えること⇒自分自身について考えること
・障害のある人たちが生きやすい社会をつくっていくことは,結局のところ誰のトクになるのか【p.12】

・世間一般で,障害者といえば崇高なイメージで語られがち
・そもそもメディアなどで伝えられる「障害者像」どおりの障害者など,この世には一人もいないといえばいないのかもしれない
・「障害者」といい,「健常者」といい,それらの言葉が意味するところは,じつにあいまいであり,その境界線も紙一重【p.13-15】

・なぜ健常者は障害者に会うと,つい,とまどいや緊張を感じてしまうのか

・「差別はよくない」「障害者は不幸ではない」「障害者も健常者も同じ人間だ」などという理念にしばられて緊張してしまうから?
・あれやこれやを考えると,関わらないに越したことはない,とつい考えがち
・「普通に接する」とは,心がけだけではどうにもならない【p.18-19】

・経験を重ねている人でも,意外な思い込みや偏見に凝り固まっているように見える場合も
・「経験しつつ考える」という行為を通して,思考や態度,関係性のバランスを保っていく【p.19-20】

第1章

・介護はお互い様
「障害者と介護者っていう二つの心があるでしょと。その二つの心が,お互いを思いやり合うのが介護なんだよと。」
「介護とはお互いの気持ちいい所を探り合うこと」【p.35-36】

・介護は,本当に「誰にでも出来る」仕事?
→「もし自分や肉親がその立場になったら」という視点が抜け落ちている【p.36-37】

・「障害者って生きてる価値ってあるの?」 →「では,あなた自身は,自分に生きている価値があると,誰の前でも胸を張っていえるんでしょうか? 価値があるとしたら,どうしてそういえるんですか?」【p.46】

・人に自分の意見は述べる,しかし,相手からの反論は受けつけない。そうした姿勢が植松被告(相模原障害者施設殺傷事件の犯人)の主張を成り立たせている根幹にはある【p.55】

・植松被告の主張は「優生思想」ではない。(彼にとって殺されるべき対象を)殺した後に社会がどう進歩し,どう発展するかについての構想がない。ただの排除思想,差別である。【p.56-58】

・「障害者なんていなくなればいい」といっている人だって,じつは厳しい社会状況に追い詰められ,人間性のどこかを深く病み,社会から落伍しかけているのかも
・自己責任やバッシングの言葉がいつ自分に降りかかるかわからない
・「支え合い」なんて不要だという風潮が強まるほど,ますます不適応者が増える可能性【p.61-62】 

・もし世の中が,能力のある人ばかりで埋め尽くされたとしたら,そもそも能力の意味がなくなってしまい,商品やサービスの価値も低下してしまう
・人は誰しも,「富の再分配」や,福祉的な支え合いによって暮らしている。もし,それをやめれば,そもそも人が,組織とか社会とか国家というものを維持する意味の大半がなくなってしまう【p.66】

・「天才と狂気は紙一重
・人間という種にとって,最もどうでもいい存在なのは,圧倒的多数の平凡な健常者ということになってしまう【p.69】

・世の中にはそれとは真逆に,「もし自分だったら」という言葉を用いて,いとも簡単に物事を判断し,結論を下してしまえる人もいる
・日常というのは,『わからない』の連続。そして,わからないからこそ,ここに『いる』というように,おだやかさや平安を導いてくれる【p.71】 

ハンナ・アーレント(読書メモ)

読んだ本

同書は,ハンナ・アーレントの生涯を中心にその思想の変遷や当時の社会情勢についてまとめられた著作であった。ここでは,思想にまつわる記述を中心に,気になったものをメモとしてまとめておきたい。

「理解する」とは

アーレントにとって理解とは,類例や一般原則によって説明することでも,それらが別の形では起こりえなかったかのようにその重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは,現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく,「注意深く直面し,抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく,既知のものと起こったこととの新奇な点とを区別し,考え抜くことであった。

アーレントは,因果関係の説明といった伝統的方法によっては,先例のない出来事を語ることはできない,と断言する。しかも全体主義という新奇な悪しき出来事は,「けっして起こってはならなかった」ことだった。(以下略)【p.105-106】 

ためらいと模索のための小休止(ホッファー)

人間は本能の不完全さゆえに,知覚から行動に移る間に,ためらいと模索のための小休止を必要とする。この小休止こそが理解,洞察,想像,概念の温床であり,それらが創造的プロセスの縦糸となり横糸となる。休止時間の短縮は,非人間化を促す。【p.140】 

