A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

「科学的な正しさ」の裏にある陥穽

久しぶりに意見系のブログを書くことにした。雑文であることは否めないが,記録として残しておきたい。

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言ってはいけない」「もっと言ってはいけない」といった著書でも話題となっている橘玲氏が,現代ビジネスに寄稿された記事がおもしろかったので,まずはその記事を少しばかり紹介したい。

その前に本稿の寄稿のきっかけとなった「Intellectual Dark Web(I.D.W.)」については偶然にも以前このブログで取り上げたので,そちらのリンクも貼っておきたい。

atsublog.hatenadiary.com

さて,当該記事から気になる記述をピックアップ。

・最初はアカデミズム内の論争だったものが、やがて「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」へと変容していった。

・PC派はやがて、行動遺伝学者が提示する膨大な「エビデンス」を否定することができなくなった。その結果、エビデンスがあろうがなかろうが、知能と遺伝の関係は「言ってはいけない」と主張するようになったのだ。

・「現代の進化論」の専門家・研究者は生き物の群れ(社会性)と同様に人間の集団を研究するが、だからこそ自分を「善」、相手を「悪」の側に分類するような「群れ的思考」の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する。

・木澤氏はI.D.Wを「社会的価値観より科学的リアルを信奉するエビデンス至上主義」と述べているが、この定義には疑問がある。なにかを主張するにあたってエビデンスを示すのは科学の前提であり、エビデンスのない批判に価値はないからだ。

・「エビデンスがあっても「言ってはいけない」ことがある」との主張があるかもしれないが、その場合は、「科学的根拠があって自由に表現していいこと」と「科学的根拠があっても表現の自由が制約されること」をどこで線引きするかを決めなくてはならない。その境界線を決めるのは誰で、どうやって管理し、境界を侵犯した者をどのように罰する(刑務所に放り込む?)のだろうか。

・このように考えれば、どれほど不愉快でも、リベラルは「エビデンス至上主義」を批判することができない。こうしてリベラルは「ひとびとの良識」に訴えてPCコードを振りかざすようになり、それに対抗して「アンチリベラル」はエビデンスを前面に押し出すのだ。

わたしは基本的に優生思想や差別・偏見といった思想について警戒しながらも,様々な人間の間には生物学的差異があることを認める必要があると考えている。

科学的な知見(ここでは「エビデンス」と呼ばれているもの)が,暫定的なものであり絶対的なものではないことは否めないが,人間の特性が遺伝的な影響を受けることは数多くの研究で指摘されており,こうした知見を否定することは現実逃避にすぎないと思わされる。せめて科学での否定を望みたいところだが,そもそも現実的に考えて,遺伝の影響がまったくないことを今から証明するのは不可能に思える。

また,こうした知見に目をつぶることによって,見過ごされる問題があるような気がしてならない。行動遺伝学者の安藤寿康は,

行動遺伝学の知見を否定することは,すでに目の前に存在している不愉快な現象にベールをかけ,人々にそれを見えなくさせ,差別を放置させてしまうことにつながる

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,こうした観点からも,行動遺伝学や進化心理学をはじめとした生物学的知見を否定する必要はないと考えている。

橘の言う通り「エビデンスのない批判」に価値はない。無論,「エビデンス至上主義」なるものを否定することは容易ではないだろう。ただ,エビデンスという言葉に踊らされすぎることも良くないとは思うので,念のためくぎを刺しておきたい。

エビデンスの活用についても、エビデンスに基づいた(based)とエビデンスに情報づけられた(informed)の違いがあるが、日本では後者にほとんど注意が払われないまま前者が暴走している印象を受ける。

出典:東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由(畠山 勝太) | 現代ビジネス | 講談社(3/5)

エビデンスの蓄積そのものが問題ではないとしても,「エビデンスに基づいた」(Evidence Based)施策についてとなれば話は変わってくるだろう。もっとはっきりと言えばいくら「エビデンス」が至上であるとしても「エビデンスに基づいた」施策が絶対的な正しさを持つとは限らない。先にも引用したこの記事はエビデンスに基づいた教育について様々な示唆を与えてくれる。

