A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

「考える頭」のつくり方(読書メモ)②

 

「考える頭」のつくり方 (PHP文庫)

「考える頭」のつくり方 (PHP文庫)

 

第2章

・朝、目が覚めたときには、頭の中が整理整頓され、すっきりしているのである。目覚めてから起き上がるまでの時間が、ものを考えるうえでのベストタイムで、昔の中国人はこれを枕上(ちんじょう)の時間といった。(p.78)

・声を出してもほとんど運動効果はないように思われがちだが、手を動かすより、やや大きめの声を出すほうが、よりよい散歩になる。オペラ歌手などは、大声で歌いながら演技までするから、すごい運動量である。(p.96)

・Intellectual honesty ということばがある。日本の教師、学者、研究者たちにもっとも欠如しているのが、この「知的正直さ」であろう。(p.106)

・知識というのはすべて借りものである。自分で考えた知識を、われわれはほとんどもっていない。人から聞いたとか本に書いてあったということは、ようするに借りてきた知識ということだ。だから、いわゆる勉強、知的活動、教育というのは、すべて借りものを前提にしている。(p.108)

・失敗を少なくすることがいいことだ、という考えが支配している。現代の社会はどこも、失敗を恐れ、小さな成功を喜ぶという傾向が強い。(p.126)

第3章

・いまの学問とは、知識を記憶する作業が主である。だから、学校へ行っていると、しだいに記憶人間になっていく。記憶によって知識が増えると、新しいことがあらわれても、記憶している知識で判断していけるから、自分で考える必要がなくなる。知識が増えれば増えるほど、自分の頭でものを考えなくなり、当然の結果として、自分で考える力は衰退する。(p.146)

・いじめの問題も、こどものときの共生経験、こども同士で一緒に遊んだという経験が不足していることと無関係ではないだろう。 いまの少子化の最大の問題は、マイホーム主義だ。こどもを自分の家の中に囲いこんで、大人が一生懸命に世話をすればいい子が育つ、というまちがった考え方からは、できるだけ早く脱却しなければならない。(p.156)

・「経験は最良の教師である。ただし、授業料が高い」 知識より経験のほうが、はるかにわれわれを助けてくれる。しかし、それには、苦難や失敗などのリスクがつきものである。(p.184) 

 

「考える頭」のつくり方(読書メモ)①

 

「考える頭」のつくり方 (PHP文庫)

「考える頭」のつくり方 (PHP文庫)

 

はじめに

・日本語でしゃべっているときでも、“......である”と言い切る自信がないとき、“......と思う”といった言葉がよく出てくる。考えているのではなく、あいまいにボカしているのである。(p.9-10)

・めいめいの考えをぶつけあう討論会のようなものが、おもしろいことが少ないのも、発言者が本当に考えたことをつき合わせているのではなく、その場の雰囲気を重視するからであろう。(p.10)

・理科をおもしろく教えられる教師が多くなれば、日本人の思考力、創造力は大きく向上するということを、社会として考えないと、国際競争におくれをとることになる。(p.11-12)

・知識がなければ、まねたくともまねることができない。自分の頭で考えるほかない。独創になる。物知りは多く独創的でない。無学な人が“発見”をするのは、むしろ当然である。(p.15)

・もっとも有効で、すぐにでもできるのは、知的会話である。雑談でよい。難しい問題をかかげる必要もない。なるべく人名を出さず。過去形の動詞をひかえて雑談すれば、オリジナルな考えが飛び出す確率は小さくない。(p.16)

第1章

・かたよった知識によって善と決めつけたものばかりに頼りすぎることなく、悪いものをなにもかも拒絶することなく、もっと自然を認め、失敗や負けも受けいれて、免疫力をつけておかないと、自分でものを考えることのできない人間になってしまう。(p.29)

