A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

差別論(2)心理学からみた差別①

今回読んだ論文

池上 知子(2014)差別・偏見研究の変遷と新たな展開.教育心理学年報,53,133-146.

(*内容の要約を目的としているため,一部の文章は改変して引用している。又,太字や下線などの処理はすべて本稿の筆者による。)

これまでのブログ

atsublog.hatenadiary.com

差別・偏見・ステレオタイプの定義

・「差別」とは,当該領域においては,集団間関係の文脈の中で使用される概念であり,特定の集団やその構成員に対して公平さを欠く不当な扱いをすること

・その中には直接的に相手に危害を加える行為や自分の所属する集団や他の別の集団を有利にするため相手に不利益が及ぶようにする間接的な行為が含まれる

・差別的行為を行う者は対象となる集団やその構成員に偏見を持っているとされる

 

・「偏見」とは,対象に対する否定的態度を指し,対象集団に関する否定的内容の信念や感情,行為意図を含んでいる。

・多くの研究者は,Allportの定義を踏まえ,誤った知識や過度の一般化によってもたらされる悪感情を偏見としてとらえてきた

 

ステレオタイプはこの偏見の認知基盤をなすものであり,歴史的には,特定の社会集団に対して抱かれる集約的イメージを指す

・当該集団にみられる典型的な特性や社会的役割についての信念の集合とみなし,他者に関する情報処理を一定の方向へ導く認知的スキーマの一種

これまでの差別・偏見研究で指摘されてきたこと

人格理論によるアプローチ

欲求不満と攻撃による理論(Dollard, Doob, Miller, Mower, & Sears, 1939)
人間は目標の達成を阻害され欲求不満に陥ると攻撃衝動が高まり,その衝動を充足させるための対象として攻撃を向けても安全な他集団や少数者集団が標的として選択される

・偏見や差別を,防衛機制の一つである「置き換え」として捉える

・経済不況など社会への不満が社会的弱者への攻撃を引き起こす(Green, Glaser, & Rich, 1998)

・偏見や差別をある種の人格障害と結びつけて理解する→権威主義的パーソナリティ(Adorno Frankel-Brunswik, Levinson, & Sanford, 1950)
力への追従と弱者に対する加虐性を中核的特徴としている。懲罰的で専制的な養育環境の下で形成されやすく,脆弱な自我を脅威から守るための心理機制の所産としてみなされた

・偏見や差別は,すべての人々に程度の差こそあれ潜在している

集団心理からのアプローチ

集団葛藤理論(Sheriff, 1967)
偏見や差別は,集団間に現実的な利害の対立があるところに生ずる
内集団(自分の所属する集団)の達成目標が,外集団(他の集団)によって疎外されるような状況,利益が脅かされるような状況でみられる反応

社会的アイデンティティ理論(Tajfel & Turner, 1986)
人は物質的な利益のために争うだけでなく,名誉や誇りといった精神的利益のために競い合い,それが集団間差別をもたらすことを示した

・人はごく形式的であっても何らかの集団カテゴリーに割り振られると,個人にとってその集団が自己を環境内に位置づける重要な認知基盤となり,その集団への所属性が自己概念を構成する一つの要素となる。これを社会的アイデンティティと呼んでいる。

・偏見や差別の背景には「自己高揚動機」がある
人は,元来,自己を望ましいものとみなしたいと動機づけられているため,他の集団との比較による相対的優位性を保つことによって所属集団の価値を高く評価し,それを自己の価値に反映させようとする

