A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

「科学的な正しさ」の裏にある陥穽

久しぶりに意見系のブログを書くことにした。雑文であることは否めないが,記録として残しておきたい。

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言ってはいけない」「もっと言ってはいけない」といった著書でも話題となっている橘玲氏が,現代ビジネスに寄稿された記事がおもしろかったので,まずはその記事を少しばかり紹介したい。

その前に本稿の寄稿のきっかけとなった「Intellectual Dark Web(I.D.W.)」については偶然にも以前このブログで取り上げたので,そちらのリンクも貼っておきたい。

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さて,当該記事から気になる記述をピックアップ。

・最初はアカデミズム内の論争だったものが、やがて「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」へと変容していった。

・PC派はやがて、行動遺伝学者が提示する膨大な「エビデンス」を否定することができなくなった。その結果、エビデンスがあろうがなかろうが、知能と遺伝の関係は「言ってはいけない」と主張するようになったのだ。

・「現代の進化論」の専門家・研究者は生き物の群れ(社会性)と同様に人間の集団を研究するが、だからこそ自分を「善」、相手を「悪」の側に分類するような「群れ的思考」の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する。

・木澤氏はI.D.Wを「社会的価値観より科学的リアルを信奉するエビデンス至上主義」と述べているが、この定義には疑問がある。なにかを主張するにあたってエビデンスを示すのは科学の前提であり、エビデンスのない批判に価値はないからだ。

・「エビデンスがあっても「言ってはいけない」ことがある」との主張があるかもしれないが、その場合は、「科学的根拠があって自由に表現していいこと」と「科学的根拠があっても表現の自由が制約されること」をどこで線引きするかを決めなくてはならない。その境界線を決めるのは誰で、どうやって管理し、境界を侵犯した者をどのように罰する(刑務所に放り込む?)のだろうか。

・このように考えれば、どれほど不愉快でも、リベラルは「エビデンス至上主義」を批判することができない。こうしてリベラルは「ひとびとの良識」に訴えてPCコードを振りかざすようになり、それに対抗して「アンチリベラル」はエビデンスを前面に押し出すのだ。

わたしは基本的に優生思想や差別・偏見といった思想について警戒しながらも,様々な人間の間には生物学的差異があることを認める必要があると考えている。

科学的な知見(ここでは「エビデンス」と呼ばれているもの)が,暫定的なものであり絶対的なものではないことは否めないが,人間の特性が遺伝的な影響を受けることは数多くの研究で指摘されており,こうした知見を否定することは現実逃避にすぎないと思わされる。せめて科学での否定を望みたいところだが,そもそも現実的に考えて,遺伝の影響がまったくないことを今から証明するのは不可能に思える。

また,こうした知見に目をつぶることによって,見過ごされる問題があるような気がしてならない。行動遺伝学者の安藤寿康は,

行動遺伝学の知見を否定することは,すでに目の前に存在している不愉快な現象にベールをかけ,人々にそれを見えなくさせ,差別を放置させてしまうことにつながる

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,こうした観点からも,行動遺伝学や進化心理学をはじめとした生物学的知見を否定する必要はないと考えている。

橘の言う通り「エビデンスのない批判」に価値はない。無論,「エビデンス至上主義」なるものを否定することは容易ではないだろう。ただ,エビデンスという言葉に踊らされすぎることも良くないとは思うので,念のためくぎを刺しておきたい。

エビデンスの活用についても、エビデンスに基づいた(based)とエビデンスに情報づけられた(informed)の違いがあるが、日本では後者にほとんど注意が払われないまま前者が暴走している印象を受ける。

出典:東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由(畠山 勝太) | 現代ビジネス | 講談社(3/5)

エビデンスの蓄積そのものが問題ではないとしても,「エビデンスに基づいた」(Evidence Based)施策についてとなれば話は変わってくるだろう。もっとはっきりと言えばいくら「エビデンス」が至上であるとしても「エビデンスに基づいた」施策が絶対的な正しさを持つとは限らない。先にも引用したこの記事はエビデンスに基づいた教育について様々な示唆を与えてくれる。

