A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

優生思想をめぐる研究から学ぶ #2

論文

安藤泰至. (2018). 優生思想と 「別のまなざし」: 宗教・いのち・障害と共に生きること. 宗教と社会貢献, 8(1), 3-23.

優生思想は特殊な人の「思想」か?

①断種

20世紀前半にその研究[ドイツの「人種衛生学」]は世界的に普及するが、そこで「優れた子孫」を増加させるための「促進的優生学」に対して、「劣った子孫」を減少させる「抑制的優生学」によって推奨されたのが、「劣った子孫」の出生防止のための断種(不妊手術)である。

こうした断種は世界各地で合法化されていったことが指摘される。

②虐殺

これについては、相模原障害者殺傷事件やナチスドイツのT4作戦が出される。更にその源流として、ドイツの法学者カール・ビンディング精神科医ルフレート・ホッヘによる1920 年の著書『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』が示される。

だが、こうした「虐殺(安楽死政策)」は、優生思想(人種衛生)ではないと当時の学者は主張していたという。

ドイツの優生学者(人類衛生学者)たちが、既に生きている病者や障害者たちを「安楽死」の名のもとに殺害し、社会から抹殺するという方法には反対していた

優生学とは、「劣った人間」とされる人々が生まれないようにするために、遺伝学的な研究とそれに基づいた技術を開発することにあり、そうした人々を生後に殺害によって排除することが許されるなら、優生学者の存在価値はなくなってしまう

③新型出生前診断と選択的中絶

これらは、国家的な優生思想ではなく、個人の優生思想であるところに①②との違いがある。

出生の阻止という点では不妊手術と似た点はあるものの(優生保護法下では半ば強制的な人工妊娠中絶も行われていた)、両親の病気や障害が問題になっているのではないし、「中絶イコール殺人」といった考えをとらない限りは障害者の殺害とも言えない。もちろん、妊娠中絶自体が個人の選択として認められているなかで(ただし日本の現在の母体保護法では「胎児の障害」を理由とした中絶は厳密には違法である)、障害をもって生まれてくるであろう子どもを産まないという選択は、「障害者は不幸だ」とか「障害者は生まれてこない方がいい」といった優生思想とは無関係だと主張する人々もいる。

まず、こうした違いを捉えることの最も重要なポイントは、的外れな議論をしないようにするためであるだろう。つまり、新型出生前診断の議論をする際に突然ナチスドイツを引き出すのはあまり望ましくないだろうということである。もちろん、優生思想として考えるならば、①②③のどれもつながっていることは疑いがないし、完全に別にして考える必要はないだろうが。

内なる優生思想をめぐる分類

(1)生まれてくる子どもには障害がない方がいい。五体満足を望むという親
の希望
(2)(出生前検査で)実際に胎児が障害をもって生まれてくることがわかっ
た場合に、中絶を選択するという行為
(3)そういう場合、自分であれば中絶する(と決めつける)という考え
(4)そういう場合はみんな中絶した方がよい、それが子どものためでもあれ
ば親のためでもあるという考え
(5)「障害者は不幸だ。生きていく価値はない」という考えに基づいた社会をつくる

これらの(1)~(5)では明らかなレベル差があるわけだが、どこを超えたら「障害者差別」「優生思想」という線を引くことはできないだろうと安藤は指摘している。こうしてみれば、先ほどの③も現実的には優生思想と関連があることは否めない。

ここで、安藤はイギリスの例を示し、次のようにまとめる。

出生前検査の普及や選別的中絶の増加は、単に実際に障害のある人々に「もし今の時代に自分がいたら、自分は産んでもらえなかったかもしれない」と自分の存在を否定されたような感情を引き起こすだけでなく(これだけでも「障害者差別ではない」とは言い切れないが)、実際に障害のある人々をよりマイノリティにし、より生きにくい社会を現出させてしまう。出生前検査を受けることが当たり前になり、障害が見つかったらほとんど全員が中絶をしてしまう世界とは、それがいかに「個人の選択」という見せかけをもっていようとも、あからさまな優生思想に基づいた国家的な優生政策によってもたらされるのと同じ世界なのである。
このように、個人の「選択」は真空で行われるのではなく、特定の社会の価値意識や制度の下で行われる。ある選択をしてしまったら社会的なケアやサポートが受けにくくなるような状況の下では、選択は特定の方向にドライブがかかった「いのちの選別」となり、容易に強制に近いものとなる。