・個人と集団のポジティブな関係は,内集団への忠誠と献身を生み出す原動力となる一方で,他集団への差別的態度を引き起こす原因にもなる

・(所属集団と個人のネガティブな関係である)集団脱同一視傾向を示すと,所属集団より下位の集団の評価を下げる傾向がある

・内集団ひいきは,互恵的規範に基づいた「集団協力ヒューリスティック」(内集団のメンバーに対してはほぼ自動的に協力する)によるものとの主張

・偏見や差別は集団生活を送る人間にとって不可避的に起きる適応的現象

認知的アプローチ

・人間は外界から複雑な情報を絶え間なく大量に受け取っているが,処理容量には限界があるため,それらを単純化し分類することによって対応

・他者を範疇化する行為は,同じ範疇に入る人たちを類同視し相互に互換可能なものとしてみるようになり,異なる範疇に入る人たちとの違いをことさら強調して知覚する(Tajfel, 1969)

同化と対比は,対象に対する過度の単純化と一般化を引き起こし,偏見・差別の認知的基礎となる集団ステレオタイプの形成につながる

現代的差別

・人々は,人種間の生物学的優劣に基づいて偏見や差別を公然と表明する古典的人種差別主義はもはや社会的に容認されないことを理解し,意識レベルでは平等主義であろうとしているが,無意識のレベルでは,差別感情や差別意識を密かに抱いている

嫌悪的人種差別主義(Gaertner & Dovidio, 1986)
表面上は,平等主義的信念を表明しながら,内心では対象に対して否定的感情を抱いている

現代的人種差別主義(McConahay, 1986)
人種間の平等を保障する必要性は十分認識しているが,現に存在する人種間の格差や不平等を偏見,差別の結果とみるのではなく,本人の努力の欠如に原因を求め,加えて,社会的弱者が過剰に自分たちの権利を要求し,不当に優遇されているという主張を行う傾向
→自身の差別や偏見に由来する主張であるという自覚がない

無意識レベルに着目して

二過程理論:人間の行う情報処理には,意識的注意を向けながら遂行される統制的処理と意識的注意を伴わずに遂行される自動的処理の二種類があり,状況に応じていずれかが起動すると考える認知心理学の分野で提起されたモデル

分離モデル(Devine, 1989)
偏見・差別の表出過程を二過程理論の枠組みを用いて記述。ステレオタイプや偏見に基づく態度や行動の表出は2種類の経路をたどると考える。
(1) 対象のカテゴリカルな属性と結びついているステレオタイプが自動的に活性化し,それに基づき対象に対する態度や行動がストレートに表出
(2) ステレオタイプに依存した反応を意識的に統制しながら,社会的に容認される形の態度,行動として表出

・伝統的なジェンダーステレオタイプは,自尊心が脅威に晒されたり,存在論的恐怖が顕現化すると活性化しやすい(石井・沼崎,2011)

社会動機的アプローチ

社会的支配志向性(Sidanius & Pratto, 1999)
人間には集団間の優劣や序列を肯定しようとする根強い心性があり,この心性は進化的起源がある
「階層神話」と称される言説(ex. 貧困は自己責任である)と志向性が結びつくと,さまざまな社会政策に対する賛否が規定され,階級差別的社会構造の温存につながる
差別の真の源泉は人々が抱く「差別ー被差別関係」への願望

システム正当化理論(Jost, Liviatan, Van der Toom, Ledgerwood, Mandisodza, & Nosek, 2010)
人間は基本的に現状を維持するように動機づけられており,現行の社会体制を,それらが現にそこに存在するという理由から公正で正当なものとみなす傾向にある

相補的ステレオタイプ(Kay, Jost, Mandisodza, Sherman, Pertrocelli, & Johnson, 2007)
あらゆる対象には長所と短所があり,ある次元で優れていると,別の次元では劣るものであるという信念
→平等達成の錯覚を引き起こし,不利な立場にある者への救済意図を減じるように機能

偏見の正当化ー抑制モデル(Crandall & Eshleman, 2003)

・偏見の対象とされる集団やその構成員について個人が表明する態度は,その個人の真の態度がそのまま表明されているわけではなく,さまざまな要因によって,抑制もしくは正当化される過程を経て表明される

