A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

行動遺伝学の倫理

はじめに

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このブログの続き。前回は歯切れの悪いところまでしか書けなかったので,今回は別の書籍からもう少し詳しく書いてみたいと思う。

遺伝と環境の心理学―人間行動遺伝学入門 (心理学の世界―専門編)

遺伝と環境の心理学―人間行動遺伝学入門 (心理学の世界―専門編)

 

行動遺伝学の意義

同書「遺伝と環境の心理学」は人間行動遺伝学の教科書的な位置づけでありながら,10章に「行動遺伝学の倫理」と題して倫理問題について安藤の見解が述べられている。ここでは一部紹介していきたい。

・行動遺伝学の第一原則「あらゆる人間の行動は遺伝的である」という命題は,心理学のみならず社会科学全般に対するパラダイム転換を迫るもの

・人間が社会の中で見せる行動は,基本的に自由意志と,その時に個人の置かれた物理的,社会的環境によって決まるという考え方を,依然として暗黙の前提としている社会科学者が多い

・遺伝と環境は,ほとんどの場合,その両方がそれぞれに重要性をもって個人差に寄与している。どちらか一方で説明しようとすることは,ほとんどの場合,誤りである。【p.268-269】

まず,行動遺伝学が主張したいのは「環境だけですべてが決まるわけがない。遺伝も環境もである」ということであるのだろう。安藤は遺伝を無視した学者が多いと批判的だが,実際どのくらいそういう人がいるのかは分からない。研究として取り上げないだけの人もいるだろうし,多くの人がむしろ暗黙のうちに「遺伝の影響はある」と感じているが口に出さないだけではないかと思うところはある。このあたりは筆者の主観であるだろうから責めたてるのもナンセンスだとは思うが。学問的意義もここにあると主張したいことが読みとれる。

行動遺伝学の倫理 -優生学をめぐってー

行動遺伝学に対して批判が集まる理由は安藤も指摘しているが,その前身に悪名高いナチスの「優生学」があるからであろう。(私としてはナチスの政策そのものは学問的であるとはいえず,優生学と呼ばずに「優生学の悪用」とでも呼ぶべきであるとは思うが)

ナチスの暴挙, あるいは今でも起こりうる遺伝子言説を根拠とした差別や偏見は,絶対に許してはならない。これは科学の問題ではなく,人道と倫理と人の尊厳の問題である。

・遺伝子検査のビジネスが立ち上がり,パーソナルゲノムの時代の到来を目前にしたわれわれ現代人は,すでにこの問題と新たな形で直面することを余儀なくされ始めている。【p.270】

安藤は,遺伝学の暴走や悪用を「科学の問題ではなく」という言葉を使っているが,根本には科学としての遺伝学があるのだから,少なくとも「科学者の問題」ではあるということを補足しておきたい。科学の問題ではないから科学者(研究者)は倫理的な問題や実用上の課題から目をそらしていいなんて議論にされることだけは困る。ただ安藤の指摘する通り,人道・倫理・尊厳といった観点から検証し,そして現代社会においてはさらに批判的に考え続けなければならない問題であることは疑いがない。

・かつての優生思想,優生政策は,その科学的認識の不完全さもさることながら,論理的にもそうした誤謬(「事実」の認識から「価値」の判断を導き出すという”自然主義的誤謬”)を犯していた

・差別してはならない(価値判断)から遺伝の影響はない(事実認識)と結論づけるのも,逆の意味での誤謬である

・皮肉なことに今は,かつて正義であった優生学批判の主張をすることそれ自体が,優生思想への荷担になっている

・遺伝による社会的格差や差別は,すでに現実に存在している。われわれの住むこの社会はすでに優生社会なのである

・行動遺伝学の知見を否定することは,すでに目の前に存在している不愉快な現象にベールをかけ,人々にそれを見えなくさせ,差別を放置させてしまうことにつながる

・問題はむしろ遺伝的差異によって差別を生じさせてしまっている社会システムと,そうした社会システムを支えているわれわれの考え方の方なのではなかろうか【p.270-272】

安藤は,現在当たり前のように享受されている社会システム(具体的には自由競争,市場主義,自由主義,民主主義といったもの)に対して落とし穴があるのではないかと指摘している。いつか学びたいと思っているのがこうした「民主主義社会」の落とし穴の問題である。民主主義を当然視してしまっている人が多くはないだろうか。果たして民主主義は本当に万能なのか。こうした視点に対して「行動遺伝学への批判」という視点から考えるのは面白いのかもしれないと感じた。

さて,行動遺伝学の知見を否定することは優生社会への荷担というのは逆転的な発想として非常に興味深い。だが,こうした意見にもいくつか疑問点が残るのでメモとして書き残しておきたい。まず,行動遺伝学を否定したら優生思想とはいうが,では行動遺伝学を肯定したら優生思想ではないといえるのかといえばそれもまた難しい話ではないだろうか。優生思想の定義を考えることからはじめなければならないが,行動遺伝学の知見を肯定することは決して優生思想に対してフラットにならない。遺伝が絡んだら全否定という姿勢がおかしいことは当然うなずけるし,行動遺伝学全部だめというつもりはないが,そこにストッパーがなくなってエスカレートさせていってしまったら,過去と同じことは起こる。では,そうしたストッパーを一般人に示してくれているかと言われたらそうしたものはこれまでに読んだ本ではまったく指摘されてきていない。ストッパーが見えなければ恐怖を感じることは当然ではないだろうか。筆者の安藤は教科書的な同書に「倫理」に関する章を入れるなどかなり配慮をしている姿勢がうかがえるが,こうした章立てのないものもいくつかあった。先に読んだ「行動遺伝学入門」という書籍も倫理について明確に示した章はない。それでいいのだろうか。安藤の言いたいことは非常によく分かるが,この社会は同時に「遺伝を肯定していい」土壌もないのである。だとすれば,いきなり肯定することはできないのも当然ではないだろうか。

そもそも優生思想とはなんなのか。このあたりも同書の議論は曖昧過ぎる。字義的には「優れた生を望む」とでも定義できそうだが,安藤の定義?は,「優れた生は遺伝される不平等な社会」という印象である。これが優生思想なのかと言われれば,これまでの優生思想をめぐる議論とは少しずれたような印象も受ける。もちろん専門家ではないのは十分理解しているが(私も心理学を専攻しており専門家ではない),このあたりはより正確な定義のもとで議論をすすめたほうが有益なのだろうと思う。

遺伝要因をふまえた上でのより望ましい社会システムの構築,あるいはより社会的に妥当な考え方の成熟の部分は,行動遺伝学が直接取り組む課題ではない 【p.272】

とも述べており,確かに社会の問題はその道のエキスパートが考えるべき問題であることはうなずけるが,教科書的な書籍である以上,このあたりはもう少し明確な議論をしてほしかったように思う。