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そもそも,行動遺伝学や進化心理学,さらには社会生物学といった学問が批判されたのはなぜか。「アメリ社会生物学会」の前身は,「アメリ優生学会」であったことが知られている。優生学といえば,ナチスホロコーストや,世界各地で行われた断種政策,日本でいえば優生保護法などが思い出される。こうした政策は,結果的に今からみれば「悪」とされるが,当時はこれが「エビデンスに基づいた」政策であったともいえる。ナチスホロコーストについては,完全に優生学に基づいていたかといわれれば疑わしい面もあるが,少なくとも断種政策は,優生学という学問の実践であったことに疑いはない。

優生学という学問が積み上げた「エビデンス」そのものは(多少の誤りがあったが)ここで橘の言う「エビデンス至上主義」的価値観に基づけば,それ自体が批判されるべきものとは言えないだろう。とすれば,批判されるべきはその実践,すなわち「エビデンスに基づいた」実践行為である。

実践行為が問題だったとしたときに,一つの大きな疑問にぶつかる。「言うことは実践に入るのか」である。もし,発言すること自体が「実践」に入ってしまうのであれば,やはり「エビデンスがあっても『言ってはいけない』時もある」と言える可能性が出てくる。このあたりは,記事の中で簡単に否定されて終わっていたが,もう少し複雑な背景があるとは言えるように思われる。なぜか。発言をすることが少なからず,国民(大衆)の実践を生む可能性があるからである。確かに先に紹介したような政治的実践とはレベルが異なるかもしれない。ただ,大衆レベルの実践が集まっていけば,何かしらの形での運動(実践)につながる可能性は否定できない。そこまでいってから実践ということはもちろん可能だが,発言そのものが「実践」の手前と見ることもできるのは否定できないだろう。もしかしたら「言ってはいけない」のは,単純なタブー視という理由だけではなく,そこで言い始めた時にどのようにエスカレートしないようにストップさせることができるか定まっていないからではないだろうか。

青木(2015)の指摘を紹介しておきたい。青木によれば,近年は科学の技術化・技術の科学化が起こり,科学と技術の「科学・技術」化が起こっており,そこに営利主義が取り込まれ,科学的合理性ではなく,技術的・経済的合理性が優先されていると指摘している(詳しくは,科学者の社会的責任をめぐって - A Critical Thinking Reed。科学が“実践”のための学問化する中で,技術的・経済的合理性が優先されていくことは,「ナチズムの再来」の危険度が上がっていると言えるかもしれない。優生学社会生物学の時代だけでなく,現在も遺伝と行動に関する研究の応用には様々な問題点がある。そこには倫理的な問題にとどまらず,実践の難しさがあるといえるだろう。

安藤(2018)の指摘も紹介しておきたい。

出生前検査の普及や選別的中絶の増加は、単に実際に障害のある人々に「もし今の時代に自分がいたら、自分は産んでもらえなかったかもしれない」と自分の存在を否定されたような感情を引き起こすだけでなく(これだけでも「障害者差別ではない」とは言い切れないが)、実際に障害のある人々をよりマイノリティにし、より生きにくい社会を現出させてしまう。出生前検査を受けることが当たり前になり、障害が見つかったらほとんど全員が中絶をしてしまう世界とは、それがいかに「個人の選択」という見せかけをもっていようとも、あからさまな優生思想に基づいた国家的な優生政策によってもたらされるのと同じ世界なのである。

詳しくは,優生思想をめぐる研究から学ぶ #2 - A Critical Thinking Reed

イギリスでは出生前診断の割合が高まった結果として,障害者への差別的状況,またこれから生まれてくる障害者への支援の低下という形で「優生思想」的な世界が広がっていると指摘されている。賛否は差し控えるが,「出生前診断」をめぐる問題が,そう簡単なものではないことは明らかである。

