ハンナ・アーレント(読書メモ)
読んだ本
ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
- 作者: 矢野久美子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/03/24
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (36件) を見る
同書は,ハンナ・アーレントの生涯を中心にその思想の変遷や当時の社会情勢についてまとめられた著作であった。ここでは,思想にまつわる記述を中心に,気になったものをメモとしてまとめておきたい。
「理解する」とは
アーレントにとって理解とは,類例や一般原則によって説明することでも,それらが別の形では起こりえなかったかのようにその重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは,現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく,「注意深く直面し,抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく,既知のものと起こったこととの新奇な点とを区別し,考え抜くことであった。
アーレントは,因果関係の説明といった伝統的方法によっては,先例のない出来事を語ることはできない,と断言する。しかも全体主義という新奇な悪しき出来事は,「けっして起こってはならなかった」ことだった。(以下略)【p.105-106】
ためらいと模索のための小休止(ホッファー)
人間は本能の不完全さゆえに,知覚から行動に移る間に,ためらいと模索のための小休止を必要とする。この小休止こそが理解,洞察,想像,概念の温床であり,それらが創造的プロセスの縦糸となり横糸となる。休止時間の短縮は,非人間化を促す。【p.140】
科学技術をめぐって(アーレント)
問題は,ただ,私たちが自分の新しい科学的・技術的知識を,この方向に用いることを望むかどうかということであるが,これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治的問題であり,したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定にゆだねることはできない。【p.142-143】
privateとdeprived
アーレントは私的(private)という語を「奪われている」(deprived)と結びつける。そこで奪われているのは,他人によって見られ聞かれることやさまざまな物の見方から生じるリアリティである。それがいかに温かく心地のよい家族的空間であっても,究極的には「同じものにかかわっている」ということだけが共通点であるような多数の物の見方,つまり他者の存在を奪われている,と言う。【p.149】
動きの自由
アーレントが「動きの自由」を思考の「身ぶり」と結びつけていることに注意しておきたい。世界での人間の自由が第一に経験される活動=行為においても,動きの自由は欠かせない条件であった。たとえば「国内亡命」のように,自由な動きができない暗い時代に人びとが思考へと退却する場合でも,「動き」が重要となる。思考に動きがなくなり,疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を,アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び,全体主義の特徴と見なしたのである。
「思考の動き」のためには,予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ,あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて,思考の自由な運動は可能になる。レッシングの動きのある思考は,たとえ世界と調和しなくても世界に関わり,多様な意見が存在することを重視する。それは,人びとが結合したり離れたりするような距離をもっていることと連関していた。【p.174】
アーレントといかにして向き合うか
アーレントと誠実に向き合うということは,彼女の思想を教科書とするのではなく,彼女の思考に触発されて,私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。自分たちの現実を理解し,事実を語ることを,彼女は重視した。考え始めた一人ひとりが世界にもたらす力を,過小評価すべきではない。私たちはそれぞれ自分なりの仕方で,彼女から何かを学ぶことができる。【p.229 あとがき】