さらに論は「安楽死」全般的な話へと発展していく。

現在その合法化の是非が問われているような広い意味での安楽死は、基本的には本人の意思に基づいたもの(死の自己決定)であり、ナチスの「安楽死」のような病者や障害者の抹殺ではない。にもかかわらず、障害者運動にかかわる人々の多くが安楽死尊厳死に反対するのは、「障害をもって生きること」が実際以上に不幸なものであるという偏見や、そうした障害とともに人間らしく生きていくのに必要なケアやサポートの不備という状況のなかで、個人が「選択」させられることは、障害者を「死なせる」方向へ追いやってしまうということを彼らが熟知しているからである。

そして、安藤はこのようにまとめる。

したがって、「劣った人間」や「生きる価値のない命」というレッテルのもとで国家的な優生思想に基づくナチスの強制的「安楽死」と、「死の自己決定」という考え方に基づく現代の安楽死尊厳死はまったく別の問題であるとは言えない。個人が「自分がこのような状態になったら死にたい」と思うことと、個人の権利として社会がその死を是認することとの間には少なからぬ差がある。後者には少なくとも「そのような状態になったら死にたくなって当然だ」という社会的な価値判断が入り込んでいる。安楽死尊厳死もまた優生思想とは地続きなのだ。

自己決定という名の下で見過ごされてきている問題が多くクローズアップされているのでやや多いのだが引用させて頂いた。特に、自己決定をする際に社会的な影響を受けるというのは重要な指摘である。先ほど一瞬だけ言及された相模原障害者殺傷事件において、被害者の氏名の公表が行われなかった背景として、一部の被害者家族がそれを望まなかったという記事があったことを思い出す。それは、単純に読み解ける背景でないのは間違いないが、一つの理由として、社会がまだまだ障害を持った方に対する偏見を持っていることは否めないのではないだろうか。実際、あの事件の時に容疑者に「共鳴」した声が一部であがった。社会の中に潜在的に存在し続けていた差別が顕在化したのである。こうした偏見のある中で「自己決定」というものは本文で指摘された通り、すでにバイアスがかかっているのだろう。見えない差別、内なる優生思想、こういったものと適切に向き合う土壌ができない限り「自己決定」を盾に逃げ続けてはならないということを示唆している。

 

安藤は続いて、このように述べていく。

自己コントロールを強く課せられたり、自力でできることが少なくなること(他人に多くを依存せざるを得なくなること)が極端に自尊感情を低下させるような社会のもとでは、「このようにして生きていることには意味がない、人間としての尊厳がない」と感じる閾値が低くなることを意味する。人間の価値を「自力でなにかができる能力」だけに置くような社会は、そうした能力を欠いた障害者たちの生の価値を低めるだけでなく、「健常者」もまたそうした能力を失うことへの極度の不安に苛まれる社会でもあるのだ。

さらに、

優生思想というものが、障害者運動が「医学モデル」として批判するような障害についての見方、すなわち障害があるということを「その人個人の性質」にのみ帰すような見方と強い親和性をもっている

現代の医療をめぐって私たちに張り巡らされている「生命操作システム」は、一方では死や有限性の否認(より長命に、より健康に(病気や障害がなく)、よりできることが多く)に向けられているように見えて、他方で、医学・医療ではどうすることもできない重病者や重度障害者をよりすみやかに死へと誘導するようなベクトルを同時に内包している