科学技術をめぐって(アーレント

問題は,ただ,私たちが自分の新しい科学的・技術的知識を,この方向に用いることを望むかどうかということであるが,これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治的問題であり,したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定にゆだねることはできない。【p.142-143】

privateとdeprived

アーレントは私的(private)という語を「奪われている」(deprived)と結びつける。そこで奪われているのは,他人によって見られ聞かれることやさまざまな物の見方から生じるリアリティである。それがいかに温かく心地のよい家族的空間であっても,究極的には「同じものにかかわっている」ということだけが共通点であるような多数の物の見方,つまり他者の存在を奪われている,と言う。【p.149】

動きの自由

アーレントが「動きの自由」を思考の「身ぶり」と結びつけていることに注意しておきたい。世界での人間の自由が第一に経験される活動=行為においても,動きの自由は欠かせない条件であった。たとえば「国内亡命」のように,自由な動きができない暗い時代に人びとが思考へと退却する場合でも,「動き」が重要となる。思考に動きがなくなり,疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を,アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び,全体主義の特徴と見なしたのである。

「思考の動き」のためには,予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ,あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて,思考の自由な運動は可能になる。レッシングの動きのある思考は,たとえ世界と調和しなくても世界に関わり,多様な意見が存在することを重視する。それは,人びとが結合したり離れたりするような距離をもっていることと連関していた。【p.174】 

アーレントといかにして向き合うか

アーレントと誠実に向き合うということは,彼女の思想を教科書とするのではなく,彼女の思考に触発されて,私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。自分たちの現実を理解し,事実を語ることを,彼女は重視した。考え始めた一人ひとりが世界にもたらす力を,過小評価すべきではない。私たちはそれぞれ自分なりの仕方で,彼女から何かを学ぶことができる。【p.229 あとがき】 

 

悪と全体主義(読書メモ)②

読んだ本

第3章

・資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは,大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味した
→大衆の「アトム化」
・選挙権は得たものの,彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか,どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは,政治に対する関心が極めて希薄でした。
・「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様
・何も考えていない大衆の一人一人が,誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは,安直な安心材料や,分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。【p.120-122】 

・不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは,厳しい現実を忘れさせ,安心してすがることのできる「世界観」【p.124】

・人間は,何が真実なのか分からない,自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても,トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を登り詰めた,ごく一部の人たちだけ。自分も知りたい,教えてもらえるようなポジションに就きたいーーと思わせるようなヒエラルキーを,ナチスは構築した【p.133】

・そのようにして自立した道徳的人格として認め合い,自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を,アーレントは「複数性」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は,物質的な利害関係の調整,妥協形成ではなく,自律した人格同士が言葉を介して向かい合い,一緒に多元的なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他社と対話することがなく,常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは,次第に人間らしさを失っていきます。【p.149-150】

・現代でも,特に安全保障や経済に関連して,多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。(中略)が,世界はそれほど単純ではありません。
全体主義は,単に妄信的な人の集まりではなく,実は,「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。【p.154-155】 

第4章

アイヒマンが従った“法”は最初から間違っていて,私たちが現に従っている「法」は絶対正しい,と何をもって言えるのか? 哲学的に掘り下げて考えると,私たち自身が拠って立つ,道徳的立場に関しても不安になってきます。【p.176-177】 

・人が他人を心置きなく糾弾できるのは,自分(あるいは自分たち)は「善」であり,彼(もしくは彼ら)は「悪」だという二項対立の構図がはっきりしている場合に限られます。
アイヒマンに悪魔のレッテルを貼り,自分たちの存在や立場を正当化しようとした(あるいは自分たちの善良性を証明しようとした)人々の心理は,実はナチスユダヤ人に「世界征服を企む悪」のレッテルを貼って排除しようとしたのと,基本は同じです【p.181-182】

ユダヤ人社会や大戦後に建国されたイスラエルを覆っていた「ユダヤ人は誰も悪くない」「悪いのはすべてドイツ人だ」というナショナリズム的思潮に目をつぶるという選択肢は,彼女にはありませんでした。そのような極端な同胞愛や排外主義は,ナチス反ユダヤ主義と同じ構造だからです。【p.186】

・絶対悪を想定して複数性を破壊するような事象は私たちの身近にもあふれています。
・むしろ正義感の強い人,何かに強いこだわりをもって,それに忠実であろうとする人ほど実際は悪の固まり,ともいえます。【p.189-190】