・思考とは、これはなにか、なぜそうなのか。という疑問をもって、それを自分の力で解こうとすることをいう。たとえば、二つのものがあって、どちらがすぐれているかを比較、判断するのが「考える」ことである。どちらかに決めたら、なぜそれがすぐれているかを論理的に説明できなければならない。 それに対して、「思う」とは自発的ではなく、あくまで受け身である。外からきた刺激に対して心理的に反応することであって、何かすでに存在しているものを受けて「思う」。「感じる」も同じことである。(p.52-53)

・こうなると、人間としての存在価値は、「忘れる」ことでしか発揮できない。記憶と忘却が共存し、記憶したものの中で不要な物を忘れ、忘れたあとに新しいものを記憶し、忘れてさらにその先を考える......忘却は睡眠中だけではなく、覚醒時に意識的にできるところまでいけば、コンピューターにも負けない。(p.60)

・従来は、生活や経験から離れたところで、知識や情報を機械的に頭の中に入れてきただけである。そうではなく、もっと人間の心理や生理に近いところで、日常的に考える習慣がつけば、一段と進んだ社会になるはずである。(p.62)

・その知識は生まれた瞬間、過去のものとなる。それが経験にもまれて社会に定着すると、知恵になる。われわれに必要なのは、知識ではなく、知恵を生むための考える力、思考力である。(p.66)

 

いじめを生む教室(読書メモ)①

第1章「これでいいのか,日本のいじめ議論」より

「いじめ」の現状をめぐって

・現代は,「いじめが増加した社会」なのではなく,「いじめが問題視されるようになった社会」なのです。......しかし,肝心の増減を丁寧に追うことができていない。【p.22】

・メディアによって共有された誤ったイメージは,いじめ議論をも歪めてしまいます。そもそもメディアがいじめを取り上げるのは......「話題性のある特殊ないじめ」が発生した時です。【p.28】

いじめを減らすために

・単純化すれば,いじめ対策は「予防→早期発見→早期対応→検証」のサイクルで回す必要があると言えるでしょう。【p.26】

・いじめ対策においてこれからは,「心理的アプローチ」のみならず,「環境的アプローチ」が必要になります。【p.27】

・災害報道における防災教育に該当する,いじめ問題に対処する方法や,実践的な事例などが,......ポジティブな提案や,命綱を提供する報道が,平時にはほとんど行われないのです。【p.35-36】

〇いじめを「増やす」ことができる→いじめの数は,条件(環境)によって増減する
〇いじめを増やす要因について考える作業は,そのまま「どの環境を改善すればいじめを抑制できるのか」という発想につながる【以上 p.25】

いじめの種類

いじめには大きく分けて,「暴力系いじめ」と「コミュニケーション操作系いじめ(非暴力系いじめ)」の二つがあります。......現代日本の場合,大半のいじめは「コミュニケーション操作系いじめ」です。【p.29-30】

〇「コミュニケーション操作系いじめ」は「犯罪」としての要件を満たさないことが多い→「いじめは犯罪なので警察に」とひとくくりにはできない
〇殴る,蹴る,性暴力を行う,恐喝をする(暴力系いじめ)ことと,モノを隠す,嫌なあだ名をつける,嫌な噂話を流す,無視する(コミュニケーション操作系いじめ)こととでは,対応の仕方も変えなければならない【以上 p.30】

学校以外の選択肢

「学校に行かないなら,他の選択肢を自己責任・家庭責任で選べ」というのが,残念ながら現在の社会です。......私たちは,「ご機嫌な教室*1を増やそう」という議論と,「学校以外の選択肢を拡充しよう」という議論の,両方を同時に行わなくてはならない【p.33】

〇「学校に行かなくてもいい」という意見ばかりが強調されると,具体的な学校改善の議論を成熟させることができない
〇他の選択肢が脆弱な状態で「学校に行かなくてもいい」とだけ伝えると,問題が個人化・矮小化されてしまう【以上 p.32】