・特定の対象に対する嫌悪や恐怖,不安などの否定的感情としての偏見は,きわめて頑強であるだけでなく,人々は,そのような偏見を表出したいと強く動機づけられている

・公教育等を通じて平等主義や人道主義の観点からそのような偏見を公共の場で表明することが社会的に容認されないことを学習し,リベラルで博愛的な自己イメージを維持するために,偏見の表出が抑制される

・抑制しようとすればするほど,逆に表出への衝動が強まり,偏見の正当化を可能にする要因を求めるようになる

・正当化の要因となりうるのが,たとえば,システム正当化理論(Jost et al.,2010)における「ものごとは,現にそこにあるということで正当化されうる」とか,公正的世界論(Lerner, 1980)における「人々は皆,それぞれの価値に見合う結果が得られるようになっている」といった自然論的誤謬に基づくイデオロギーであり,社会的序列や階級構造を自然選択と適者生存の必然的帰結とみる社会生物学的進化論である。また,自己責任論(貧困は本人の意志の弱さや努力の欠如による」 )や後天的学習説( 同性愛は家庭環境に原因がある」 )に基づく各種言説も含まれる

・正当化要因を見出すことによって,憚ることなく偏見を表明することができ,抑えていた感情を解き放つ快感を得ている

 

 

参考文献

好井 裕明. (2013). 分野別研究動向 (差別). 社会学評論, 64(4), 711-726.

 

気ままに考えたこと。(雑文)

Twitterの延長でしかないが、たまには最近思っていることを気ままに書いておきたい。本来は、ブログってこうやって使うのかなぁなんて思いながら。

基本的に私のブログは学術ブログなので、勉強したことをまとめるのに使うようにしている。他人に見せることはあまり考えておらず、単純に自分が得た知識をまとめておくことがメインで、たまに考察してみたり、世間に発することのできるような意見をまとめるようにしている。

学ぶことが増えるようになって、最近最も注意していることは「自分は決して"できる"人間ではない」ということと「結論を急がない」ということである。

前者はきっと自分が一流の学者になったとしても忘れないだろう。「学ぶ者は常に謙虚であるべし」というのが私のポリシーである。それは、社会的な望ましさなどではなく、シンプルにそれが学ぶ者として最も必要な態度だと思うからである。学ぶ者は常に様々な知見や意見に対してフラットに接する必要があるだろう。つい「確証バイアス」的に、自らの意見に適するものばかりを集めて、考えた気になることは多いが、むしろ"考える"とは逆の営みであり、自分の今持っていない意見を集めながら、どのような考えが自分に足りないのか、あるいはどのような点がおかしいのか、一つずつ見ていくことなのかなぁと思っている。そして、そんなことはわかっている!と言う人も、自分がそうなっていないか自省する必要があるだろう。僕が知りうる限り、世の中の研究はそんなのばっかりだ。以前、優生思想について調べる時に、お世話になったとある教授から「優生思想という言葉で調べた時点で、あなたが得られる情報は優生思想に対して否定的なものばかりになる可能性が高いですよ」と言われたことがある。無自覚に(知らなかっただけでもあるのだが)、確証バイアス的な情報収集をしていたことを後悔したし、これからはさらに気をつけようと感じた。

偏りを防ぐために、情報に触れる量を増やし続け、さまざまな情報から共通項を見出す、分野を超えて様々なものをつなぎ、そして考えていく。そんな営みが最近の私の中心的な課題かなと思っている。だからこそ、後者の「結論を急がない」につながっていく。結論を急ぐためには、反対意見を吟味したり、反対意見を考慮して、自分の考えを精査することを省くしかないだろう。結論を急ぐことをやめれば、考えるという営みもさらにさらに良いものになっていくのだろうと感じている。

去年までは、批判的思考と言いながらもあまり批判的に思考することができていなかったように感じる。今年の最大の目標は「批判的思考能力を身につける」ことである。そのためには、批判的思考に関する学びも深めていきたいし、批判的に見るべき様々なトピックに対して、考え続けたいと思っている。