アーレントのいう無思想性の「思想」とは,そもそも人間とは何か,何のために生きているのか,というような人間の存在そのものに関わる,いわば哲学的思考です。それは,異なる視点を持つ存在を経験し,物事を複眼的に見ることで初めて可能になるとアーレントは考えていました。そこに他者の存在,複数の目がなければ,自分では考えているつもりでも,数学の問題を解くように処理しているにすぎないと指摘しています。
・私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく,機械的処理。無思想性に陥っているのは,アイヒマンだけではないのです。【p.190-191】

・本当に「考える」ことができているでしょうか。実は既成観念の堂々めぐりを「無思想に」処理しているだけではないでしょうか。
・自分と同じような意見,自分が安心できる意見ばかりを取り出して,「やはり」「みんな」そう考えているのだ,と安心して終わっている

・そもそも異なる意見,複数の意見を受け止めるというのは,実際には非常に難しい
・(自分と同じような意見は)「分かりやすい」
・深く考えなくても,分かった気になって安心できる

・「分かりやすさ」に慣れてしまうと,思考が鈍化し,複雑な現実を複雑なまま捉えることができなくなります。【p.192-195】

終章

・日本でもプチ・アーレント・ブームになった時,(中略)あまりに簡単に共感する人が多いのを見て,正直言って,これでいいのかなと思ってしまいました。
・二項対立思考はダメだと言っている人自身が,二項対立思考しているというのはよくあることです。【p.201-203】 

・私たちは“議論”すると,往々にして勝負感覚になります【p.220】

・真摯に答えようとしたら,今までの自分を否定しないといけないので,聞いていて辛い,と思えるような対立意見をよく聴き,相手の考え方の原理を把握する。そこからしか,アーレントの言う意味での「思考」は始まらないのではないかと思います【p.220】

 

「科学的な正しさ」の裏にある陥穽

久しぶりに意見系のブログを書くことにした。雑文であることは否めないが,記録として残しておきたい。

gendai.ismedia.jp

言ってはいけない」「もっと言ってはいけない」といった著書でも話題となっている橘玲氏が,現代ビジネスに寄稿された記事がおもしろかったので,まずはその記事を少しばかり紹介したい。

その前に本稿の寄稿のきっかけとなった「Intellectual Dark Web(I.D.W.)」については偶然にも以前このブログで取り上げたので,そちらのリンクも貼っておきたい。

atsublog.hatenadiary.com

さて,当該記事から気になる記述をピックアップ。

・最初はアカデミズム内の論争だったものが、やがて「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」へと変容していった。

・PC派はやがて、行動遺伝学者が提示する膨大な「エビデンス」を否定することができなくなった。その結果、エビデンスがあろうがなかろうが、知能と遺伝の関係は「言ってはいけない」と主張するようになったのだ。

・「現代の進化論」の専門家・研究者は生き物の群れ(社会性)と同様に人間の集団を研究するが、だからこそ自分を「善」、相手を「悪」の側に分類するような「群れ的思考」の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する。

・木澤氏はI.D.Wを「社会的価値観より科学的リアルを信奉するエビデンス至上主義」と述べているが、この定義には疑問がある。なにかを主張するにあたってエビデンスを示すのは科学の前提であり、エビデンスのない批判に価値はないからだ。

・「エビデンスがあっても「言ってはいけない」ことがある」との主張があるかもしれないが、その場合は、「科学的根拠があって自由に表現していいこと」と「科学的根拠があっても表現の自由が制約されること」をどこで線引きするかを決めなくてはならない。その境界線を決めるのは誰で、どうやって管理し、境界を侵犯した者をどのように罰する(刑務所に放り込む?)のだろうか。

・このように考えれば、どれほど不愉快でも、リベラルは「エビデンス至上主義」を批判することができない。こうしてリベラルは「ひとびとの良識」に訴えてPCコードを振りかざすようになり、それに対抗して「アンチリベラル」はエビデンスを前面に押し出すのだ。

わたしは基本的に優生思想や差別・偏見といった思想について警戒しながらも,様々な人間の間には生物学的差異があることを認める必要があると考えている。

科学的な知見(ここでは「エビデンス」と呼ばれているもの)が,暫定的なものであり絶対的なものではないことは否めないが,人間の特性が遺伝的な影響を受けることは数多くの研究で指摘されており,こうした知見を否定することは現実逃避にすぎないと思わされる。せめて科学での否定を望みたいところだが,そもそも現実的に考えて,遺伝の影響がまったくないことを今から証明するのは不可能に思える。

