A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

Intellectual Dark Web の記事を読んで(雑文)

Intellectual Dark Web

gendai.ismedia.jp

面白い記事があがっていた。

I.D.Wの唱える「不都合な現実」、それはたとえば、ジェンダーや人種の根底にある生物学的あるいは遺伝学的差異である。

彼らによれば、科学データに基づいてジェンダーや人種の差異について論じることは、現在の主流アカデミズムでは半ばタブーになっている。それというのも、1960年代以降のアカデミズムにおいては、それらの差異は社会的に構築されたものであるとするドグマ(教義)が強くあるからだという。

そこにおいては、社会制度や家父長制度、文化ジェンダー規範、あるいは差別などといった、ジェンダーや人種の差異を人為的に作り出してきたとされる社会的因子にフォーカスが当てられる。こうした社会構築主義は、主に左派陣営のアイデンティティ・ポリティクスやポストモダン理論を通して盛んに喧伝されてきた。

だが、I.D.Wはこうした考え方を退ける。ジェンダーや人種の間に横たわる乗り越えがたい生物学的差異は厳然と存在しており、それは諸々の科学的/統計学エビデンスによっても証明されている。それなのに、お行儀の良いリベラル左派たちは、その「現実」を見ようとしない。「不都合な現実」から目をそらし、あまつさえそうした「現実」を提示しようとする科学者や知識人の「言論の自由」まで抑圧しようとするのだ、云々。

出典:同記事より

先日ブログでも書いた,橘玲言ってはいけない」で使われていたロジックとまったく同じように思われる。遺伝をめぐるお話はタブー視されているが,実際のところ遺伝学の知見を踏まえ「科学的に」考えると,遺伝による影響を否定することはできないのだから,それも踏まえた上での議論が必要であるという主張である。実際,I.D.Wの中には,科学者やそれに準じた人もいることは同記事でも指摘されており,少なくとも様々なevidenceに基づいて主張をしており,疑似科学とは言えないだろう。

しかし同時に,evidence basedを絶対視することも危険であることは繰り返しこのブログでも主張してきた。つまり,過去の優生学の歴史は「科学的」という盾のもとで様々な差別や偏見を生んでしまったという反省がある。だが,現代社会において社会の流動化が進む中,何が差別なのか,何が偏見なのか,そうした見解が決して統一されているとは言い難く,また科学が差別や偏見に加担しないような対策を十分に講じているとは言い難いのではないだろうか。

I.D.W.のような「科学的」に考えようという主張に対して抗議の声が上がる背景には,現実から目をそらしているだけではなく,まだこうした不安が残っているということも踏まえる必要があるだろう。決して,科学的は万能ではない。

そして,こうした主張は日本国内でも少しずつであるが広がっていくと思われる。実際,前述の「言ってはいけない」は続編が出たという(そのこと自体が悪いとは言わないが)。この記事の中身が欧米社会から日本社会になる日もそう遠くはないだろう。改めて,遺伝や進化論などの「タブー」とどのように向き合っていくべきなのか。考える必要があるだろう。

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