こういう態度は、ある意味で研究者に向いてないのだろうなと思う。でも、僕はどうしても研究者になりたいわけではないし、気ままに考えることが許されないならば、研究者になるつもりもない。社会の役に立つかは分からないことでも、思考をめぐらせ、研究し続けることは大切なことではないだろうか。昨今の状況を見ていると、自然科学にとどまらず、心理学や教育学なども、割と社会のニーズに合わせた研究が多いような気がしている。気のせいだといいのだが。確かに社会に求められている研究をすることは大切だが、社会が直接求めていなくても、社会にとって必要な研究はあるのではないかとよく思う。さっきも、目の前でカルト団体の人と仲良く話している学生がいて、やっぱりカルトマインドコントロールに関する研究は大切だと思う一方、オウム真理教に対する心理学的な研究は決して十分には行われていない。本当は必要だったのかもしれない。でも、国は死刑を執行した。間接的に、国民が「死刑を選んだ」のだ。

自分がどんなことをしたいかなんてわからない。所詮、ひとりの大学生。モラトリアム人間だ。だから私は今日も考え続けるし、明日からもずっと考え続ける。心理学のことも、教育のことも、政治のことも、自分のことも。考えるのをやめたら、人間でなくなってしまうような気がする。だから私はこれからもずっと考える葦であり続けたい。

この文もどこに行くのかわからずに漂流している気がするが、しょせん気ままに考えるとはそんなもんかな。気が向いた時にまた気ままに考えてみたい。おわり。

共生社会への希求

今回読んだ本

共生の現代的探求―生あるものは共にある

共生の現代的探求―生あるものは共にある

 

「共生」に関する本を読んでみたいと思って手に取ったのだが,学のない私には難しすぎたため,全編読むのはギブアップ。来年あたりリベンジしてみたい。

ひとまず,序章の部分から参考になった記述を。

社会的共生の希求

・「共生」の概念は,元々,生物が生存競争をしながら依存しあう関係をとらえる方法として生まれているが,ここでの「共生」はそうした自然アナロジーではなく,社会の生産現場や教育現場における“社会的関係としての共生”を指す。

・資本制の発展とともに,人間において物象化が進み,アトム化されて均一化が進んだ。専門分化が進むが,それは均一化の中の一形態ーー差異化ーーにすぎない。しかし,そうした近代社会の人間均一化を通してこそ,「共生という関係性」が生まれている。それは近代のアンチテーゼとしての共生社会への希求・接近という性格を帯びている。今日の社会が剰余価値(利潤)だけを追求することでは破綻することが段々と明らかとなり,人びとが共に生きる,あるいはともに生かし合う・共に生かされるという「共生の価値」を求めざるを得なくなっているのである。

共生論アプローチ

・論点の一つ目は,個と全体の関係としての共生(共同的包容)

・もう一つの共生は,互いに異質な(差異的な)ものーー均一化のなかの差異性をいう(俗に差別化と呼ばれる)--としてあるがゆえにこそ,その差異を保持しつつ共存したり,差異を相互に生かし合って関係が変化していくような共生(差異的包容) 

・共同的包容→“One for All, All for One."が,共同性の一つの理想主義的表現といえる。前の“One for All"=すべてのために役立つ私という存在は,現代の共生関係の起点になり得る。まずは個人が他者に貢献するあり様を問わねばならない。

・そもそもOne for All, All for One.とは,個と全体の結合であるが,個が個人的存在であると同時に,社会的存在でもあるという二重性において成り立つ。そして「共生」はまさしくそれを実践的に可能にしている状態。

・差異的共生→たとえば障害者は人間や生命体が差異的に扱われているとの一つの認識の中に位置している。

・差異的包容は,異質なものの関係として排他的に扱う差別思想へと昂進させる社会的圧力に従わせることーーしれはもはや差異を超えた真正の差別ーーもあれば,またそれとは反対に,それを同一性の中の差異として受容し,むしろ共生の力として生かし合う関係に発展させることも可能