また,こうした知見に目をつぶることによって,見過ごされる問題があるような気がしてならない。行動遺伝学者の安藤寿康は,

行動遺伝学の知見を否定することは,すでに目の前に存在している不愉快な現象にベールをかけ,人々にそれを見えなくさせ,差別を放置させてしまうことにつながる

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,こうした観点からも,行動遺伝学や進化心理学をはじめとした生物学的知見を否定する必要はないと考えている。

橘の言う通り「エビデンスのない批判」に価値はない。無論,「エビデンス至上主義」なるものを否定することは容易ではないだろう。ただ,エビデンスという言葉に踊らされすぎることも良くないとは思うので,念のためくぎを刺しておきたい。

エビデンスの活用についても、エビデンスに基づいた(based)とエビデンスに情報づけられた(informed)の違いがあるが、日本では後者にほとんど注意が払われないまま前者が暴走している印象を受ける。

出典:東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由(畠山 勝太) | 現代ビジネス | 講談社(3/5)

エビデンスの蓄積そのものが問題ではないとしても,「エビデンスに基づいた」(Evidence Based)施策についてとなれば話は変わってくるだろう。もっとはっきりと言えばいくら「エビデンス」が至上であるとしても「エビデンスに基づいた」施策が絶対的な正しさを持つとは限らない。先にも引用したこの記事はエビデンスに基づいた教育について様々な示唆を与えてくれる。

gendai.ismedia.jp

そもそも,行動遺伝学や進化心理学,さらには社会生物学といった学問が批判されたのはなぜか。「アメリ社会生物学会」の前身は,「アメリ優生学会」であったことが知られている。優生学といえば,ナチスホロコーストや,世界各地で行われた断種政策,日本でいえば優生保護法などが思い出される。こうした政策は,結果的に今からみれば「悪」とされるが,当時はこれが「エビデンスに基づいた」政策であったともいえる。ナチスホロコーストについては,完全に優生学に基づいていたかといわれれば疑わしい面もあるが,少なくとも断種政策は,優生学という学問の実践であったことに疑いはない。

優生学という学問が積み上げた「エビデンス」そのものは(多少の誤りがあったが)ここで橘の言う「エビデンス至上主義」的価値観に基づけば,それ自体が批判されるべきものとは言えないだろう。とすれば,批判されるべきはその実践,すなわち「エビデンスに基づいた」実践行為である。

実践行為が問題だったとしたときに,一つの大きな疑問にぶつかる。「言うことは実践に入るのか」である。もし,発言すること自体が「実践」に入ってしまうのであれば,やはり「エビデンスがあっても『言ってはいけない』時もある」と言える可能性が出てくる。このあたりは,記事の中で簡単に否定されて終わっていたが,もう少し複雑な背景があるとは言えるように思われる。なぜか。発言をすることが少なからず,国民(大衆)の実践を生む可能性があるからである。確かに先に紹介したような政治的実践とはレベルが異なるかもしれない。ただ,大衆レベルの実践が集まっていけば,何かしらの形での運動(実践)につながる可能性は否定できない。そこまでいってから実践ということはもちろん可能だが,発言そのものが「実践」の手前と見ることもできるのは否定できないだろう。もしかしたら「言ってはいけない」のは,単純なタブー視という理由だけではなく,そこで言い始めた時にどのようにエスカレートしないようにストップさせることができるか定まっていないからではないだろうか。

青木(2015)の指摘を紹介しておきたい。青木によれば,近年は科学の技術化・技術の科学化が起こり,科学と技術の「科学・技術」化が起こっており,そこに営利主義が取り込まれ,科学的合理性ではなく,技術的・経済的合理性が優先されていると指摘している(詳しくは,科学者の社会的責任をめぐって - A Critical Thinking Reed。科学が“実践”のための学問化する中で,技術的・経済的合理性が優先されていくことは,「ナチズムの再来」の危険度が上がっていると言えるかもしれない。優生学社会生物学の時代だけでなく,現在も遺伝と行動に関する研究の応用には様々な問題点がある。そこには倫理的な問題にとどまらず,実践の難しさがあるといえるだろう。

安藤(2018)の指摘も紹介しておきたい。

出生前検査の普及や選別的中絶の増加は、単に実際に障害のある人々に「もし今の時代に自分がいたら、自分は産んでもらえなかったかもしれない」と自分の存在を否定されたような感情を引き起こすだけでなく(これだけでも「障害者差別ではない」とは言い切れないが)、実際に障害のある人々をよりマイノリティにし、より生きにくい社会を現出させてしまう。出生前検査を受けることが当たり前になり、障害が見つかったらほとんど全員が中絶をしてしまう世界とは、それがいかに「個人の選択」という見せかけをもっていようとも、あからさまな優生思想に基づいた国家的な優生政策によってもたらされるのと同じ世界なのである。