更に,偏見の正当化ー抑制モデル(Crandall & Eshleman, 2003)においては,偏見を正当化する根拠として,社会生物学的な知見が挙げられている。橘の言うように,科学者たちが「自分を『善』、相手を『悪』の側に分類するような『群れ的思考』の偏見を警戒し、白人や黒人といった集団の属性よりも個人の資質を重視する」のだとしても,大衆はそのような思惑には反して,偏見を表出することの正当化に用いる可能性が,このモデルからは指摘されている。意識的ではなく,ほぼ自覚のない状態で偏見に基づいた差別的言動が表出される場合もある。こうしたものに手を打たなければ「行動遺伝学者(進化心理学者)たちは差別に加担している」というような批判にもつながりかねない(詳しくは,差別論(2)心理学からみた差別① - A Critical Thinking Reed

橘の言葉を借りながら,私の考えを書いていきたい。PC派のように“現実”から目を背けることは現実逃避にすぎず良い判断とは言えないだろう。対して,エビデンス至上主義は,確かに科学的な蓄積としての「エビデンス」の尊重という意味では良いものの,それを実践に活かす上での問題は大きくあり,科学者の意図しない形で実践されていくリスクが,科学の科学・技術化も相まって高まっていると言える。こちらも無条件に信奉していいような状況ではない。気づけば人権が侵害されるかもしれない。「生きにくい」社会を作ることに,こうした「科学的な真実」が貢献する可能性は十分にある。

ということは,今後必要なのは,PC派とエビデンス至上主義派の対立ではないだろう。悪用をしないために何ができるかを徹底的に検証することではないだろうか。安藤は,

遺伝要因をふまえた上でのより望ましい社会システムの構築,あるいはより社会的に妥当な考え方の成熟の部分は,行動遺伝学が直接取り組む課題ではない

詳しくは,行動遺伝学の倫理 - A Critical Thinking Reed

と述べているが,行動遺伝学の範疇ではなくても,行動遺伝学者が取り組むべき課題であると思うのは僕だけだろうか。Alcock(2001)は,科学者の責任として次の3つのことを挙げている。

①検討している仮説が検証できるように十分に証拠を集めること

②引き出した結論が間違って解釈されたり,その後,間違って利用されたりしないようにして,それを発表すること
・この目的のためには,研究者は,科学的な発見が暫定的な性質のものであること,再現性が必要であること,誤りの可能性もあることなどを承知していなければならない。これらはみな,どんな科学者にとっても,他人の研究にあてはめるのは容易だが,自分の研究となると,なかなかあてはめるのが難しいものである。

③科学の誤用が起こった場合には,それを指摘すること

詳しくは,『社会生物学の勝利』より(メモ) - A Critical Thinking Reed

科学者の責任は,ただ自然現象について研究することだけでなく,結論の誤用を防ぐように発表し,間違っていたらそう指摘することまでを含むとAlcockは指摘している。この意見に従えば,「エビデンスで蓄積されてきたことは正しいんだ」とばかり主張し続ける科学者たちはその責任を果たしているとは言い難いのである。そもそも,科学的な発見は暫定的なものであるという主張が乏しく見え,むしろ危険とすら思える。

橘は,ポリコレ論争について「政治(イデオロギー)と科学(エビデンス)の対立」と表現していたが,そう表現してしまうと問題の本質が見失われてしまう。むしろ「道徳・倫理(moral)と科学(evidence)」の対立としてみていかなければならないと思われる。さらに,そのような視座に立てば,イデオロギーとの対立も自然と消滅していくのではないだろうか。

