A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

優生学はアクセスの問題?

おもしろい記事を読んだ。

近年の遺伝子工学優生学についての論考である。かなり示唆に富むような記事だったので、少しばかり書き残しておきたい。

現代社会に根づいた"優生思想"

中国での遺伝子操作ベビーの話は非常に物議をかもした。当然ここまで来ることは容易に想像がされていたのだが、いざそのようなことが起これば社会的な注目も集める。今後どうなっていくのかを考えていく中で倫理的な面について考えることは重要であるだろう。

・極端なシナリオではあるが、『ガタカ』や『フランケンシュタイン』はわたしたちに、子どもたちがみな自身ではコントロールできない要因に基づく差別に対して脆弱であることを教えている。人工的な生殖技術によって生じる状況もそのひとつ

優生思想としばしば絡めて論じられるのが「差別」の問題である。かの有名なナチスの政策もユダヤ人の迫害や障害者などをはじめとした虐殺、いずれも「差別」的な思想に基づいたものと言える。だからこそ、学者が「黒人と白人の知能には遺伝的な差異がある」なんて言った日には大バッシングを浴びるわけである。これは本人にはコントロールできない状況による「差別」を生む可能性が高いからである。先の学者の論は実際に正しいのかもしれないが、優生思想や差別に関する倫理的な議論が整っていない状況では、お話として「そうではない」ということが求められているようにも思う。

・受精卵の遺伝子編集が進展すれば、論理的に考えて、やがて社会は優生学によって劇的な変化を遂げるだろう。

・そして「完璧さ」についての単一の見方に適合するようつくられた人々が、何世代にもわたって誕生することになるだろう。これは明らかに恐ろしい展望である

これについて、個人的にはよくわからない部分がある。まず「優れた遺伝子」とは何なのかという問題から始まる。完璧な人間は遺伝子操作によって作ることができるのだろうか。むしろそのようにして全ての子どもを遺伝子操作によって完璧に作ったとしても本当にすべての子どもが完璧な人間になるのだろうか。むしろ、遺伝的要因が統制されるので、環境的要因の差しか存在しなくなり、「東大に行けないのは子育てのせい」言説が今以上に広がっていくような気がするのは私だけだろうか。高度な技術で遺伝子操作が行える社会は、むしろ子育てのプレッシャーが大きくなる「生きづらい」社会になるのではないかと私は危惧している。そして、誰もが素晴らしい子育てができるわけではなく、すべての人間が素晴らしい人間になるとは到底思えない。行動遺伝学は遺伝決定論ではない。環境要因がある以上、完璧になるような遺伝子操作を行っても、すべての人間が完璧な人間になるかと言われたら私は(現在の知見では)否定するしかないだろう。

・わたしたちが映画などで目にする科学的優生学は、たいていはとるに足らない何か、つまり西欧的な美の基準や、健康の普遍的指標を維持するためのもの

・もしテクノロジーが、台頭する白人至上主義に対して劣勢を強いられている人々にとって「よりよい結果」を生み出すために本格的に使われるとしたらどうだろう

・現実的には、こうした技術の導入には高い壁がある

HIV感染率が最も高い地域は、人々が医療へのアクセスに最も困難を抱えている地域でもあるから

・世界のほかの地域に目を向けると、すでに「遺伝的な改良」は、ありふれた選択肢のひとつ

・処置へのアクセスには社会的な偏りがあり、すでに遺伝子に基づく階層制度を生み出している

・着床前遺伝子診断に加え、体外受精へのアクセスの不平等が、20世紀初頭にあった優生思想(「子孫を残すべき優れた人々と、そうでない人々がいる」という思想)を復活させた

体外受精をとりまく現在の法規制と政策は、新たな優生学に等しい

・一部の人だけが利用でき、残りの大勢には手が届かない高価な処置になっているから。社会経済的状況や、人種、民族、婚姻関係の有無、性的志向、障がいといった集団特性によって、生殖技術へのアクセスが制限され得るから

・真の倫理的課題は、医療へのアクセスをいかに万人に行き渡らせるか

遺伝子操作にとどまらず、着床前診断体外受精といった技術にはアクセスにおける不平等が明らかに生じていることが指摘されている。これをこの筆者は「優生思想」であると指摘しているが、そもそも優生思想とは何かという問題に直面する。

では、少しばかり脱線して「優生学」や「優生思想」の定義について何人かの学者のものを紹介したい。

優生学とは、応用科学に分類される学問の一種であり、「人類の遺伝的素質を向上させ、劣悪な遺伝的素質を排除することを目的とした学問」と定義されている[1]。

一般に優生学創始者とされるイギリスのフランシス・ゴルトンは、1904年に開催された第1回イギリス社会学会において「優生学とは、ある人種(race)の生得的質の改良に影響するすべてのもの、およびこれによってその質を最高位にまで発展させることを扱う学問である」と定義している[2]。社会学者の立岩(2001)は、優生学を「人間の性質を規定するものとして遺伝的要因があることに着目し,その因果関係を利用したりそこに介入することによって,人間の性質・性能の劣化を防ごうとする,あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場,社会的・政治的実践。」であると述べている[3]。

哲学者の森岡(2001)は、優生思想を「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方」と述べている[4]。障害学者の野崎(2011)は、優生思想とは「望ましい生とそうでない生とを峻別し、望ましい生を奨励し増やそうとする一方、望ましくない生を忌避し減らそうとする思想であり、またその思想に基づいた知の体系、運動である」と定義している[5]。日本障害者協議会の代表などを務めている精神保健福祉士の藤井(2018)は、優生思想を「身体的・精神的に優秀な能力を有する者の遺伝子を保護し、能力の劣った者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に残そうという考え方」と述べている[6]。

論者によって様々な定義がなされるので、一筋縄ではいかないが、こうしたものがいわゆる「優生学」「優生思想」なのである。今回の記事での指摘は、藤井(2018)の定義に基づくと分かりやすいように思う。つまり、一部の人(富裕層)にのみアクセスが許されることによって、富裕層という"優れた"生をよい形で残すことが奨励され、同時にそれ以外の人々(特に貧困層)といった"劣った"生に対しては十分なアクセスをさせないことで"劣った"生はよい形にならなくてもよいという状況になっていると言えるのだろう。

では、記事の締めくくりのように「アクセスを平等にすれば」優生思想の問題を解決できるのだろうか。と言われれば、そんなに簡単な問題でないことはすぐにわかる。そもそも、アクセスを平等にしたところで、優れた生・劣った生というように考えてしまう問題点は解決していないし、むしろすべての人がアクセスを持つことによって、生の優劣はいつしか当然のこととして受け入れられ、出来るだけ優れた子どもを生むことが人間の義務となる時代が来るのかもしれない。

もちろん、優生思想を絶対的に否定すべきものなのかどうかから議論すべきなのは間違いない。しかし、同記事での指摘のように、アクセスが一つの"優生思想の顕在化"であったとしても、それだけを解決したところで、この問題が解決しないのは当然である。

[1]デジタル大辞泉小学館)より
[2]米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝「優生学と人間社会」講談社現代新書,2000.
[3]社会福祉士養成講座『社会学ミネルヴァ書房 より(立岩真也「優生学について・3――不妊手術の歴史」
[4]森岡正博「生命学に何ができるかー脳死フェミニズム・優生思想」勁草書房,2001.
[5]野崎泰伸「生を肯定する倫理へー障害学の視点から」現代書館,2011.
[6]藤井克徳.(2018) 「わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想」合同出版,2018.