詳しくは,優生思想をめぐる研究から学ぶ #2 - A Critical Thinking Reed

イギリスでは出生前診断の割合が高まった結果として,障害者への差別的状況,またこれから生まれてくる障害者への支援の低下という形で「優生思想」的な世界が広がっていると指摘されている。賛否は差し控えるが,「出生前診断」をめぐる問題が,そう簡単なものではないことは明らかである。

更に,偏見の正当化ー抑制モデル(Crandall & Eshleman, 2003)においては,偏見を正当化する根拠として,社会生物学的な知見が挙げられている。橘の言うように,科学者たちが「自分を『善』、相手を『悪』の側に分類するような『群れ的思考』の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する」のだとしても,大衆はそのような思惑には反して,偏見を表出することの正当化に用いる可能性が,このモデルからは指摘されている。意識的ではなく,ほぼ自覚のない状態で偏見に基づいた差別的言動が表出される場合もある。こうしたものに手を打たなければ「行動遺伝学者(進化心理学者)たちは差別に加担している」というような批判にもつながりかねない(詳しくは,差別論(2)心理学からみた差別① - A Critical Thinking Reed

橘の言葉を借りながら,私の考えを書いていきたい。PC派のように“現実”から目を背けることは現実逃避にすぎず良い判断とは言えないだろう。対して,エビデンス至上主義は,確かに科学的な蓄積としての「エビデンス」の尊重という意味では良いものの,それを実践に活かす上での問題は大きくあり,科学者の意図しない形で実践されていくリスクが,科学の科学・技術化も相まって高まっていると言える。こちらも無条件に信奉していいような状況ではない。気づけば人権が侵害されるかもしれない。「生きにくい」社会を作ることに,こうした「科学的な真実」が貢献する可能性は十分にある。

ということは,今後必要なのは,PC派とエビデンス至上主義派の対立ではないだろう。悪用をしないために何ができるかを徹底的に検証することではないだろうか。安藤は,

遺伝要因をふまえた上でのより望ましい社会システムの構築,あるいはより社会的に妥当な考え方の成熟の部分は,行動遺伝学が直接取り組む課題ではない

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,行動遺伝学の範疇ではなくても,行動遺伝学者が取り組むべき課題であると思うのは僕だけだろうか。Alcock(2001)は,科学者の責任として次の3つのことを挙げている。

①検討している仮説が検証できるように十分に証拠を集めること

②引き出した結論が間違って解釈されたり,その後,間違って利用されたりしないようにして,それを発表すること
・この目的のためには,研究者は,科学的な発見が暫定的な性質のものであること,再現性が必要であること,誤りの可能性もあることなどを承知していなければならない。これらはみな,どんな科学者にとっても,他人の研究にあてはめるのは容易だが,自分の研究となると,なかなかあてはめるのが難しいものである。

③科学の誤用が起こった場合には,それを指摘すること

詳しくは,『社会生物学の勝利』より(メモ) - A Critical Thinking Reed

科学者の責任は,ただ自然現象について研究することだけでなく,結論の誤用を防ぐように発表し,間違っていたらそう指摘することまでを含むとAlcockは指摘している。この意見に従えば,「エビデンスで蓄積されてきたことは正しいんだ」とばかり主張し続ける科学者たちはその責任を果たしているとは言い難いのである。そもそも,科学的な発見は暫定的なものであるという主張が乏しく見え,むしろ危険とすら思える。

橘は,ポリコレ論争について「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」と表現していたが,そう表現してしまうと問題の本質が見失われてしまう。むしろ「道徳・倫理(moral)と科学(evidence)」の対立としてみていかなければならないと思われる。さらに,そのような視座に立てば,イデオロギーとの対立も自然と消滅していくのではないだろうか。

科学者は,安易な「イデオロギー」との対立構造に踊らされずに,Alcockの主張したような科学者としての責任を果たす方向にアプローチしていく必要があるのではないだろうか。専門である生命倫理学者などが中心となるべきであることは否めないが,科学者は倫理学の知見に対しても誠実に向き合い,責任を果たしていく姿勢をより前面に強調してほしいように思う。科学的な正しさの裏には「実践におけるリスク」という陥穽がある。科学的な正しさだけを主張することから,実践における倫理的課題性にも目を向けることが科学者に必要な心構えではないかと,個人的には考えている。

