A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

ドイツ優生学をめぐる議論のメモ

ナチズムの2つの地層

市野川(2000)は,ナチズムには,相互にはっきり分かれる二つの地層があったと指摘している。一つは,ユダヤ人などに対する人種差別と政治的迫害の層,そしてもう一つが強制不妊手術や安楽死をもたらした優生政策の層である。こうした二つの地層は重なり合っていたが,また同時に大きな溝があり,人種差別や政治的迫害が行われていなくとも,ナチスと類似した優生政策が行われていた国があると市野川は指摘する。

ドイツにおける優生学の発展

市野川(2000)は次のように説明している。

優生学が医学的にも説得力をもつようになった一つの歴史的道筋は,おおよそ次のようなものだ。まず,細菌学の発達によって多くの伝染病が克服可能なものとなる。外科技術の進歩,新薬の開発なども,さまざまな病気の克服に大きく貢献した。さらに社会環境の整備を通じて,罹病率や脂肪率を引き下げる努力がなされた。しかし,それでもいくつかの病や障害は克服できないものとして残った。少なくとも今世紀初頭において,「遺伝」という概念は,厳密な科学的概念としてよりも,克服できないこれらの病や障害を説明する一つのマジック・ワードとして多分に機能した。(中略)

そして,優生学の課題は,遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人びとがその生命を再生産する回路を,何らかの方法で遮断することによって,彼らの病や障害そのものを将来,社会から根絶することに,求められたのである。

こうした思想のもと,ヴィルヘルム・シャルマイヤーは,「治療」中心だった医学のあり方を「予防」重視のそれに変え,なかでも子どもをつくる生殖の過程で疾患や障害が次世代に伝達されないようにしなければならないと説いた(市野川, 2000)。同様の指摘は,グリンネル(2009)にもみられ,「優生学は,医学の目標を,「人々をよりよくする」ことから,「よりよい人々にする」ことに変えてしまった。」と述べている。

ナチスの断種法における「自己決定」

市野川(2000)によると,ナチスの断種法も個人の自己決定を否定したわけではない。原則はあくまで個人の自己決定だが,法的な決定能力や同意能力が期待できない者については,法定代理人や官医,本人が施設に収容されている場合にはその長といった人びとによる代理の同意や決定でよく,この場合には強制措置も認められるという論理であり,こうした論理は他の国々にも広く見られたものでナチス特有のものではない。

当時,ドイツにおいて不妊手術を受けたものの多くは「先天性精神薄弱」「精神分裂症」であり,「法的な決定能力や同意能力を期待できない者」とは,こうした者を指していたことを推察できる。

精神障害や知的障害を持っている者の自己決定については現在も議論が続いている。このような話はこうした障害にとどまらず,認知症でも問題視されているし,そもそも何をもって純粋な「自己決定」と言えるのかは,社会全体に関係のある話である。近年は「意思決定」という言葉もあり,ますます議論は複雑化しているように思われる。

関連リンク:http://jnea.net/journal_item/journal/1001/img/10-1_115-118.pdf
(『患者が意思決定をできないとき』日本看護倫理学会第10回年次大会より)

参考文献

米本昌平, 松原洋子, 橳島次郎, & 市野川容孝. (2000). 優生学と人間社会. 講談社 (講談社現代新書), 51-106.

フレデリック・グリンネル. (2009). グリンネルの科学研究の進め方・あり方 ―科学哲学・新発見の方法・論文の書き方・科学政策・研究者倫理・遺伝病・生命倫理・科学と宗教. 白楽ロックビル(訳). 共立出版, 140.