第2章「データで読み解くいじめの傾向」

思い込みで語られる「いじめ」

世の中には,適切な研究成果が理解されていないということもあり,「俗流いじめ論」が横行してきました。 【p.38】

〇「戦後民主主義の教育の失敗」「受験戦争などのストレス社会が問題」「道徳教育が失われたから」「日本のいじめは特殊」「最近のいじめはひどい」など→いずれも「当てずっぽう」の議論で,具体的な根拠に欠けている。【p.38-39】

いじめの「ホットスポット

・日本でいじめ対策をするには,教室でのいじめを減らすことが,まず一番のターゲットとなることがわかります。【p.40】

・国の文化や学校制度によって,頻出するいじめのパターンが異なるということ。これは,環境によっていじめの場所や仕方が変化するということを意味します。【p.44】

〇休み時間でのいじめが圧倒的に多い【以上 p.40】
〇過剰管理に置かれた環境での休み時間において,......教室は仲間をいじる,からかうといった形でのストレス発散行為が発生しやすい空間になっている【p.42】

〇日本は他国と比べて,一人へのいじめに関わる人数が多い→「悪しき同調圧力」【p.44】

その他の重要なデータ

〇学校の先生が把握しているいじめの件数と,被害者・加害者が把握している実態とではずれがある→認知のギャップ,継続期間などが理由(?)【p.46-48】

〇男性は「暴力系」,女性は「コミュニケーション操作系」が,相対的には多い。また,女性→男性のいじめは少なく,男性→女性のいじめは少なくない【p.49-50】

〇「いじめは誰もが経験する」+「特にいじめられる人がいる」は両方成り立つ。加害行為も9割近い児童が経験する。→単純な二項対立では把握できない【p.51-53】

〇「いじめのエスカレーション論」(時間をかけていじめの重篤度が高まる)
→ある段階までエスカレートすると,わずかな期間で追いつめられる
→早期発見,早期解決の重要性
→教師が介入したほうが,マシになる可能性は高い【p.53-57】

第3章「大津市の大規模調査からわかったこと」

当てずっぽうの議論をやめ,その学校や地域の特色に合った適切な対応とは何かを議論し続けることが大事なのです。【p.89】

〇部活動における指導においても,いじめの注意喚起が必要【p.63】

〇小学校の場合は,ターゲットが次々と変わり,からかいが連鎖していく形。中学校の場合は,いじめが固定化・長期化されていくケースが多い【p.66】

〇ネットいじめ「だけ」を受ける人はほとんどいない【p.67】
〇教室でのいじめがエスカレートしていく過程で,ネットを用いたいじめも発生する→「ネットいじめ」対策には,ネットリテラシーやネットマナーではなく,コミュニケーション全般に関する適切な介助が必要(ネットだけの問題ではない)【p.72】

〇子どもたちは,誰かに相談することで具体的な解決に結びつくというイメージを持てていない→「もしこの教室でいじめがあった場合,学校側はどのように解決していくのか」というフローを開示しておく【p.74】

〇(大津市のいじめ自殺事件の)報告書では,「いじめ防止教育(道徳教育)の限界」という節を設け,いじめ問題に取り組むためには,道徳の授業などに偏重することのない,総合的な環境是正が必要であるという提言【p.78-79】
→いじめに関する授業をするのであれば,「いじめをしないようにしましょう」「見て見ぬふりをしないようにしましょう」という精神論ではなく,「具体的なSOSの発信法」「相談体制の周知と解決への約束」が必要【p.80】

〇目撃経験によって「どんな理由があっても,いじめは絶対にいけないことだ」「いじめられる人にも原因がある」という認識が弱まる→いじめ被害を仮想的に体験する授業(?)【p.80-83】

〇ストレスを自覚的にコントロールできず,暴力や自傷に結びつけてしまう子どもが少なくない→ストレスケア【p.83-88】

*1:「いじめ等の問題が少ない教室」のこと。同書で用いられているオリジナル用語。

教職の現場で何が起こっているのか

メモ

“教育

“教育"を社会学する

 