悪と全体主義(読書メモ)①

読んだ本

ハンナ・アーレントについて少々調べる機会があったので,そのついでに読んでみた著作。以下,印象に残った記述をチャプターごとにまとめておきたい。

はじめに~序章

・この二作[『全体主義の起原』・『エルサレムアイヒマン』]を通じてアーレントが指摘したかったのは,ヒトラーアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく,むしろ社会の中で拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め,吸い寄せられていくーーその過程を,アーレント全体主義の起原として重視しました。【p.10-11】

アーレント全体主義を,大衆の願望を吸い上げる形で拡大していった政治運動(あるいは体制)である,と捉えています。これは,ごく一部のエリートが主導して政治を動かす,いわゆる独裁体制ーーあるいは,政治学で「権威主義」と呼ばれるところの,特定の権威を中心とした非民主主義体制ーーとはまったく違うものであるということです。大衆自身が,個人主義的な世界の中で生きていくことに疲れや不安を感じ,積極的に共同体と一体化していきたいと望んだーーと考えたのです。【p.23-24】

第1章

反ユダヤ主義ユダヤ人憎悪は同じものではない
・(ユダヤ人が再び迫害の対象とされたのは,)西欧で勃興した近代的な「国民国家」が,スケープゴートを必要としていたからであり,そこには国家の求心力を高めるための「異分子排除のメカニズム」が働いていた【p.32-33】

・強烈な「共通の敵」が出現すると,それまで仲間意識が希薄だった人々の間に強い連帯感が生まれ,急に「一致団結」などと叫ぶようになるーー。これは,今でも(意外に身近なところで)見られる現象です。【p.39-40】

国民国家形成期におけるユダヤ人解放は,ユダヤ人同士の間にも差別意識を生んでいた【p.53-54】

ユダヤ人をどう処遇するかということについて,政権の中枢にいる人々と一般民衆との間には意見のズレがありました。しかし,ユダヤ人を排除することが賢い政策ではないと分かっていても,『シオンの賢者たちの議定書』のようなものが流布し,それを信じた民衆がユダヤ人への憎悪・反感を募らせていくと,政治家はそれを無視できなくなります【p.54】

・国家を同質なものにしようとすると,どうしても何かを排除するというメカニズムが働く
・「政治の本質は,敵と味方を分けること」
・自分たちは悪くない,と考えたい。それが人間の心理です。つまり,自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが,異物を抱えているせいで問題が発生しているのだーーと考えたいのです。【p.57-59】

第2章

・英国人から抑圧を受けることになったボーア人は,自分たちの“下”にいる非白人にその圧力を転嫁するようになりました。差別されて,劣等感を覚えるようになった人が自分より“下”を見つけ,徹底的に差別することで,プライドを取り戻そうとするのは,私達の日常でもよく見られる現象ですね。彼らは,「人間とも動物ともつかぬ存在に対する恐怖」から人種思想を生み出し,非白人への差別と,暴力による支配を強めていきました。
ボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想【p.72-73】

・人権を実質的に保障しているのは国家であり,その国家が「国民」という枠で規定されている以上,どうしても対象外となる人が出てしまいます【p.106】

 

科学者の社会的責任をめぐって

今回読んだ本

共生の現代的探求―生あるものは共にある

共生の現代的探求―生あるものは共にある

 

第4章「科学における共生」より。重要な記述をメモ。

1.科学・技術と科学・技術者の社会的責任

科学・技術の意義の変容

・科学は本来,人間の心を豊かにする精神的生産にかかわる学問,宗教,芸術などの文化の一部であり,文化は多様性,多重性を持っている。それに対して,技術は人間の物質的生産(文明)の基礎をなしている。このように,科学と技術は本来別物であったし,役割も異なっていた(いる)。

産業革命を経て,科学は抽象的,普遍的な理論であると同時に,具体的で特殊な現実に役立つことがわかってきた。

・科学は系統的・全面的に生産過程に適用されるようになり,文化(精神的生産)というだけでなく,文明(物質的生産)に役立つという側面が強まった。

・科学の技術化,技術の科学化→「科学・技術」化

・大学や公共部門の科学者も実用の役に立つという意識が強くなり,それに迎合する姿勢も強まる。その中で,科学は資本の営利主義にますます従属するようになる。
→産学協同による「知の私有化,資本主義化」
→科学のスクラップアンドビルド。多様性,共同性が損なわれた。

・「ポスト・アカデミック科学」は,研究の場としての大学が知の共同体から知の企業体へと変貌を促している状態

・そこでは「科学的合理性」は失われ「技術的合理性」さらには「経済的合理性」が優先→科学は営利主義へ。

・長い先を見据えた,基礎的な研究や文化にのみ寄与する夢溢れる研究が廃れてしまう。こうして,素朴に,文化としての科学を享受したい市民,文化としての科学を取り戻そうとする科学者は差別・排除される。

