A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

科学者の社会的責任をめぐって

今回読んだ本

共生の現代的探求―生あるものは共にある

共生の現代的探求―生あるものは共にある

 

第4章「科学における共生」より。重要な記述をメモ。

1.科学・技術と科学・技術者の社会的責任

科学・技術の意義の変容

・科学は本来,人間の心を豊かにする精神的生産にかかわる学問,宗教,芸術などの文化の一部であり,文化は多様性,多重性を持っている。それに対して,技術は人間の物質的生産(文明)の基礎をなしている。このように,科学と技術は本来別物であったし,役割も異なっていた(いる)。

産業革命を経て,科学は抽象的,普遍的な理論であると同時に,具体的で特殊な現実に役立つことがわかってきた。

・科学は系統的・全面的に生産過程に適用されるようになり,文化(精神的生産)というだけでなく,文明(物質的生産)に役立つという側面が強まった。

・科学の技術化,技術の科学化→「科学・技術」化

・大学や公共部門の科学者も実用の役に立つという意識が強くなり,それに迎合する姿勢も強まる。その中で,科学は資本の営利主義にますます従属するようになる。
→産学協同による「知の私有化,資本主義化」
→科学のスクラップアンドビルド。多様性,共同性が損なわれた。

・「ポスト・アカデミック科学」は,研究の場としての大学が知の共同体から知の企業体へと変貌を促している状態

・そこでは「科学的合理性」は失われ「技術的合理性」さらには「経済的合理性」が優先→科学は営利主義へ。

・長い先を見据えた,基礎的な研究や文化にのみ寄与する夢溢れる研究が廃れてしまう。こうして,素朴に,文化としての科学を享受したい市民,文化としての科学を取り戻そうとする科学者は差別・排除される。

・科学者や技術者と市民のネットワークが増えていけば,前述のように競争と営利主義に巻き込まれている「アカデミック・キャピタリズム」に対抗する共同,連帯の再生の手がかりをつかめるのではないか。

科学・技術研究者の責任

・科学・技術研究者は,科学・技術の発達をめざすだけでなく,人類の生命,自由,幸福(人間の神聖な自然権)のために貢献しなければならない。本来,彼らは人類からの支えを受けて研究者になり,そして研究できるのであり,研究バカ,専門バカになってはならず,見返り(利益や地位)を求めるべきでない。それを遂行しようとすれば,当然資本の営利主義と対抗せざるを得ず,緊張関係が生ずるはずである。しかし今日,多くの科学者は資本や権力に取り込まれ,研究目的や研究課題を資本の意向に合わせ, あるいは変更して研究費を獲得してきた。また,隠ぺい,改ざんに手を貸してきた。

・資本は,一方では,研究者を自由に研究させて成果を得ようとするが,他方では,他の資本との競争に勝つために研究者を囲い込もうとする。これは資本の自己矛盾である。その中で,研究者は資本と闘うことなしには,国民の利益を守るという積極的な倫理観に基づく社会的責任を果たすことはできない

2.科学・技術の倫理問題と二面性

・科学・技術は,外から善用も悪用もできるのではなく,その内側に相反する面を併せ持っている。しかも,生産や生活に役立つ面も大きいから,否定面を軽視することが多く厄介なのである

3.科学・技術者の競争と社会的責任

〇能力の「共同性」論(竹内章朗)
個人の自然性は社会的に規定されるのであり,人間の能力は人間個人の自然性と環境との関係によって生まれる。たとえば一般に,優れたスポーツ選手は,コーチやトレーナーに支えられて成長する。聴力障碍者のコミュニケーション能力は,コミュニケーション手段(手話や補聴器など)によって改善される。したがって,人間の能力の根源は「共同的なもの」であり,社会のあり方によって左右される。

・近代合理主義においては,人間はその理性によって,あらゆることを解決できると捉える。そこから科学・技術の進歩を至上とする思想が生まれ,今日の頽廃まで招いてしまった。こうして「真」,ことに科学的真が優越した価値として独走してしまった。しかし,真(真理)は価値の一つにすぎず,真を善,美と調和させることが必要であると唐木はいう。