第2章「教職に何が起こっているか?」(油布 佐和子)

教職の現状

日々の労働によって疲弊し,精神的な病に追い込まれる教師が増加する一方で,多くの調査研究において,教職への肯定的な見解(「やりがいがある」「満足している」)がみられている。この状況について,「古くからの教員文化=共同体文化」から「経営体としての学校」への移行という観点から論じられる。

「経営体としての学校」の成員

・教師同士が日常的に冗長な会話を通じて交流していた職員室の風景が姿を消し,職業上必要な課題に教員同士のかかわりが限定されてきている

・privatization(「共同体的な紐帯から個人が解き放たれていく」趨勢)は,個々人の主体的な取り組みを推進する上で肯定的な意味をもちうる→個々人の業務の明確化など 

個人化がひきおこすこと

・原子化(丸山眞男)→相互に関連を持たない

マクドナルド化(G.リッツァー)→効率性・予測可能性・計算可能性・テクノロジーによる制御に支配されたシステム→「有用性」の観点から測られる

・機能システムの席捲(田中智志)→「関係の冗長性の衰退」「他者の個体性の忘却」「生の悲劇性(複雑性)の忘却」を引き起こす

個人化する教育

・教師の病気休業が漸増する背景には,こうした〈「経営体としての学校」と「組織の一員としての教師」への変容〉という構図が見て取れる

〈任された役割は,他の誰の役割でもなく,私の役割であるから,私がそれを担い,解決するしかない。解決できないとすれば,それは私の能力=組織のなかの有用性が問われることになる〉→「自己責任」論

個人化しながら「制度化」する

・教師が,経営体の担い手にふさわしいように養成されていく方法が,教員の養成や研修の過程を通じて着々と進展している
→相互に切り離された個人は,外部による制御と標準化を押し付けられる

・個人化がまさに意味していることは,制度化であり......

・専門職化というのは,制度化=標準化を意味する

技術主義の浸透

・有用かどうかという点で評価される→状況に即応的に対応できる〈技術〉主義が横行し,目標が前提とされ,どのようにすれば「効果的に」達成できるかという発想以外は捨象されてしまう

→教育技術法則化運動(例:TOSSランド)

「本時の目的」や教材の意味などについてはまったく触れられない

心理学をめぐる批判

・心理学では,社会関係の問題を,「個人の問題」と位置づけ,問題を個人に回収してしまう

・環境や条件が統制された実験室でつくられた何らかの基準が,具体的な人々の相互関係・活動が展開される場での測定に,はたしてどのような意味をもつのか,あるいは,社会関係を看過したところでつくられた基準を測定の指標とすることに問題はないのか。
ex. 「主体的」という性格態度特性→「困難な課題に果敢に挑む」ことも指せば,「人の指示に耳を傾けない」態度ともなりうる

・問題は社会にではなく,私・個人にあり,「世界は予定調和的に進行していると信じている人,あるいは進行するべきだと信じている人たちが」いて,「この人たちは,“いま・ここ”の状況の予定された調和的進行を妨害する人を見て,彼らは“心の病”に冒されているに違いないと考える」

心理学が浸透する教育現場

・〈思考ストップ〉してしまい,ある枠の中でのみものを考えたり,有用性が求められる状況を根本的に検討するというような発想にはならない

・自由の重みに耐えかねた人々が権威に依存してしまう(フロム『自由からの逃走』)

・自らの認識への自信のなさ,不信,専門家への依存(懐疑主義的態度の不足)

