A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

いじめ問題をめぐる社会学の視点

今回読んだ本

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

第11章「いじめ」問題がつくる視角と死角より

いじめ件数をめぐって

・社会の目を引く「いじめ自殺」事件が起きて,それを新聞などのマスメディアが多くとりあげた年度ーつまり,いじめに対する社会の関心が高い年度ーほど,いじめの認知(発生)件数が多くなる

・そうした認知(発生)件数と新聞記事数の共振性は,近年になるほど高まっている【p.196-197】

いじめ定義の困難性

・北澤(2015)の「いじめの見えにくさ」に関する見解
そもそも「見えにくい」とはどういうことなのだろうか。(中略)「けんか」と「いじめ」,「ごっこ遊び」と「いじめ」との境界問題にみられるように,判断の難しさを見えにくいと表現することが多いのではないか。【p.201】

 

・「いじめが教室で起こった」と認識することも,ましてや,その認識を教室の人々全員が共有することも難しい。

・「いじめ」は教師や傍観者が見て見ぬふりをして見逃されるというよりも,むしろ教室にいる人々がその状況をどのように定義するかのズレによって見逃されているかもしれない

・「いじめ自殺」事件において,それを「いじめ」と定義できているのは,「被害者が苦しんでいた」という定義に即してというよりもむしろ,自殺というショッキングなできごとを通じて,被害者の内面が劇的なかたちで示されたために,外部の人々(マスメディアなど)がその事件を「いじめ」と事後的に呼んでいる部分が大きい。

・いくら文部科学省がいじめを被害者の観点から定義したところで,当の被害者がそれを自覚したり訴えたりすること,そしてまわりの者が被害者の内面を知ることは,容易ではないのである【p.202-204】

 

・北澤(2015)によれば,教師は,いじめの「発見者」から「定義者」となることが求められる。すなわち「いじめ」を適切に発見できるかどうかではなく,どのような「事実」を立ち上げて「物語」を制作し,どのようにしてその物語を当事者たちに受け入れてもらえるようにするかということである【p.212】

死角をめぐって

・「スクールカースト」(鈴木, 2012):生徒間のインフォーマルな序列関係。「理不尽」ではあるが,「いじめ」ではない関係。

・優しい関係(土井, 2008)
人間関係上の対立や葛藤を避けることを最優先する人間関係

・「いじりーいじられる関係」や「スクールカースト」は,こうした「優しい関係」に基づいた,言い換えれば,人々が空気を読み合うことによって形成・維持されるもの【p.205-208】

社会的差別との連関

スカンジナビア圏やイギリス,アメリカなどでは,いじめをたんなる人間関係のトラブルとしてしまうのではなく,社会的な差別の問題にかかわって理解しようとする向きが強い(森田, 2010)

・日本の場合,いじめを学校教育の問題としてとらえる傾向にある。だから,いじめの原因を,教室の構造や人間関係に求めたり,現代の若者のコミュニケーション特性に求めたりするのである。

・〈インキャラ〉という言葉が,教室内部の力学だけでなく,教室の外部にある力学,すなわち性差別や同性愛嫌悪という社会的差別の問題とつながっている。【p.208-211】