・社会的共生が成立するところには,必ずや人間における価値や倫理など価値的な判断が存在する。それを学問としてもとらえることが必要であり,その意義に目を向ける必要がある。我々は,「共生」が単なる思想・使命・志向性として成立しているという観点から離れ,人間の価値的な関与や関係性をとらえることに重要な意味がある。

・社会的共生の研究には,共同性(共同的包容)と差異性(差異的包容)という物差しをあててみること,さらに人間における共生の価値的なものを照射する方法が有効と考える。

競争・排除から社会共生へ

・今日的な日本やアメリカでは,自由放任と競争を原理とする新自由主義が展開されている。人びとは「競争」それ自体を,自由の響きによって,あるいは生物学的淘汰性の受容の意識から,社会の規範的価値として受け止めようとはする。

・私たちは,競争を前提とする社会を必ずしも是として受け入れているのではないのである。ましてや,弱者が排除されることを決して良しとはしない。他者との競争,他者からの排除ではなく,他者との共生(共に生きる,共にある)を求め,他者によって生かされ・必要とされる関係性の“豊かさ,心地よさ”を実感する人たちが増えている。個としての競争・排除から共同や共生へ,という流れは確かに存在する。社会共生は,社会的個人の自由,平等,所有,ベンサム(功利)を,新しい時代にふさわしい形で実現する可能性をもっていると考えられる。 

 

差別論(1)差別の定義をめぐって

差別の定義(佐藤, 2005)

・「差別」という言葉には両立不可能な2つのイメージが存在している

①差異モデル
「A と B を差別する」といったように、差別を基本的に「異なる扱い」であるとイメージし、2つの異なる集団(社会的カテゴリー)の比較によって差別を明らかにするというモデル

②関係モデル
「A が B を差別する」といったように、差別を基本的に「非対称な関係、もしくは権力関係」であるとイメージするモデル

・両方の考え方を受け入れるなら、「差別」によって「差別」が生じていると言わざるを得なくなる

・そこで、結果の不当性(人権侵害)からの問題構成を「人権論」と呼び、不当な結果を生み出すような原因である行為や仕組みに照準を合わせた問題構成としての「差別論」とは峻別

排除の三者関係モデル(佐藤, 2005)

・排除は共同行為であるが、これを差別者が被差別者を排除するという二者関係ではなく、差別者・共犯者・被差別者の三者関係モデルでとらえる。すなわち、共同行為としての排除は、差別者が共犯者を「同化」し、「われわれ」というカテゴリー化がなされることによって達成される。「われわれ」のカテゴリー化は、非対称な差異を作り出し(他者化)、「われわれでない者」(被差別者)を「見下す」。

★文献リスト

・佐藤 裕(2005)『差別論ー偏見理論批判』(要旨:https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/47196/20726_%E8%A6%81%E6%97%A8.pdf

・亘 明志・佐藤 裕(2007)書評 佐藤裕 著 『差別論--偏見理論批判』. ソシオロジ, 51(3), 178-185.(https://doi.org/10.14959/soshioroji.51.3_178

 

差別の定義をめぐって(野口道彦の考察)

www.pref.osaka.lg.jp

(pdf→http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdf

・差別とは、「(1)個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(3)異なった(不利益な)取扱いをすること」と定義できます。しかし、このような定義で、ある行為が差別かどうかという判定が、すぐにできるということではありません

・差別とみなさない側は、(1)と(3)との関係を、理にかなったものだと考えています。逆に、「差別だ」と訴える側は、(1)と(3)との関係を不合理なものだと考えています