・科学者や技術者と市民のネットワークが増えていけば,前述のように競争と営利主義に巻き込まれている「アカデミック・キャピタリズム」に対抗する共同,連帯の再生の手がかりをつかめるのではないか。

科学・技術研究者の責任

・科学・技術研究者は,科学・技術の発達をめざすだけでなく,人類の生命,自由,幸福(人間の神聖な自然権)のために貢献しなければならない。本来,彼らは人類からの支えを受けて研究者になり,そして研究できるのであり,研究バカ,専門バカになってはならず,見返り(利益や地位)を求めるべきでない。それを遂行しようとすれば,当然資本の営利主義と対抗せざるを得ず,緊張関係が生ずるはずである。しかし今日,多くの科学者は資本や権力に取り込まれ,研究目的や研究課題を資本の意向に合わせ, あるいは変更して研究費を獲得してきた。また,隠ぺい,改ざんに手を貸してきた。

・資本は,一方では,研究者を自由に研究させて成果を得ようとするが,他方では,他の資本との競争に勝つために研究者を囲い込もうとする。これは資本の自己矛盾である。その中で,研究者は資本と闘うことなしには,国民の利益を守るという積極的な倫理観に基づく社会的責任を果たすことはできない

2.科学・技術の倫理問題と二面性

・科学・技術は,外から善用も悪用もできるのではなく,その内側に相反する面を併せ持っている。しかも,生産や生活に役立つ面も大きいから,否定面を軽視することが多く厄介なのである

3.科学・技術者の競争と社会的責任

〇能力の「共同性」論(竹内章朗)
個人の自然性は社会的に規定されるのであり,人間の能力は人間個人の自然性と環境との関係によって生まれる。たとえば一般に,優れたスポーツ選手は,コーチやトレーナーに支えられて成長する。聴力障碍者のコミュニケーション能力は,コミュニケーション手段(手話や補聴器など)によって改善される。したがって,人間の能力の根源は「共同的なもの」であり,社会のあり方によって左右される。

・近代合理主義においては,人間はその理性によって,あらゆることを解決できると捉える。そこから科学・技術の進歩を至上とする思想が生まれ,今日の頽廃まで招いてしまった。こうして「真」,ことに科学的真が優越した価値として独走してしまった。しかし,真(真理)は価値の一つにすぎず,真を善,美と調和させることが必要であると唐木はいう。

 

差別論(3)心理学からみた差別②

今回読んだ論文

池上 知子(2014)差別・偏見研究の変遷と新たな展開.教育心理学年報,53,133-146.

前回までのブログ

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差別・偏見を解消する試み

・内集団と外集団の区分自体を変容させることによって集団間バイアスを低減できる

・交差カテゴリー化
集団間の対立軸となっている次元とは別の次元を意識化させることによって,対立を先鋭化させている次元の顕現性を低減する
→新たな対立軸を生むなどのリスク

・カテゴリーの区分自体の消滅
→結局,内集団・外集団区分の温存につながってしまいやすい

・偏見の自己制御モデル(Devine & Montieth, 1993)
偏見に基づく反応を表出すると,これを自ら抑止する心的過程が自動的に起動するしくみを個人内部に作りあげていく必要性

・リバウンド効果(Macrae, Bodenhausen, Milne, & Jetten, 1994)
偏見や差別に囚われないようにと強く教示されると,言語的記述内容のステレオタイプ度は減少するが,実際の相互作用場面では,逆に差別的な非言語行動が強まる

・相手のカテゴリー属性から目をそらさせる

新たな挑戦

接触仮説(Allport, 1954)
偏見は相手に対する知識の欠如が大きな原因であると考えられることから,相手と接触する機会を増やし,真の情報に触れれば,偏見はおのずと解消する

接触が効果をもたらすために必要な条件として,
①多数者集団と少数者集団が対等の立場で共通の目標を追求するような接触であること
②両者の接触が制度的に是認されていること
③両集団に共通する関心や人間性の認識を促す接触であること
が挙げられており,「協同学習」などで実践されている。

・集団間友情(Brown & Hewstone, 2005)
 互いの集団所属性を意識しつつも個人化された親密な交流を行うこと

・拡張接触(Wright, Aron, McLaghlin-Volpe, & Ropp, 1997)
内集団のメンバーの中に外集団のメンバーと親しい者がいるということを単に知るだけで,その外集団に対する態度が好意的になる

