A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

『社会生物学の勝利』より(メモ)

今回読んだ本

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

 

題名はなかなか偏っているようにも思えるが,実際には社会生物学とはどのような学問でどのようなことがわかって...ということを明確に述べた上で,社会生物学批判論者に対する批判や,一般の人が持つ「誤解」を解き明かそうとする書籍である。

今回は第9章以降を中心に書いておきたい。

社会生物学を応用するリスク

社会生物学の研究を故意に悪用したり,誤用したりする余地が大きいことは確かである

・人々が非常に不道徳だと感じる,ある社会政策を擁護するために「科学」を利用するという前例は豊富に存在する。

ダーウィン自然淘汰の理論は,十九世紀の社会ダーウィニズムの源泉であったが,これは,金持ちや権力者が貧乏人を堂々と搾取することを正当化する,政治哲学のようなものであった。

ダーウィン理論と,その申し子である社会生物学が,故意に誤解され,ねじ曲げられて,社会的に正当化するために使われたり,ただ単に悪さをしようと決めた人物に使われたりしたとして,私たちは,真に科学的なダーウィン理論を捨てるべきなのだろうか?

・十分に検証された科学的結論のほうが,まだ不完全または不正確にしか検証されていない仮説よりも,夢想家たちに,彼らの目的に沿って利用されやすい,というのは本当だろうか

・夢想家たちが,特定の哲学や政治政策を正当化しようと思えば,いずれ彼らはそうするのである

・「人間の問題にかかわる研究をするときには,特別注意深くなければならない」などという訓戒の背後にある真のメッセージは,非常に倫理に敏感であるような表向きの影で,そんな研究は「するな」ということなのである【p.292-296】

価値判断をふくむのか

・「これこれの形質は自然淘汰によって生じた進化の産物だ」ということから,「これこれの形質はよいものであり奨励されるべきだ」という結論を導くことは絶対にできない

・科学においては,科学的な過程によって導き出された何かによって理解が進むということは,分析的な事柄であって,それをよいと認めたり,悪いと認めたり,道徳的な理由により,それを許容したり,しなかったりすることではない

社会生物学的分析は,人間の社会的営みに対して,中立的な説明を試みようとしているのである。それは,正当化でもなければ,道徳的処方箋でもなく,何をする「べき」かという規範的宣言でもないのである。

科学者の責任

①検討している仮説が検証できるように十分に証拠を集めること

②引き出した結論が間違って解釈されたり,その後,間違って利用されたりしないようにして,それを発表すること
・この目的のためには,研究者は,科学的な発見が暫定的な性質のものであること,再現性が必要であること,誤りの可能性もあることなどを承知していなければならない。これらはみな,どんな科学者にとっても,他人の研究にあてはめるのは容易だが,自分の研究となると,なかなかあてはめるのが難しいものである。
・私[オルコック]の考えでは,社会生物学者は,自然主義の誤謬とはなんであって,それを避けるにはどうしたらよいのかを説明する最前線にいたと思うのだが,どうもその試みには成功していない。この誤謬は,これほど心理的に訴えるところが大きいのである。

③科学の誤用が起こった場合には,それを指摘すること
社会学者やフェミニストマルクス主義者が引き出す「結論」に対しても,政治的に誤用される可能性は,同じくらい大きく存在するのである。【p.296-300】

進化心理学の応用をめぐって

・まさにロバート・ライトが述べているように,「進化心理学から学べる主要な教訓は,私たちは,一般的に,自分の道徳的直観に注意深い目をそそがねばならないということだろう」。それが,核心である。私たちが道徳的判断をしたいと希求することの究極的理由に気づき,私たちの感情は,遺伝子の利益に資するようにできているのだと理解すれば,自分自身の感情に流されることが,もう少し少なくなり,道徳の問題についてもう少し注意深くなり,道徳について確信的な発言をもう少し控えるようになり,もう少し自省的になり,私たちが正しいと感じることが,私たちの遺伝子以外の善のためなのだと考えることに,もう少し懐疑的になるかもしれない。【p.317】 

社会生物学者の主張

・実際には,社会生物学者は,行動の至近要因ではなくて究極要因を探っているのであるから,遺伝決定論者でも生物決定論者でもない。事実,彼らは「遺伝的に決定された」行動を研究しようとしても,研究することはできない。なぜなら,そんなものは存在しないからだ。また,彼らは,特定の行動「のための」遺伝子を発見しようとしているわけでもない。そうではなくて,彼らは,適応論的アプローチという一つの進化的視点を用いて,興味深い形質が,個体の遺伝的成功(種の存続)にどのように寄与してきたかを検討しているのである。【p.335-336】

・社会科学と社会生物学が対話した必然の結果は,人間行動の至近要因に焦点をあてて大きな成果を上げてきた,長い伝統を持つ諸分野に,進化的な視点を「付け加える」ことなのである。先に強調しておいたように,至近要因の解明は,進化要因の解明にとって替わられるのではなく,互いに相補的なのである。【p.343】

訳者あとがきより

・(社会生物学論争とは)煎じ詰めれば,人間の心理や行動の奥に横たわる生物学的な基盤を探ること,「人間」を「ホモ・サピエンス」という動物のゲノムに書かれた本性から研究しようとすることへの,疑念,反感,そして誹謗中傷をめぐる論争である。

・人間の生物学的,遺伝的本性を探究することは,科学として可能なのだろうか? 可能だとして,その研究が明らかにする結果は,私たちの社会の運営にどのような影響を与えるのだろうか? これは,本当に重要な問題である。

・日本では,同じような論争は,ないとは言えないものの,ずっとおとなしい,さしたる影響のないものであり続けた。(中略)なぜ,日本ではそれほど深刻な論争にならないのだろう? それは,人間をどうとらえるかに関する哲学が,日本と欧米とでは異なるからであろう。仏教とキリスト教の人間観の違いも,もちろん,その大きな一因であるに違いない。【p.357-359】 

9章以前は時間のある時にじっくり読んでみたい。