科学者は,安易な「イデオロギー」との対立構造に踊らされずに,Alcockの主張したような科学者としての責任を果たす方向にアプローチしていく必要があるのではないだろうか。専門である生命倫理学者などが中心となるべきであることは否めないが,科学者は倫理学の知見に対しても誠実に向き合い,責任を果たしていく姿勢をより前面に強調してほしいように思う。科学的な正しさの裏には「実践におけるリスク」という陥穽がある。科学的な正しさだけを主張することから,実践における倫理的課題性にも目を向けることが科学者に必要な心構えではないかと,個人的には考えている。

悪と全体主義(読書メモ)①

読んだ本

ハンナ・アーレントについて少々調べる機会があったので,そのついでに読んでみた著作。以下,印象に残った記述をチャプターごとにまとめておきたい。

はじめに~序章

・この二作[『全体主義の起原』・『エルサレムアイヒマン』]を通じてアーレントが指摘したかったのは,ヒトラーアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく,むしろ社会の中で拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め,吸い寄せられていくーーその過程を,アーレント全体主義の起原として重視しました。【p.10-11】

アーレント全体主義を,大衆の願望を吸い上げる形で拡大していった政治運動(あるいは体制)である,と捉えています。これは,ごく一部のエリートが主導して政治を動かす,いわゆる独裁体制ーーあるいは,政治学で「権威主義」と呼ばれるところの,特定の権威を中心とした非民主主義体制ーーとはまったく違うものであるということです。大衆自身が,個人主義的な世界の中で生きていくことに疲れや不安を感じ,積極的に共同体と一体化していきたいと望んだーーと考えたのです。【p.23-24】

第1章

反ユダヤ主義ユダヤ人憎悪は同じものではない
・(ユダヤ人が再び迫害の対象とされたのは,)西欧で勃興した近代的な「国民国家」が,スケープゴートを必要としていたからであり,そこには国家の求心力を高めるための「異分子排除のメカニズム」が働いていた【p.32-33】

・強烈な「共通の敵」が出現すると,それまで仲間意識が希薄だった人々の間に強い連帯感が生まれ,急に「一致団結」などと叫ぶようになるーー。これは,今でも(意外に身近なところで)見られる現象です。【p.39-40】

国民国家形成期におけるユダヤ人解放は,ユダヤ人同士の間にも差別意識を生んでいた【p.53-54】

ユダヤ人をどう処遇するかということについて,政権の中枢にいる人々と一般民衆との間には意見のズレがありました。しかし,ユダヤ人を排除することが賢い政策ではないと分かっていても,『シオンの賢者たちの議定書』のようなものが流布し,それを信じた民衆がユダヤ人への憎悪・反感を募らせていくと,政治家はそれを無視できなくなります【p.54】

・国家を同質なものにしようとすると,どうしても何かを排除するというメカニズムが働く
・「政治の本質は,敵と味方を分けること」
・自分たちは悪くない,と考えたい。それが人間の心理です。つまり,自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが,異物を抱えているせいで問題が発生しているのだーーと考えたいのです。【p.57-59】

第2章

・英国人から抑圧を受けることになったボーア人は,自分たちの“下”にいる非白人にその圧力を転嫁するようになりました。差別されて,劣等感を覚えるようになった人が自分より“下”を見つけ,徹底的に差別することで,プライドを取り戻そうとするのは,私達の日常でもよく見られる現象ですね。彼らは,「人間とも動物ともつかぬ存在に対する恐怖」から人種思想を生み出し,非白人への差別と,暴力による支配を強めていきました。
ボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想【p.72-73】

・人権を実質的に保障しているのは国家であり,その国家が「国民」という枠で規定されている以上,どうしても対象外となる人が出てしまいます【p.106】

 

科学者の社会的責任をめぐって

今回読んだ本

共生の現代的探求―生あるものは共にある

共生の現代的探求―生あるものは共にある

 

第4章「科学における共生」より。重要な記述をメモ。

1.科学・技術と科学・技術者の社会的責任

科学・技術の意義の変容

・科学は本来,人間の心を豊かにする精神的生産にかかわる学問,宗教,芸術などの文化の一部であり,文化は多様性,多重性を持っている。それに対して,技術は人間の物質的生産(文明)の基礎をなしている。このように,科学と技術は本来別物であったし,役割も異なっていた(いる)。