・仮想接触仮説(Crisp & Turner, 2012)
自分が外集団のメンバーとうまく相互作用できている場面を想像することによって,外集団への態度が好転する
→メンタルトレーニングのような機能が期待

・潜在認知の変容可能性に関する議論
Dasgupta(2013)によると,潜在認知がさまざまな情報への接触を通して無自覚に形成されるのであれば,そこには本人の意識的能動的選択の余地はなく, 周囲の情報環境がそのまま反映されているに過ぎないことになる。もしそうであるなら,個人の置かれている情報環境を変えれば,おのずと潜在レベルで形成されている連合ネットワークも変化する
→Gawronski & Bodenhausen (2011) による「連合命題評価モデル」においても同様の議論がなされている

最近の動向

書籍

差別や偏見に関するここ2~3年の書籍としては次のようなものが挙げられる。(あいにくほとんど未読なので順に読み進めていきたい)

レイシズムを解剖する: 在日コリアンへの偏見とインターネット

レイシズムを解剖する: 在日コリアンへの偏見とインターネット

 
紛争・暴力・公正の心理学

紛争・暴力・公正の心理学

  • 作者: 大渕憲一,田村達,福島治,林洋一郎,熊谷智博,中川知宏,上原俊介,八田武俊,佐々木美加,山口奈緒美,高久聖治,小嶋かおり,福野光輝,佐藤静香,渥美恵美,川嶋伸佳,鈴木淳子,青木俊明,浅井暢子,加賀美常美代,山本雄大,潮村公弘,森丈弓,戴伸峰,近藤日出夫
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 
悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

 
偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

 

論文など

最後に,本ブログを書きながらいくつか読んだものを紹介しておきたい。

三船恒裕, & 横田晋大. (2018). 社会的支配志向性と外国人に対する政治的・差別的態度: 日本人サンプルを用いた相関研究. 社会心理学研究, 34(2), 94-101.

同論文では,社会的支配志向性(SDO)と,政治的態度や差別的態度の相関を調べている。結果,日本人においても,SDOと外国人への差別的態度,政治的態度の相関が示されている。

SDOが高いほど移民の受け入れや国防費の減額、尖閣問題での話し合いでの解決に反対し、憲法9条改正や竹島問題での強硬策に賛成し、外国人に対するネガティブな印象や外国人を忌避する態度、在日朝鮮人に対する差別的態度が強くなる傾向が示された(三船・横田,2018)。

吉住隆弘. (2018). 生活保護受給者への偏見に関連する心理学的要因の検討. パーソナリティ研究, 27-3.

同論文では,生活保護受給者への偏見をめぐる心理学的要因の分析を行っている。その結果,国家主義との弱い正の相関,視点取得との弱い負の相関が示されている。

池上知子, 高史明, 吉川徹, & 杉浦淳吉. (2018). 若者はいかにして社会・政治問題と向き合うようになるのか. 教育心理学年報, 57, 273-281.

(論文というよりも教育心理学会の企画シンポジウムの資料である)
政治参加に関する論のようで「差別」をめぐるお話も強く関係している。非常に重要な知見の集まった資料である。

高史明. (2017). 差別という暴力 (特集 暴力: どこから生まれるのか? いかにして克服できるのか?). 心理学ワールド, (77), 13-16.

「フェアネス」という観点を中心に現代的レイシズムについて書かれた非常に読みやすい論考である。

・差別というのは,このようなフェアネスに関わる問題とみなすことができる。差別とは,もっぱら社会的集団のメンバーシップにもとづいて,そこに属する人々と他の人々の扱いに差をつけることを指す。メンバーシップにより異なる扱いをすることが是正すべき問題となるのは,フェアネスという規範に抵触したとき

・マイノリティの権利が保障されるようになることに対して,それまで特権的な地位にいたマジョリティが自分たちの権利が不当に脅かされていると感じることを基盤とする偏見は,他の様々なマイノリティに対しても見出されている。日本においても,昨今インターネット上で流行する「在日特権」の言説にみられるように,黒人に対する人種偏見と相似した在日韓国・朝鮮人への偏見が存在する

・マジョリティであるというだけでマイノリティよりも豊かな暮らしができて当然だと考える人々の「アンフェア」への怒りは,昨年末の米大統領選の帰結など,現代社会の力学を分析する上で欠かせない枠組みとなっている。これらの(それ自体がフェアとは言えない)「アンフェア」への怒りに対して,社会科学者は共感する必要も「寄り添う」必要もないが,理解する必要はあるだろう