A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

学校での体罰・暴力問題を考えるために

はじめに

町田総合高校で起こった体罰事件については以前ブログにて意見を表明した。
atsublog.hatenadiary.com

世間の注目は(予想通りではあるが)少しずつ下火になり,生徒に対してどのような指導が行われたのか,再発防止のためにどのような取り組みが行われるのか,そういった有益な議論を見ることはかなっていない。きっとこのまま終わってしまうだろう。

そして「このまま教訓が得られることなく終わってしまうだろう」というような旨を述べている人は少なくないが,そういっておきながらまともに議論をしている人は多分ほとんどいないように思われる。

さて,本ブログでは,私が以前に読んだ教育社会学の書籍での「体罰」をめぐる考察を書き残しておきたい。今回の事件も含めてさまざまな事件を考えるうえで役立つことを期待して記録したい。

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

第9章「子どもの安全・安心を脅かす『教育』」(内田良)より

1.教育の魔力

・学校の教育においては,子どもの安心・安全を確保することが求められる。しかしながら教育は,それが望ましさの象徴であるからこそ,歯止めがかからずに暴走することもある。このとき,子どもの安全・安心を守るための教育は,むしろそれを脅かす存在に化ける。【p.157】 

2.「教育」という正当性

学校で伝達される知識

・学校知(教育知):学校で伝達される知識
 日常知:普段の経験から得られる知識

・学校教育は,あたかも中立的な知識を生徒に提供しているように見える。教科書には中立的観点から事実が並べられていると信じられている。だが,そこで提供されているのは社会的・政治的文脈を映し出した知識にすぎない。権力は知識を中立的なように装わせることで,社会的・政治的な関係性を維持している(Apple, 1979 = 1986)。

・大学の状況とは対照的に,小中高校では,教師によるハラスメントが「消える化」する。すでに世論や教育行政においては明らかに「見える化」しているにもかかわらず,学校のなかでは,あたかもそれは起きていないかのようである。【p.158-160】

巨大組み体操が興隆した理由

・「教育」というお墨付きがあるだけで,私たちは途端に,子どもの身体に迫り来る危険を見過ごしてしまう。

・教師は正しくて敬うべき存在である。教師が提供する教育は当然のごとく「望ましい」ものである。こうした強固な前提のもとに成り立つ学校教育において,教師による暴力・暴言は「消える化」していく。【p.162】 

体罰」に甘い教育界

・教師が生徒に「体罰」をおこなったとしても,そしてそれが過酷なものであったとしても,暴力は「指導の過程で生じたこと」と理解される

・教育的な配慮のもとで起きたこと(起きてしまったこと)なのだから,大目に見てあげようという姿勢

・「百害あって一利なし」とは,暴力撲滅のスローガンとしては有効である。だがそれは暴力のリアルと,それが再生産されるしくみを説明できない。

・これからの時代は,「暴力に効果があるとしても,それでも他の手段を選ぶべき」と考えなければならない。果たして「叱咤激励」や「気合いを入れる」は,暴力をともなわないとできないことなのか。暴力こそ,もっとも単純で卑怯な方法ではないか。暴力を「教育」の一環とみなすのではなく,効果があったとしても,それでも「教育」から暴力を取り除いていくことが求められるのである【p.163-164】

3.市民全体の問題

暴力を温存する構造 

ここで,内田は「いじめの四層構造」理論をベースにして暴力が温存される構造を考察している。同書で紹介されている例をもとにまとめる。

・「体罰」の場合,教師は「加害者」,生徒は「被害者」である
・「観衆」の最たる例は,暴力教師の「寛大な処分」を求めて,嘆願書を集めるなどする,保護者やOB,地域住民,あるいは「自分も殴られて育った。いまの子どもは弱い」などと暴力的文化を支持する市民など,暴力を積極的に支持する存在
・「傍観者」としては,ある教師の暴力に口出しできず見過ごしている教師,生徒などといった存在

 

・巨大組み体操においては,指導教師が「加害者」,負傷した子どもが「被害者」である。
・「観衆」は,運動会でそうした組み体操に拍手喝采を送る人,「傍観者」は,負傷事故が起きようとも対応しない,あるいは重大であると認識しない人などが挙げられる。【p.165-166より】

学校化した市民

・「学校化」とは,学校的な価値が制度に組み込まれた社会(Illich, 1971 = 1977)である。宮台・藤井(1998)は,偏差値重視の学校的価値が社会の隅々にまで浸透した状況を「学校化」と表現した。

・(学校化によって)学校が自らを変革しようとしても,市民の側がそれを許さないという,逆向きのベクトルが活性化しうる。

・学校化した社会というのは,市民もまた学校的価値観に賛同を示す社会である。学校を卒業した私たちは十分に学校化されている。市民のほうこそ「教育」を信奉し,子どもの安全・安心を脅かす存在かもしれない。【p.166-167より】

4.教育から離れて「安全」を考える

リスクとベネフィット

・できごとの動機を説明する際に,動機とはその状況に内在するものではない。外在する特定のお決まりの語彙がその状況を説明する。合言葉のようにして,ものごとの成り行きを正当化する表現を,ミルズは「動機の語彙」と呼んだ。学校管理下においては,この「教育」という動機が,外在的にあらゆる活動を説明する。

・学校の教育活動にも,リスクとベネフィットの双方がついてくる。(中略)だが実際には,ベネフィットが動機の語彙として活用され,リスクは過小評価されがちである。【p.167-168】 

事件衝動的な反応の功罪

・今日の学校安全施策は,しばしば「事件衝動的」であると批判される。

・事件衝動的なリアクションは「科学的根拠に基づいた」視点からつねに精査されなければならない。

・「教育」という営みは,その望ましさゆえに「安全」を軽視しがちになり,それがさまざまな事故や苦悩を引き起こすことになる。まずは安全の確保を最優先にして,その次にいかなる教育が可能なのかを模索していくという態度が求められる。【p.169】