→解釈できない「不安」の解消
→組織への生き残りをかけて,相手方に問題があると「診断」された「客観的な資料」が,「私の責任ではない」という「証拠」になる

おわりに

・教師のやる気と病気休職者の増加=「経営体としての学校」へという組織の変容のなかで,教師が個別化され,有用性によって測られる状況から生じている

・個人化への趨勢が元凶であるにもかかわらず,そこで教師が取る行動は,「個人化」を前提とした知識・技術であるという状況

・「感情労働」をめぐって。EI(Emotional Intelligence)で取り組まれているのは,「状況に気持ちよく対処して,そして搾取されよう」ということ

・考えることや疑問を抱くことが,学ぶことの第一の意義であるにもかかわらず,教える側にいる人間がそれを忘れ,既存の制度や認識枠組みを前提として,思考停止しているところに,またその思考停止が広く教師を取りこんでいくところに最も大きな問題があるのではないだろうか。

 

いじめの定義をめぐって

メモ

“教育

“教育"を社会学する

 

第4章「いじめの定義問題再考ーー『被害者の立場に立つ』とは」(間山 広朗)

なにが「いじめ」なのか

あるひとは,子ども同士の喧嘩,傷害事件,ゆすり,暴行などと呼ぶのが適切と思われる出来事をいじめに含めてしまっている。と思えば,子どもの対人的嫌悪の表現や,おとなだったら「忠告」とか「訓告」とみなされる行為をいじめ呼ばわりする人もいる。これは無茶だ。(菅野, 1997)

「被害者主権」的ないじめ定義

文科省の定義ではなんでも「いじめ」になってしまう(?)

文科省定義は「いじめ」を判断するための「客観的定義」などそもそもめざしていないと考える方が自然
→「いじめ被害者の側に立つ」ことをめざしている

*これまでのいじめ定義を概観した研究→池島(2009)

説得的定義の議論を踏まえて

・「暴力と恐喝があった」と述べることと「暴力と恐喝によるいじめがあった」と述べることは,異なる現実を構成しうる。......それらの出来事を貫く「意味」や「原因」などを想起させ,「責任」の所在や「対応」のあるべき姿を創発する機能を「いじめ」概念が果たしているように思われる→現実の単なる純粋な「記述」以上の活動

・ひとたび説得的定義が法令や行政規則に組み込まれると,それはあるグループをエンパワーし(empower),別のグループをエンパワーしない,もしくは無力な状態にする(disempower)可能性がある。

(参考→説得的定義 - Wikipedia家族的類似 - Wikipedia

いじめの「発見」をめぐって

「ストーリーを作る」という表現で示唆されているのは,教育現場の論理として,ある種の生徒間トラブルは,その事情が明らかになるにつれて,あるいはある方向性で事情を明らかにするにしたがって,「いじめ」として構築されるべき場合もそうでない場合もあるということである。 

→「いじめ」を扱う論理はエンパワーされない(disempower)まま=「被害者の立場に立つ」ということは,「被害者」以外の立場に対するエンパワーを削ることを意味する(?)

生徒世界の論理

大人の側が言う「いじめ」は彼らには「悪いこと」としてインプットされているが,それと現実の彼らの世界は簡単に結びつかないのだ(赤田, 2003)

・「私はいじめは良くないと思うがやっている人だけが悪いんじゃないと思う。やる人にもそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生達からみてとてもしょうもないものでも,私達にとってとても重要なことだってあるんだから先生たちの考えだけで解決しないでほしい」(竹川, 2006)

「被害者」の周囲が皆ディスエンパワーされようとしている状況のなかで,本当に「被害者」はエンパワーされるのだろうか。

「正当な」攻撃の許されない「学級空間」

竹川(2006)は,いじめ判断の困難さの要因の一つとして「攻撃的行為の状況的正当性の判断」を指摘している。これに基づけば「正当な」攻撃的行為があるということが言える。だが,学級という空間において,生徒は「正当な」攻撃手段を与えられていないのだと間山は指摘する。

「加害者」(となってしまう生徒)の立場に立つことは,「学級」という空間のこの規範的な性格から許されていない。結果的に,いじめという名の「不当な攻撃」が発生し,「加害者」と「被害者」が誕生する。 