・ある行為が「差別である」として糾弾の対象となるのか、それとも、「単なる区別」だとして問題にならないのかは、社会規範がおおいに関係しています

・社会規範は一枚岩ではなく、集団によっては社会全体の規範と異なる集団規範が維持されていることがあります

差別の種類

・社会規範との関係でみると、差別は3つのタイプにわけられます。第1は合法的「差別」、第2は社会的差別、第3は個人的差別です。

・合法的「差別」というのは、「差別」をすることが社会規範によって広範な人々に支持されているものです。これは、そもそも正しい行為とみなされているのですから、その社会では「差別」とは認識されていません。このタイプのものを合法的「差別」と呼んでおきましょう

・社会的差別は、区分されるシンボルとして、民族的もしくは社会的出身、人種、皮膚の色、性、言語、宗教などさまざまなものが持ち出されることになりますが、見落としてはならないのは、差異自体に意味があるのではなく、その背景には力関係におけるアンバランスがあるということです。力関係の優位な立場から、マジョリティは異なった取扱いをすることを正当化する論理をでっちあげてきました

・差別を支持・正当化するような集団規範さえも存在しなくなると、差別は個人レベルでのみおこなわれるようになります。これを個人的差別ということにします。個人的差別とは、差別を正当化する論理が誰からも支持されず、単に個人レベルの好き嫌いといった程度になったものをいいます

・アルベール・メンミは、「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者(引用者注:人種差別主義者)が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである」と指摘

・社会的差別は一方の極を合法的「差別」とし、他の極を個人的差別とするスケールの中間にあって、差別を正当化する集団規範の有無、強弱によって変わるグラデーションの領域

差別意識・偏見

差別意識は、大きくわけて、個人の態度のレベルと文化に組み込まれた差別意識のレベルでとらえることができます

・「(1)ある集団に属しているということで、個々の違いを見ずに、一面的な見方、カテゴリカルな一般化をし、 (2)嫌悪など感情を含み、(3)それに食い違う情報に接しても、見方を変えようとしない硬直した態度である」というのが、一般的な偏見の定義

・『権威主義的パーソナリティ』は、幼児期の体罰をともなった厳しいしつけに原因があり、厳しい体罰を受ければ本来もつはずの敵意が、絶対的に親に依存している幼児の場合、それを表現することができず、憎しみの感情が抑圧され、親に対しては従順な態度をとり(権威主義服従)、伝統的な価値を脅かす社会的弱者に対しては攻撃する傾向(権威主義的攻撃)が生まれる

差別意識を個人の特性で考えると、差別するのは一部の「異常な人」という見方になりますが、差別意識を文化に組み込まれたものと考えると、差別するのは、その文化を従順に身につけた「優等生」という見方になります。人数も少数ではなく、多数の人々になります

・差別という言葉で行為も意識も結果現象もあらゆるものを含めていますが、少なくとも差別行為と差別意識は区別して考えなければならないでしょう。差別をするのは、差別意識をもっているからだと単純に考えてしまいがちですが、必ずしも差別行為と差別意識は一致しているとは限りません(図)

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2019年1月の記事

目次 

 

優生学・優生思想

 

行動遺伝学

 

教育社会学

 

批判的思考(Critical Thinking)

 

統計(潜在ランク理論)

 

その他(心理学)

部活動と合理性神話 / 職業と教育社会学

今回読んだ本

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

第8章「部活動は学校において合理的な活動か?」より

部活動の合理性

・部活動には文化的経験の機会保障という面での合理性がある

・「激しい指導(行き過ぎた指導)」という事例からは,機会保障面での合理性のみでないことが読みとれる

・教員の負担という観点からみれば不合理な活動

組織社会学の視座

官僚制

〇官僚制の特徴(ウェーバー
・規則により権限や義務が定められている
・官庁間での階層構造
・文書による職務執行
・専門的な訓練の必要性
・職員が専業であること など

〇官僚制の非合理性
・官僚制の逆機能(マートン
「もともと規則を守ることは一つの手段だと考えられていたのに,それが一つの自己目的に変わる」(本来の目的よりも手段の重視)

