A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

気ままに考えたこと。(雑文)

Twitterの延長でしかないが、たまには最近思っていることを気ままに書いておきたい。本来は、ブログってこうやって使うのかなぁなんて思いながら。

基本的に私のブログは学術ブログなので、勉強したことをまとめるのに使うようにしている。他人に見せることはあまり考えておらず、単純に自分が得た知識をまとめておくことがメインで、たまに考察してみたり、世間に発することのできるような意見をまとめるようにしている。

学ぶことが増えるようになって、最近最も注意していることは「自分は決して"できる"人間ではない」ということと「結論を急がない」ということである。

前者はきっと自分が一流の学者になったとしても忘れないだろう。「学ぶ者は常に謙虚であるべし」というのが私のポリシーである。それは、社会的な望ましさなどではなく、シンプルにそれが学ぶ者として最も必要な態度だと思うからである。学ぶ者は常に様々な知見や意見に対してフラットに接する必要があるだろう。つい「確証バイアス」的に、自らの意見に適するものばかりを集めて、考えた気になることは多いが、むしろ"考える"とは逆の営みであり、自分の今持っていない意見を集めながら、どのような考えが自分に足りないのか、あるいはどのような点がおかしいのか、一つずつ見ていくことなのかなぁと思っている。そして、そんなことはわかっている!と言う人も、自分がそうなっていないか自省する必要があるだろう。僕が知りうる限り、世の中の研究はそんなのばっかりだ。以前、優生思想について調べる時に、お世話になったとある教授から「優生思想という言葉で調べた時点で、あなたが得られる情報は優生思想に対して否定的なものばかりになる可能性が高いですよ」と言われたことがある。無自覚に(知らなかっただけでもあるのだが)、確証バイアス的な情報収集をしていたことを後悔したし、これからはさらに気をつけようと感じた。

偏りを防ぐために、情報に触れる量を増やし続け、さまざまな情報から共通項を見出す、分野を超えて様々なものをつなぎ、そして考えていく。そんな営みが最近の私の中心的な課題かなと思っている。だからこそ、後者の「結論を急がない」につながっていく。結論を急ぐためには、反対意見を吟味したり、反対意見を考慮して、自分の考えを精査することを省くしかないだろう。結論を急ぐことをやめれば、考えるという営みもさらにさらに良いものになっていくのだろうと感じている。

去年までは、批判的思考と言いながらもあまり批判的に思考することができていなかったように感じる。今年の最大の目標は「批判的思考能力を身につける」ことである。そのためには、批判的思考に関する学びも深めていきたいし、批判的に見るべき様々なトピックに対して、考え続けたいと思っている。

こういう態度は、ある意味で研究者に向いてないのだろうなと思う。でも、僕はどうしても研究者になりたいわけではないし、気ままに考えることが許されないならば、研究者になるつもりもない。社会の役に立つかは分からないことでも、思考をめぐらせ、研究し続けることは大切なことではないだろうか。昨今の状況を見ていると、自然科学にとどまらず、心理学や教育学なども、割と社会のニーズに合わせた研究が多いような気がしている。気のせいだといいのだが。確かに社会に求められている研究をすることは大切だが、社会が直接求めていなくても、社会にとって必要な研究はあるのではないかとよく思う。さっきも、目の前でカルト団体の人と仲良く話している学生がいて、やっぱりカルトマインドコントロールに関する研究は大切だと思う一方、オウム真理教に対する心理学的な研究は決して十分には行われていない。本当は必要だったのかもしれない。でも、国は死刑を執行した。間接的に、国民が「死刑を選んだ」のだ。

自分がどんなことをしたいかなんてわからない。所詮、ひとりの大学生。モラトリアム人間だ。だから私は今日も考え続けるし、明日からもずっと考え続ける。心理学のことも、教育のことも、政治のことも、自分のことも。考えるのをやめたら、人間でなくなってしまうような気がする。だから私はこれからもずっと考える葦であり続けたい。

この文もどこに行くのかわからずに漂流している気がするが、しょせん気ままに考えるとはそんなもんかな。気が向いた時にまた気ままに考えてみたい。おわり。