まとめ

被害者主権的定義は,定義上は被害者が自らの経験を「いじめ」という記述のもとで語りやすくすることをめざしているが,実際の「いじめ認定」に関わる相互行為はーー「教育の論理」においても「生徒世界の論理」においてもーー異なる論理のもとにある。 

小論

「いじめはいけないことだ!」ということを知らない児童生徒はきっとほとんどいないだろう。だが「なにがいじめなのか」ということを知っている児童生徒は少ないんじゃないかと思う。いや,もっと言えば「なにがいじめなのか」知っている大人もいないのではないかと思うことがある。大人の世界にだって多くの「いじめ」がある。いじめの事例集をみれば分かるではないかと言われそうだが,一般的な定義では,ここでも指摘されてきた通り「被害者が『いじめ』を受けたと思えば『いじめ』である」であり,事例集はあくまで「いじめと定義されやすい行為集」くらいの位置づけなのかもしれない。定義には,具体的な「いじめ」行為が定められていない。結局,今の定義上では「なにがいじめなのか」はハッキリと断定することができないのである。こうしたモヤモヤの中で「そもそも判断のための定義じゃない」という筆者の指摘は非常にうなずけた。「いじめ」断絶をうたう大人たちと子どもたちの学校世界は実は乖離したものなのではないかということを考えさせられる論考である。子どもの生きる世界の「論理」でも,決していじめは肯定されていない。だが,抑圧的に「いじめ」を否定したがために,他者に対して「正当に」攻撃する方法を知らず,自分たちの行為をいじめと認定せずに,攻撃行動を行い,大人が「それはいじめだ」と抑圧的に決定する。それでは,永遠にいじめというものをなくすことはできないだろう。

今,必要なことは何なのか。自殺防止のために「命の教育」をしようとするような声もあるが,個人的には,人間関係の作り方について,もっと教えていくべきなのではないかと思う。嫌いな人とどうやって付き合っていくか。意見の合わない人とも付き合っていくか。そうしたことを身につける中で,自然と「いじめ」が減らせるのではないかと思う。具体的な意見とは言いがたいかと思うが,このような「誰かを嫌うことも認める」という姿勢が学校教育に必要なのではないかということを強く主張しておきたい。

読書時にアンダーラインを引くべきかについて

世の中には「読書術」と呼ばれるものが数多くある。そもそも「誰かの読書術」が自分にも適しているという保証はなく,読書を重ねていく中で自分に合ったものを見つければいいものではある。だが,効率的に内容を理解したり覚えておくためにどうすれば良いのかというのは気になってしまうところであり,今のやり方が良いのかと不安になることもしばしばある。

今回は,特に「読書時にアンダーライン(下線)を引くべきか」「重要語をマーカーで目立たせるべきか」という疑問について,少し検討してみたいと思う。

 

三宮(2018)より

1.アンダーラインの活用で重要な点が一目でわかる

・ブランチャード(Blanchard, 1985)は,読み返すときに読むべきポイントを絞り込むためにも,アンダーラインが役立つという点を指摘しています。とりわけ,長い文章や難解な文章の読解において効力を発揮します。

・アンダーラインを引くためには,テキストを読みながら内容について判断することが必要になるため,おのずと学習者が深い処理を行うようになるという利点もあります。したがって,ただ闇雲にアンダーラインを引いたり,さほど重要ではない部分にまでアンダーラインを引いたりしても,効果はありません。【p.84】

*引用中の文献
Blanchard, J. S. (1985). What to tell students about underlining... and why. Journal of Reading, 29(3), 199-203.