産業革命を経て,科学は抽象的,普遍的な理論であると同時に,具体的で特殊な現実に役立つことがわかってきた。

・科学は系統的・全面的に生産過程に適用されるようになり,文化(精神的生産)というだけでなく,文明(物質的生産)に役立つという側面が強まった。

・科学の技術化,技術の科学化→「科学・技術」化

・大学や公共部門の科学者も実用の役に立つという意識が強くなり,それに迎合する姿勢も強まる。その中で,科学は資本の営利主義にますます従属するようになる。
→産学協同による「知の私有化,資本主義化」
→科学のスクラップアンドビルド。多様性,共同性が損なわれた。

・「ポスト・アカデミック科学」は,研究の場としての大学が知の共同体から知の企業体へと変貌を促している状態

・そこでは「科学的合理性」は失われ「技術的合理性」さらには「経済的合理性」が優先→科学は営利主義へ。

・長い先を見据えた,基礎的な研究や文化にのみ寄与する夢溢れる研究が廃れてしまう。こうして,素朴に,文化としての科学を享受したい市民,文化としての科学を取り戻そうとする科学者は差別・排除される。

・科学者や技術者と市民のネットワークが増えていけば,前述のように競争と営利主義に巻き込まれている「アカデミック・キャピタリズム」に対抗する共同,連帯の再生の手がかりをつかめるのではないか。

科学・技術研究者の責任

・科学・技術研究者は,科学・技術の発達をめざすだけでなく,人類の生命,自由,幸福(人間の神聖な自然権)のために貢献しなければならない。本来,彼らは人類からの支えを受けて研究者になり,そして研究できるのであり,研究バカ,専門バカになってはならず,見返り(利益や地位)を求めるべきでない。それを遂行しようとすれば,当然資本の営利主義と対抗せざるを得ず,緊張関係が生ずるはずである。しかし今日,多くの科学者は資本や権力に取り込まれ,研究目的や研究課題を資本の意向に合わせ, あるいは変更して研究費を獲得してきた。また,隠ぺい,改ざんに手を貸してきた。

・資本は,一方では,研究者を自由に研究させて成果を得ようとするが,他方では,他の資本との競争に勝つために研究者を囲い込もうとする。これは資本の自己矛盾である。その中で,研究者は資本と闘うことなしには,国民の利益を守るという積極的な倫理観に基づく社会的責任を果たすことはできない

2.科学・技術の倫理問題と二面性

・科学・技術は,外から善用も悪用もできるのではなく,その内側に相反する面を併せ持っている。しかも,生産や生活に役立つ面も大きいから,否定面を軽視することが多く厄介なのである

3.科学・技術者の競争と社会的責任

〇能力の「共同性」論(竹内章朗)
個人の自然性は社会的に規定されるのであり,人間の能力は人間個人の自然性と環境との関係によって生まれる。たとえば一般に,優れたスポーツ選手は,コーチやトレーナーに支えられて成長する。聴力障碍者のコミュニケーション能力は,コミュニケーション手段(手話や補聴器など)によって改善される。したがって,人間の能力の根源は「共同的なもの」であり,社会のあり方によって左右される。

・近代合理主義においては,人間はその理性によって,あらゆることを解決できると捉える。そこから科学・技術の進歩を至上とする思想が生まれ,今日の頽廃まで招いてしまった。こうして「真」,ことに科学的真が優越した価値として独走してしまった。しかし,真(真理)は価値の一つにすぎず,真を善,美と調和させることが必要であると唐木はいう。

 

差別論(3)心理学からみた差別②

今回読んだ論文

池上 知子(2014)差別・偏見研究の変遷と新たな展開.教育心理学年報,53,133-146.