・学校では,効率的に教育を提供しようとするシステムが,一定の秩序を児童生徒に押しつけてしまう危険もはらんでいる

制度理論と合理性神

・制度理論では,組織における恒常的で反復される生活は,諸個人の自己利害にもとづく計算された行為からではなく,「ものごとのあり方,あるいは,ものごとがなされるべき方法」として,適切である,自明であると認識されることから生じると論じられる」

・合理性神話(マイヤー)
一見,合理的・効率的に見える組織行動は,実際に合理的・効率的であるとは限らないが,当該の組織行動が合理的・効率的だとする社会的な合意は存在する。こうした社会的合意を「神話」と表現した。こうした神話のおかげで,官僚制は正当性を得て多くの組織で採用された。

・学校も合理性神話を利用し,効率よく自らの教育の有効性を主張することができる

・組織の「合理性」≠実質的な効果のあるもの 

部活動の”合理性神話”

・戦後の部活動は,民主主義的に「合理的な」活動として出発。その後,東京五輪期には,選手養成の場としての「合理性」や,平等な文化的意義の保障という「合理性」が高まり(対立し),その後は再び民主主義的な「合理性」が台頭した。高度成長期以降は管理主義的な「合理性」が見いだされるようになった。

・このように,さまざまなかたちで部活動を「合理的」とみなす見方が生まれたことで,部活動は今日まで拡大してきた。

・「文武両道」を謳う進学校が多いのも,それが優れた教育実践であるという「合理性神話」によるもの。

 

第10章「教育から職業への移行と就職活動」より

社会人基礎力

「社会人基礎力」とは、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、経済産業省が2006年に提唱しました。

人生100年時代」や「第四次産業革命」の下で、2006年に発表した「社会人基礎力」はむしろその重要性を増しており、有効ですが、「人生100年時代」ならではの切り口・視点が必要となっていました。

こうした状況を踏まえ、平成29年度に開催した「我が国産業における人材力強化に向けた研究会」において、これまで以上に長くなる個人の企業・組織・社会との関わりの中で、ライフステージの各段階で活躍し続けるために求められる力を「人生100年時代の社会人基礎力」と新たに定義しました。社会人基礎力の3つの能力/12の能力要素を内容としつつ、能力を発揮するにあたって、自己を認識してリフレクション(振り返り)しながら、目的、学び、統合のバランスを図ることが、自らキャリアを切りひらいていく上で必要と位置づけられます。

参考リンク
社会人基礎力(METI/経済産業省)
経済産業省「人生100年時代の社会人基礎力について」

ハイパー・メリトクラシー社会の問題

〇ハイパー・メリトクラシー(本田, 2005)
・意欲やコミュニケーション能力,「人間力」といった個人の人格に類する要素をも能力とみなし,就労にあたり重要視する社会

・学校での育成が難しく,家庭環境も大きく影響するため,格差や不平等の正当化につながるリスク

・キャリア教育の「自分で考えて自分で決めよ」というメッセージは,進路不安を招いており,抽象的なキャリア教育ではなく職業に関する専門的な知識を教えるなど,教育の職業的意義の重要性を本田(2009)は主張している。

コミュニケーション能力を職業の関連として教える問題点

①意欲やコミュニケーション能力を,個人の「能力」に還元することで,社会的な不平等が見えにくくなる

・教育や家庭の環境,性別といった「社会的に平等とは言えない差」によって受ける影響を考慮していない

②仕事に対する意欲が労働環境の悪さを覆い隠す可能性

・「仕事に対する意欲を持つべき」という規範は,かえって劣悪な労働環境に人を適応させてしまう可能性がある

 

ソーシャルスキルを測定する

なぜ,測定するのか?