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そもそも,行動遺伝学や進化心理学,さらには社会生物学といった学問が批判されたのはなぜか。「アメリ社会生物学会」の前身は,「アメリ優生学会」であったことが知られている。優生学といえば,ナチスホロコーストや,世界各地で行われた断種政策,日本でいえば優生保護法などが思い出される。こうした政策は,結果的に今からみれば「悪」とされるが,当時はこれが「エビデンスに基づいた」政策であったともいえる。ナチスホロコーストについては,完全に優生学に基づいていたかといわれれば疑わしい面もあるが,少なくとも断種政策は,優生学という学問の実践であったことに疑いはない。

優生学という学問が積み上げた「エビデンス」そのものは(多少の誤りがあったが)ここで橘の言う「エビデンス至上主義」的価値観に基づけば,それ自体が批判されるべきものとは言えないだろう。とすれば,批判されるべきはその実践,すなわち「エビデンスに基づいた」実践行為である。

実践行為が問題だったとしたときに,一つの大きな疑問にぶつかる。「言うことは実践に入るのか」である。もし,発言すること自体が「実践」に入ってしまうのであれば,やはり「エビデンスがあっても『言ってはいけない』時もある」と言える可能性が出てくる。このあたりは,記事の中で簡単に否定されて終わっていたが,もう少し複雑な背景があるとは言えるように思われる。なぜか。発言をすることが少なからず,国民(大衆)の実践を生む可能性があるからである。確かに先に紹介したような政治的実践とはレベルが異なるかもしれない。ただ,大衆レベルの実践が集まっていけば,何かしらの形での運動(実践)につながる可能性は否定できない。そこまでいってから実践ということはもちろん可能だが,発言そのものが「実践」の手前と見ることもできるのは否定できないだろう。もしかしたら「言ってはいけない」のは,単純なタブー視という理由だけではなく,そこで言い始めた時にどのようにエスカレートしないようにストップさせることができるか定まっていないからではないだろうか。

青木(2015)の指摘を紹介しておきたい。青木によれば,近年は科学の技術化・技術の科学化が起こり,科学と技術の「科学・技術」化が起こっており,そこに営利主義が取り込まれ,科学的合理性ではなく,技術的・経済的合理性が優先されていると指摘している(詳しくは,科学者の社会的責任をめぐって - A Critical Thinking Reed。科学が“実践”のための学問化する中で,技術的・経済的合理性が優先されていくことは,「ナチズムの再来」の危険度が上がっていると言えるかもしれない。優生学社会生物学の時代だけでなく,現在も遺伝と行動に関する研究の応用には様々な問題点がある。そこには倫理的な問題にとどまらず,実践の難しさがあるといえるだろう。

安藤(2018)の指摘も紹介しておきたい。

出生前検査の普及や選別的中絶の増加は、単に実際に障害のある人々に「もし今の時代に自分がいたら、自分は産んでもらえなかったかもしれない」と自分の存在を否定されたような感情を引き起こすだけでなく(これだけでも「障害者差別ではない」とは言い切れないが)、実際に障害のある人々をよりマイノリティにし、より生きにくい社会を現出させてしまう。出生前検査を受けることが当たり前になり、障害が見つかったらほとんど全員が中絶をしてしまう世界とは、それがいかに「個人の選択」という見せかけをもっていようとも、あからさまな優生思想に基づいた国家的な優生政策によってもたらされるのと同じ世界なのである。

詳しくは,優生思想をめぐる研究から学ぶ #2 - A Critical Thinking Reed

イギリスでは出生前診断の割合が高まった結果として,障害者への差別的状況,またこれから生まれてくる障害者への支援の低下という形で「優生思想」的な世界が広がっていると指摘されている。賛否は差し控えるが,「出生前診断」をめぐる問題が,そう簡単なものではないことは明らかである。