としたうえで、次のように節をまとめる。

私たちの生老病死の苦悩について、それを医療技術によって解決しようとするような方向(医療化)は、そうした苦悩を医学・医療によって対処可能な問題に還元することであり、そこでは医学・医療によるものの見方ではとらえられない「いのち」への問いがこぼれ落ちてしまう

医学・医療による対処が不可能になったときに、人をすみやかに死なせるような言説や実践のシステムもまた、そうした医療化された生命操作システムの一部である

そうしたシステムを支えているのは、自分の生を自分の思うようにコントロールしたいという私たちの願望である。そうしたシステムにがんじがらめになっていくことで、私たちは自分が「自由に選択」し、自分の生の可能性を広げているように見えて、実は私たちが出会いうる多くの可能性を閉ざしているのではないだろうか。

そこでは、私たちがコントロールするのではなく、むしろ私たちがそれに気づき、そこから学ばなければならない「いのち」への視線、私たちが予期せぬものに出会ってそれを「いのち」の恵みとして受け取るようなあり方が見失われていくのではないだろうか。そうしたあり方こそ、人間が「宗教」という形で伝承してきた重要な態度であるように思われる。

最後に「医療化」というキーワードを通して本節を終えた。確かに「医療化」と優生思想は非常につながりの深いような気がする。昨年話題となった「自己責任論」は障害を持った方を生きにくくするだけでなく、健常者にとっても常に不安との戦いを強いられるということなのであろう。こんな記事を紹介しておきたい。

www.tokyo-np.co.jp

記事の中では、次のような言及がある。

 そんな石原が、いま自らの肉体的衰えに苛立(いらだ)ち、死の恐怖にさいなまれている。『文学界』10月号に掲載された斎藤環(たまき)との対談「『死』と睨(にら)み合って」の中で、石原は三年ほど前に患った脳梗塞の後遺症に悩まされていることを告白する。

 彼は「記憶中枢の海馬がやられちゃった」ため、字を忘れてしまったという。ワープロ入力は可能なものの、手で字を書くことが難しく、時にひらがなを書くこともままならない。彼は対談の中で「怖い」という言葉を繰り返し、「自分で自分にイライラする感じ」と述べる。最近は鏡に向かって「おまえ、もう駄目だな」とつぶやくという。

(中略)

 いま、石原はおびえている。それは自らが「不要なもの」と見なしてきた存在に、自らがなろうとしているからだ。

弱者を否定する発言をしていた者が弱者となり「怖い」と告白する。だが、同記事内では自らの差別的思想は変わっていないことも指摘される。絶対に曲げることのできないイデオロギーなのだろうか。いや、おそらくプライドが許さないのだろう。相模原障害者殺傷事件で大量殺戮を実行した犯人は、もはや「精神障害」なのかもしれない。つまり、彼自身が自らの精神障害を自覚すれば彼自身もまた「死ななければならない存在」となるのかもしれない。弱者を否定する社会とはそういう社会である。どこぞで「生産性」発言をした女性国会議員にはおひとり子どもがいるというが、そもそも2人以上の子どもを作らなければ日本人口の減少に寄与していることになってしまう。では、ご自分はそれでも「生産性のあった」人間といえるのだろうか。2人という基準を定めてしまえば彼女もまた「生産性のない」人間なのかもしれない。
私は、石原慎太郎が「不要なもの」とはみなさないし、相模原事件の犯人を「死ななければならない存在」とはみなさないし、某女性議員を「生産性のない人間」ともみなさない。だが、本人たちは自らの言葉によってまた自らがそういった存在になるという不安と闘わなければならないのではないだろうか。
優生思想が良いか、悪いか。そもそも何が優生思想で何が優生思想でないのか。こうした議論は繰り返される必要があるだろう。また、当たり前のように「医療化」や「自己決定」を肯定していくと、現在のような”バイアス”のある社会ではバイアスのある結果しか生まないことも同時に言える。この論文で指摘された見過ごされかけていた現状というものは、私たちの不安を取り除き「よりよく生きる」ために考えなければならないことのように思われた。