 

2.情報を目立たせると記憶に残りやすくなる 

・他と異なる,特徴的な(目立った)情報が記憶に残りやすいということは古くから知られており,フォレンストルフ効果(von Restorff effect)あるいは孤立効果と呼ばれています(von Restroff, 1933)。......テキストの読解においても,重要な箇所を目立たせるために蛍光ペンなどでハイライトをつけることで重要な箇所を目立たせるという手法がよく用いられます。

・ハイライトの中でも蛍光色による塗りつぶしは,非常にインパクトがある(刺激が強い)ために,多用すると逆効果になります。それは,あれもこれもと,さまざまな色の蛍光ペンで塗りつぶしてしまうと,テキストが大変読みづらくなるからです。

・塗りつぶしていない箇所は背景に退いてしまうため,元の状態よりもかえって記憶に残りにくくなります。つまり,ある部分を目立たせるということは,残りの部分を目立たせなくすることに他なりません。

・こうしたことから,目立たせ効果は慎重に,少し控えめに使う必要があるといえます。【p.88】

*引用中の文献
von Restorff, Hedwig. (1933). Über die Wirkung von Bereichsbildung im Spurenfeld. Psychological Research. 18. 299-342.

 

参考文献

メタ認知で〈学ぶ力〉を高める: 認知心理学が解き明かす効果的学習法
 

 

藤澤(2017)より

藤澤(2017)は,習得のための学習法として「リハーサル方略」について触れる中で,「アンダーライン」方略と「暗記マーカー」方略を扱っている。ここでいう「暗記マーカー」方略は,いわゆる「赤シート」「緑シート」を用いた方略であり,本稿でのメインテーマとはやや異なるが,合わせて扱っておきたい。

アンダーライン

重要部分に下線を引く方略。下線を引かないよりは注目しやすいが,重要度の判定がよくできない場合には,ページが下線だらけになるだけで,記憶にはあまり効果がない【p.65】。

 

暗記マーカー

教材の重要部分にマーカーで印をつけ,ページに色シートをのせてその単語自体を読めなくして,単語が再生できるかを試しながら暗記する方法。教科書と同一文脈の空所補充問題の対象にはなるが,意味理解を伴っていないので,試験で応用問題が解けるようにはならない。すべての重要語をマークで消すと文脈上に特定の手がかりがなくなるし,一部を選べばノーマーク語が発生してそれが記憶されないので,効率の悪い暗記法といえる【p.65】。

 

参考文献

探究! 教育心理学の世界

探究! 教育心理学の世界

 

 

魚崎(2004 ; 2016)より

ここでは,魚崎(2004)の要旨の内容のみを紹介させて頂きたい。

概要

多くの学習者が実際に下線をひくということが明らかになったものの,その行動が読解成績を高めるわけではなかった

1.再生時期の違い

・学習者自身の下線ひき行動やテキストにつけられたプロンプトによる効果が大きいのは読解直後であり,その後の保持にはそれを超えるような効果は見られなかった。

2.読解時間の長さ

・短い読解時間の中で下線をひきながら読むことは,読む作業そのものにかける時間を削ってしまうために不利に働く

・読解時間を多くかけることによって,内容の獲得と結びつくようになってくるものの,下線をひかない場合に比べて有効な方略であるとは考えられなかった

・プロンプトは,獲得すべき情報を視覚的に知らせることができるために,読解時間に制限がある場合に有効

3.素材の難易度

・単純素材の読解ではプロンプトの存在によって強調部分であるキーワードの再生を高めるという効果が見られたが,学習者自身が下線をひくことによる効果は見られなかった

・複雑素材の場合には,学習者自身が下線をひくこともプロンプトと同様に,重要な情報の再生を高める→下線ひき行動が重要な情報を探索・選択する過程を助けている

4.学習者集団の違い

・プロンプトの存在によって,強調部分の情報の再生は高められたが,それ以外の情報の獲得に対する効果は学習者の能力によって異なる

・読解速度の遅い学習者の場合には,十分な時間がなければ下線部以外の情報獲得を阻害するという負の効果をもつ

 

参考文献

テキスト読解場面における下線ひき行動に関する研究

テキスト読解場面における下線ひき行動に関する研究

 

魚崎 祐子. (2004). テキストを用いた学習場面における下線ひき行動の役割と有効性の検討

魚崎 祐子, 伊藤 秀子, & 野嶋 栄一郎. (2005). 短期大学生のテキスト読解における下線の影響: 読解時間の長さとの関係. 日本教育工学会論文誌, 28(suppl), 105-108.