更に,偏見の正当化ー抑制モデル(Crandall & Eshleman, 2003)においては,偏見を正当化する根拠として,社会生物学的な知見が挙げられている。橘の言うように,科学者たちが「自分を『善』、相手を『悪』の側に分類するような『群れ的思考』の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する」のだとしても,大衆はそのような思惑には反して,偏見を表出することの正当化に用いる可能性が,このモデルからは指摘されている。意識的ではなく,ほぼ自覚のない状態で偏見に基づいた差別的言動が表出される場合もある。こうしたものに手を打たなければ「行動遺伝学者(進化心理学者)たちは差別に加担している」というような批判にもつながりかねない(詳しくは,差別論(2)心理学からみた差別① - A Critical Thinking Reed

橘の言葉を借りながら,私の考えを書いていきたい。PC派のように“現実”から目を背けることは現実逃避にすぎず良い判断とは言えないだろう。対して,エビデンス至上主義は,確かに科学的な蓄積としての「エビデンス」の尊重という意味では良いものの,それを実践に活かす上での問題は大きくあり,科学者の意図しない形で実践されていくリスクが,科学の科学・技術化も相まって高まっていると言える。こちらも無条件に信奉していいような状況ではない。気づけば人権が侵害されるかもしれない。「生きにくい」社会を作ることに,こうした「科学的な真実」が貢献する可能性は十分にある。

ということは,今後必要なのは,PC派とエビデンス至上主義派の対立ではないだろう。悪用をしないために何ができるかを徹底的に検証することではないだろうか。安藤は,

遺伝要因をふまえた上でのより望ましい社会システムの構築,あるいはより社会的に妥当な考え方の成熟の部分は,行動遺伝学が直接取り組む課題ではない

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,行動遺伝学の範疇ではなくても,行動遺伝学者が取り組むべき課題であると思うのは僕だけだろうか。Alcock(2001)は,科学者の責任として次の3つのことを挙げている。

①検討している仮説が検証できるように十分に証拠を集めること

②引き出した結論が間違って解釈されたり,その後,間違って利用されたりしないようにして,それを発表すること
・この目的のためには,研究者は,科学的な発見が暫定的な性質のものであること,再現性が必要であること,誤りの可能性もあることなどを承知していなければならない。これらはみな,どんな科学者にとっても,他人の研究にあてはめるのは容易だが,自分の研究となると,なかなかあてはめるのが難しいものである。

③科学の誤用が起こった場合には,それを指摘すること

詳しくは,『社会生物学の勝利』より(メモ) - A Critical Thinking Reed

科学者の責任は,ただ自然現象について研究することだけでなく,結論の誤用を防ぐように発表し,間違っていたらそう指摘することまでを含むとAlcockは指摘している。この意見に従えば,「エビデンスで蓄積されてきたことは正しいんだ」とばかり主張し続ける科学者たちはその責任を果たしているとは言い難いのである。そもそも,科学的な発見は暫定的なものであるという主張が乏しく見え,むしろ危険とすら思える。

橘は,ポリコレ論争について「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」と表現していたが,そう表現してしまうと問題の本質が見失われてしまう。むしろ「道徳・倫理(moral)と科学(evidence)」の対立としてみていかなければならないと思われる。さらに,そのような視座に立てば,イデオロギーとの対立も自然と消滅していくのではないだろうか。

科学者は,安易な「イデオロギー」との対立構造に踊らされずに,Alcockの主張したような科学者としての責任を果たす方向にアプローチしていく必要があるのではないだろうか。専門である生命倫理学者などが中心となるべきであることは否めないが,科学者は倫理学の知見に対しても誠実に向き合い,責任を果たしていく姿勢をより前面に強調してほしいように思う。科学的な正しさの裏には「実践におけるリスク」という陥穽がある。科学的な正しさだけを主張することから,実践における倫理的課題性にも目を向けることが科学者に必要な心構えではないかと,個人的には考えている。