A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

いじめの定義をめぐって

メモ

“教育

“教育"を社会学する

 

第4章「いじめの定義問題再考ーー『被害者の立場に立つ』とは」(間山 広朗)

なにが「いじめ」なのか

あるひとは,子ども同士の喧嘩,傷害事件,ゆすり,暴行などと呼ぶのが適切と思われる出来事をいじめに含めてしまっている。と思えば,子どもの対人的嫌悪の表現や,おとなだったら「忠告」とか「訓告」とみなされる行為をいじめ呼ばわりする人もいる。これは無茶だ。(菅野, 1997)

「被害者主権」的ないじめ定義

文科省の定義ではなんでも「いじめ」になってしまう(?)

文科省定義は「いじめ」を判断するための「客観的定義」などそもそもめざしていないと考える方が自然
→「いじめ被害者の側に立つ」ことをめざしている

*これまでのいじめ定義を概観した研究→池島(2009)

説得的定義の議論を踏まえて

・「暴力と恐喝があった」と述べることと「暴力と恐喝によるいじめがあった」と述べることは,異なる現実を構成しうる。......それらの出来事を貫く「意味」や「原因」などを想起させ,「責任」の所在や「対応」のあるべき姿を創発する機能を「いじめ」概念が果たしているように思われる→現実の単なる純粋な「記述」以上の活動

・ひとたび説得的定義が法令や行政規則に組み込まれると,それはあるグループをエンパワーし(empower),別のグループをエンパワーしない,もしくは無力な状態にする(disempower)可能性がある。

(参考→説得的定義 - Wikipedia家族的類似 - Wikipedia

いじめの「発見」をめぐって

「ストーリーを作る」という表現で示唆されているのは,教育現場の論理として,ある種の生徒間トラブルは,その事情が明らかになるにつれて,あるいはある方向性で事情を明らかにするにしたがって,「いじめ」として構築されるべき場合もそうでない場合もあるということである。 

→「いじめ」を扱う論理はエンパワーされない(disempower)まま=「被害者の立場に立つ」ということは,「被害者」以外の立場に対するエンパワーを削ることを意味する(?)

生徒世界の論理

大人の側が言う「いじめ」は彼らには「悪いこと」としてインプットされているが,それと現実の彼らの世界は簡単に結びつかないのだ(赤田, 2003)

・「私はいじめは良くないと思うがやっている人だけが悪いんじゃないと思う。やる人にもそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生達からみてとてもしょうもないものでも,私達にとってとても重要なことだってあるんだから先生たちの考えだけで解決しないでほしい」(竹川, 2006)

「被害者」の周囲が皆ディスエンパワーされようとしている状況のなかで,本当に「被害者」はエンパワーされるのだろうか。

「正当な」攻撃の許されない「学級空間」

竹川(2006)は,いじめ判断の困難さの要因の一つとして「攻撃的行為の状況的正当性の判断」を指摘している。これに基づけば「正当な」攻撃的行為があるということが言える。だが,学級という空間において,生徒は「正当な」攻撃手段を与えられていないのだと間山は指摘する。

「加害者」(となってしまう生徒)の立場に立つことは,「学級」という空間のこの規範的な性格から許されていない。結果的に,いじめという名の「不当な攻撃」が発生し,「加害者」と「被害者」が誕生する。 

まとめ

被害者主権的定義は,定義上は被害者が自らの経験を「いじめ」という記述のもとで語りやすくすることをめざしているが,実際の「いじめ認定」に関わる相互行為はーー「教育の論理」においても「生徒世界の論理」においてもーー異なる論理のもとにある。 

小論

「いじめはいけないことだ!」ということを知らない児童生徒はきっとほとんどいないだろう。だが「なにがいじめなのか」ということを知っている児童生徒は少ないんじゃないかと思う。いや,もっと言えば「なにがいじめなのか」知っている大人もいないのではないかと思うことがある。大人の世界にだって多くの「いじめ」がある。いじめの事例集をみれば分かるではないかと言われそうだが,一般的な定義では,ここでも指摘されてきた通り「被害者が『いじめ』を受けたと思えば『いじめ』である」であり,事例集はあくまで「いじめと定義されやすい行為集」くらいの位置づけなのかもしれない。定義には,具体的な「いじめ」行為が定められていない。結局,今の定義上では「なにがいじめなのか」はハッキリと断定することができないのである。こうしたモヤモヤの中で「そもそも判断のための定義じゃない」という筆者の指摘は非常にうなずけた。「いじめ」断絶をうたう大人たちと子どもたちの学校世界は実は乖離したものなのではないかということを考えさせられる論考である。子どもの生きる世界の「論理」でも,決していじめは肯定されていない。だが,抑圧的に「いじめ」を否定したがために,他者に対して「正当に」攻撃する方法を知らず,自分たちの行為をいじめと認定せずに,攻撃行動を行い,大人が「それはいじめだ」と抑圧的に決定する。それでは,永遠にいじめというものをなくすことはできないだろう。

今,必要なことは何なのか。自殺防止のために「命の教育」をしようとするような声もあるが,個人的には,人間関係の作り方について,もっと教えていくべきなのではないかと思う。嫌いな人とどうやって付き合っていくか。意見の合わない人とも付き合っていくか。そうしたことを身につける中で,自然と「いじめ」が減らせるのではないかと思う。具体的な意見とは言いがたいかと思うが,このような「誰かを嫌うことも認める」という姿勢が学校教育に必要なのではないかということを強く主張しておきたい。