 

3つの引用からいえること

難易度の高い文章を読む時には,アンダーラインやマーキングによって理解を促進し,記憶に残りやすくするという効果が得られる。難易度が低いときには,あまり効果はみられない。

・線やマーカーをひく量は「控えめに」して,線やマーカーだらけにならないように留意することで効果が得られやすくなる。

・文章を読みながら,語の重要度判定をすることが難しい(特に,とりあえずたくさん引いてしまう)人には向いていない。

文章読解が遅い人は,プロンプト(強調)が存在しない部分の情報獲得が阻害されるので,アンダーラインやマーキングを引いたとしても,のちに上手く利用できない可能性が高い。

読解時間が限られているときは,アンダーラインやマーキング行動によって読む作業そのものにかける時間が減るので不利に働く。特に,文章読解が遅い人は,無理に引かないほうが良いだろう。

直後の再生においてのみ,アンダーラインやプロンプトの効果が表れるので,日常的な読書行動においては,アンダーラインをひいてもひかなくても,記憶の保持に大きな差はない可能性が高い。一方,国語の試験のような場面では,アンダーライン方略が大きな効果を発揮する可能性がある。

・「赤シート」「緑シート」学習法は,それだけをやっている限りでは,あまり効果の高い暗記法とは言えない。→このあたりは稿を改めて。

 

まとめ

アンダーラインをひく方略やマーカーでハイライトさせて読む方略には,ある程度の効果が見られることが分かったが「読解が速い人が,難しい文章に対して,『控えめに』ひく」場合に効果があり,それ以外の場合では,あまり大きな効果が得られないということが示されている。そもそも,文章を読む途中で「線をひく」という他の作業をすることは,認知資源の配分という観点から考えても,読字&文章理解を少ない資源でこなせる,熟達者にしか適さない方法であると考えられる。以上をまとめれば,アンダーライン方略の使用は理論上は「特定の条件下で」効果が得られるといった程度にとどまるだろう。

本稿で指摘しきれなかったことについて最後に指摘したい。これは,国語の問題などで非常に多いのだが「なんとなく字を追っているだけで,内容の理解をきちんとせずに先に進む」という読み方をする人がいる。また,読んでいる途中で「眠くなってしまう」という声も幾度となく聞いてきた。こうした人に対しては,アンダーライン方略が有効である可能性がある。アンダーライン方略のメリットとして「重要度判定をしながら読む」ことだけでなく,「手(腕)を運動させながら読む」という点が挙げられる。直接的な得点向上につながるかどうかについては検討が必要だが,ふつうの読み方でうまく読めないときに,アンダーライン方略が効果を示す場合もある。読解速度が遅いから使ってはいけない・使っても“絶対に”意味がないということではない。最後に改めて指摘しておきたいのは,結局,自分で試行錯誤しながら「自分に合った読み方」を見つけることがもっとも重要である。本稿をそうした検討の材料として頂ければ幸いである。

2019年2月の記事

2月は試験などがあったこともあり,かなり忙しく,ちゃんとしたブログをほとんど書けておらず,最後は毎日更新もやめてしまったのだが,3月からまた更新の仕方を見直しつつ,もう少し意見の発信を模索していこうかなと思っている。

目次

読書メモ(一般書)

 

差別論

 

その他

3月以降のブログの方針だが,基本的にこれまで通り「ノート代わり」に,自分のために書いていくことを中心としたい。毎日投稿はやめて(その代わり,一日の投稿数は一本までにして)いきたい。あとは,毎週,適当にその週に勉強したことの振り返りでも読んだ論文の適当な感想でも,雑談ブログという形式で書いておこうかななんて思っている。