ソーシャルスキルを測定する目的はいくつか考えられます。一つには「実証的な研究を行うため」というものが挙げられそうですが,「治療やトレーニングのため」という目的もソーシャルスキルの場合には非常に重要な理由の一つです。

スクリーニングとアセスメントの問題

〇スクリーニング
・大勢の人の中から治療やトレーニングの対象となる人を見つけ出すために行う測定
・時間をかけずに済む簡便な尺度
・項目数が少なく,本人がチェックできる,簡単な質疑応答で結果が出せるもの
ex. KiSS-18 (菊池, 1988)

〇アセスメント
・スクリーニングで引っかかった個人のソーシャルスキルの,どの領域に,どの程度の問題があるのかを測定
・個人特有の問題点を特定でき,記述できる尺度や測度
・測定に時間がかかったり,測定する方にも,される方にも,負担がかかったりする手続き

〇課題
・スクリーニング程度の測定しかせずにトレーニングを実施している例
・尺度や測度,測定法がスクリーニングに向いているものなのか,アセスメントに向いているものなのか,意識されていない

何を測定するのか

ソーシャルスキルの定義の仕方によって,測定のされ方も変わることが想定されます。ソーシャルスキル生起過程モデル(相川, 2009)に基づけば,「相手の反応の解読」「対人目標と対人反応の決定」「感情の統制」「対人反応の実行」というように,認知過程から実行過程までそれぞれが測定の対象となります。

・「相手の反応の解読」過程とは,相手がこちらに対して実行した言語的,非言語的な反応を解読する過程

・「対人目標と対人反応の決定」過程とは,眼前の対人状況にいかに反応すべきか目標を決定し,これを達成するための反応を決定する過程

・「感情の統制」過程では,①相手の反応の解読過程で生じる対人情動,②対人目標と対人反応の決定過程に伴う感情,といった情動や感情を適切にコントロールする過程

・「対人反応の実行」過程は,対人反応を,言語的,非言語的に実行する過程。対人反応を①微視的,②巨視的,③力動的の3種類に分類して,整理される。

ソーシャルスキルの主な測定法

他者評定

①面接法:研究者,治療者,トレーナー,カウンセラー,教師などが,測定の対象となる者(対象者)と直接,面談する方法

②行動観察法:対象者にとって自然な状況の中で,対象者の行動を観察する方法

③ロールプレイ法:実際の対人的問題を再現するように工夫された模擬的場面を設定し,その中で対象者に特定の役割(ロール)を与えて,対人反応を実際にやってもらうことで,対象者のソーシャルスキルの程度を測定するもの

④仲間*1による評定
a. 評定尺度法:ソーシャルスキルの行動レベルの特徴が記述されている複数の項目を用いて,仲間が対象者をポイント尺度上で評定するもの
b. ゲス・フー・テスト:一連の行動特徴を記述した項目をあげ,これに該当する人物名を一人または複数,挙げさせる方法
(その他にもソシオメトリック・テストなどが挙げられる)

⑤関係者による評定*2による評定
a. 評定尺度法
b. 行動チェックリスト法:発言,微笑,アイコンタクトなどの肯定的行動,たたく,邪魔をする,ケンカをするなどの否定的な行動を列挙しておき,ある一定期間にそのような行動がみられたか測定
c. ランキング法:関係者が集団内における対象者のランクづけを行う(スクリーニング向け)

自己評定

①自己評定尺度法:対象者当人に自己評定用の尺度を手渡し,回答してもらうもの

②自己監視法:日常のできごとを対象者当人に日誌風に記録させる方法 

参考文献

人づきあいの技術―ソーシャルスキルの心理学 (セレクション社会心理学)

人づきあいの技術―ソーシャルスキルの心理学 (セレクション社会心理学)

 

相川 充(2009). 人づきあいの技術ーソーシャルスキルの心理学,サイエンス社,p.167-205. 

*1:対象者と同じカテゴリーに入り,日常的接触があり,対象者のことを知っている人

*2:対象者と異なるカテゴリーに入り,日常的接触があり,対象者のことを知っている人