A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

遺伝をタブー視する社会の中で

多くの書評が出ている橘玲氏の「言ってはいけない 残酷すぎる真実」(新潮新書)。先日読了した。読んだきっかけとメモを書き残しておきたい。

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

 

読んだきっかけ

本ブログの最近のテーマは「優生思想」である。これまでの優生学をめぐる様々な議論や現代社会における優生思想とつながるトピックを少しずつさらってきた。そんな中で先日このような記事が出たのである。

gendai.ismedia.jp

記事の内容については触れないが,こうした「遺伝」についての内容は現在でも研究され続けている。そして時々こうして一般大衆の眼前に出てくる。(この記事の場合はやや誤った形で。)
かつての「優生学」は現在もこのようにして生き残っているのである。では,こうした研究を肯定する人たちは何を考えているのだろうか。特に,こうした分野(「優生学」とつながりのある分野)の研究を世間に喧伝する人はどのようなことを考えているのか。単純にそうした主義・主張が気になった。

そんな中で出会ったのが本書であった。今回のメモでは,著者や紹介されている研究者がどのようなことを主張して研究を肯定しているのかを明かしていきたい。

社会的な規範圧力の問題

同書では,私たちの社会にある「規範」の存在を指摘したうえで

私たちは,これも暗黙のうちに,規範からの逸脱(太っている女性や暗い子ども)を遺伝のせいにしてはならないと思っている。[p.18]

と述べる。

「すべてが遺伝で決まるのなら,努力は無駄になってしまう。それでは頑張っているひとが可哀想だ」--この論理(ロジック)に,多くの人は同意するだろう。だが考えてみれば,これはずいぶん残酷な話だ。[p.18]

なぜ,残酷なのか。同書では,

太っている女性には「やせるべきだ」という社会的圧力が,暗い子どもには「明るくなれ」という教育的圧力が加えられている。[p.18]

「善意」の励ましは,どれほど努力してもやせられない女性や,明るくなれない子どもをこれ以上ないほど深く傷つけるのだ。[p.19]

とまとめている。すなわち,社会的規範による圧力を受けている中で,「遺伝」という理由に逃げず「努力」に原因を帰属するため,受けるダメージが大きくなるのではないかと指摘している。同様の話は「教育」をめぐっても語られる。

イデオロギー(お話)の問題

知能が遺伝し「馬鹿な親から馬鹿な子どもが生まれる」のなら,努力は無駄になって「教育」が成立しなくなってしまう。だからこそ,自然科学の研究成果とは無関係に,「(負の)知能は遺伝しない」というイデオロギー(お話)が必要とされるのだ。[p.20]

どれほど努力しても逆上がりのできない子どもはいるし。訓練によって音痴が強制できないこともある。それと同じように,どんなに頑張っても勉強できない子どももいる。だが現在の学校教育はそのような子どもの存在を認めないから,不登校や学級崩壊などの現象が多発するのは当たり前なのだ。[p.21]

学校教育を成立させるためには,遺伝という「言い訳」が邪魔者になることは疑いがないだろう。実際,知能というものは(現代)社会において,子どもの将来を握る大切な要素であるし,環境や「努力」という言説は,まさに「イデオロギー」として必要なのかもしれない。

ちなみに,動機づけ研究において「知能観」と動機づけの関連を示したものがある。

知能とは安定していて統制不可能(=変化しにくくて自分ではどうすることもできない)という考え方である。もう1つは逆に、知能とは安定的ではなく統制可能である(=変化するもので自分の行為によってどうにかすることができる)という考え方である。心理学では前者を「固定的知能観」、後者を「拡張的知能観」という。

固定的知能観を持っている子どもは、自分の現在の能力が高いと考えている場合には意欲的に行動するが、低いと考えている場合は意欲を失う。ところが、拡張的知能観を持っている子どもは、どちらであっても意欲的に行動し、自分の技能を磨こうとするし、失敗しても訓練が十分でなかったと考える。

出典:http://www.p.u-tokyo.ac.jp/johoka/01/2-1.htm
(最終閲覧日:2019/1/11)

こうした知見に基づけば,遺伝によって知能が決まるという言説は「固定的知能観」を強化するので,勉強ができない子の動機づけを下げることにつながるだろう。確かに,「できない子も認めてあげる」という姿勢は足りないのかもしれないが,できない子の動機づけを奪うことも看過できる問題ではない。遺伝言説の流行は「できない子を認める」ことよりも先に「できない子はできないままでいい」という方向になるだろう。それが良いかどうかは十分議論が必要である。

精神病をめぐって

依存症,精神病,そして犯罪。こうしたものも,行動遺伝学などの分野の研究においては,一定の遺伝率があることが指摘されている。そういえば,お酒の強さも遺伝的要因が強いことが指摘されている(参考→酒の強さは遺伝子で決まる 原田 勝二 氏)。

依存症が遺伝なら,子どもには自分の遺伝的脆弱性アルコール中毒になりやすい)をあらかじめ知識として教えることができる。[p.23]

精神病についてはこのように述べられている。

精神病のリスクを持つ夫婦がこの事実を知ったとき,彼らは出産をあきらめるかもしれないし,それでも子どもがほしいと思うかもしれない。(中略)どちらの選択が正しいということはできない。だがその決断は,願望[ここでは,「精神病は遺伝しない」と断言された文章]ではなく正しい知識に基づいてなされるべきだ。[p.25]

優生学が間違っているのは「精神病は遺伝する」と主張したからではなく,その論理が精神病者に対する差別と偏見を前提にしているからだ。科学的知見を「不都合なイデオロギー」として拒絶するのではなく,それを精神病の予防や治療につなげ,社会の偏見をなくしていくよう努力することが求められているのだ。[p.26]

前者の意見については,優生思想と合わせて問題になることの多い「出生前診断」にも同じような論理が適用できるだろう。つまり,障害を持った子をうむかうまないかは自己決定にゆだねられるべきものであり,その自己決定のためには生まれてくる子どもについての「正しい」情報を得た方がいい。そういった論理だろう。

後者について「優生学が間違っている」と書いているが,これは「ナチスドイツの政策が間違っている」という意味だろう。そのうえで,この意見は一つの重要な考え方を示唆しているように思った。つまり,学問研究そのものには問題がなく,それを差別や偏見に利用することがいけないという意見表明なのではないだろうか。

こうした意見に対しては素朴な疑問がある。何が差別で,何が偏見なのだろうか。例えば,先ほどの知能遺伝に絡めて考えてみよう。知能が遺伝的に恵まれない子に対して,「あなたは遺伝的に恵まれないのだから勉強は頑張らなくていい」と伝えるのはどうだろうか。これまでの議論を踏まえれば「知能は遺伝する」という正しい知識を伝達したに過ぎない。だが,見方を変えればこれは「勉強ができない」というレッテルを貼る行為であり,他人が勝手にできない断定をする,まさに「差別」や「偏見」の論理と同じとは言えないだろうか。

もちろん,遺伝をすべて否定することを是とするつもりはないが,「正しく使う」とはどのように使うことなのかをもっと真剣に考えなければならない。それを放置したまま研究し続けている結果が,冒頭に紹介した「母親のせいで子どもは勉強できない」という記事につながってしまうのではないだろうか。

 

想像以上に長くなってしまっているので続きは後日。