前回までのブログ

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差別・偏見を解消する試み

・内集団と外集団の区分自体を変容させることによって集団間バイアスを低減できる

・交差カテゴリー化
集団間の対立軸となっている次元とは別の次元を意識化させることによって,対立を先鋭化させている次元の顕現性を低減する
→新たな対立軸を生むなどのリスク

・カテゴリーの区分自体の消滅
→結局,内集団・外集団区分の温存につながってしまいやすい

・偏見の自己制御モデル(Devine & Montieth, 1993)
偏見に基づく反応を表出すると,これを自ら抑止する心的過程が自動的に起動するしくみを個人内部に作りあげていく必要性

・リバウンド効果(Macrae, Bodenhausen, Milne, & Jetten, 1994)
偏見や差別に囚われないようにと強く教示されると,言語的記述内容のステレオタイプ度は減少するが,実際の相互作用場面では,逆に差別的な非言語行動が強まる

・相手のカテゴリー属性から目をそらさせる

新たな挑戦

接触仮説(Allport, 1954)
偏見は相手に対する知識の欠如が大きな原因であると考えられることから,相手と接触する機会を増やし,真の情報に触れれば,偏見はおのずと解消する

接触が効果をもたらすために必要な条件として,
①多数者集団と少数者集団が対等の立場で共通の目標を追求するような接触であること
②両者の接触が制度的に是認されていること
③両集団に共通する関心や人間性の認識を促す接触であること
が挙げられており,「協同学習」などで実践されている。

・集団間友情(Brown & Hewstone, 2005)
 互いの集団所属性を意識しつつも個人化された親密な交流を行うこと

・拡張接触(Wright, Aron, McLaghlin-Volpe, & Ropp, 1997)
内集団のメンバーの中に外集団のメンバーと親しい者がいるということを単に知るだけで,その外集団に対する態度が好意的になる

・仮想接触仮説(Crisp & Turner, 2012)
自分が外集団のメンバーとうまく相互作用できている場面を想像することによって,外集団への態度が好転する
→メンタルトレーニングのような機能が期待

・潜在認知の変容可能性に関する議論
Dasgupta(2013)によると,潜在認知がさまざまな情報への接触を通して無自覚に形成されるのであれば,そこには本人の意識的能動的選択の余地はなく, 周囲の情報環境がそのまま反映されているに過ぎないことになる。もしそうであるなら,個人の置かれている情報環境を変えれば,おのずと潜在レベルで形成されている連合ネットワークも変化する
→Gawronski & Bodenhausen (2011) による「連合命題評価モデル」においても同様の議論がなされている

最近の動向

書籍

差別や偏見に関するここ2~3年の書籍としては次のようなものが挙げられる。(あいにくほとんど未読なので順に読み進めていきたい)

レイシズムを解剖する: 在日コリアンへの偏見とインターネット

レイシズムを解剖する: 在日コリアンへの偏見とインターネット

 
紛争・暴力・公正の心理学

紛争・暴力・公正の心理学

  • 作者: 大渕憲一,田村達,福島治,林洋一郎,熊谷智博,中川知宏,上原俊介,八田武俊,佐々木美加,山口奈緒美,高久聖治,小嶋かおり,福野光輝,佐藤静香,渥美恵美,川嶋伸佳,鈴木淳子,青木俊明,浅井暢子,加賀美常美代,山本雄大,潮村公弘,森丈弓,戴伸峰,近藤日出夫
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 
悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

 
偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

 

論文など

最後に,本ブログを書きながらいくつか読んだものを紹介しておきたい。

三船恒裕, & 横田晋大. (2018). 社会的支配志向性と外国人に対する政治的・差別的態度: 日本人サンプルを用いた相関研究. 社会心理学研究, 34(2), 94-101.

同論文では,社会的支配志向性(SDO)と,政治的態度や差別的態度の相関を調べている。結果,日本人においても,SDOと外国人への差別的態度,政治的態度の相関が示されている。

SDOが高いほど移民の受け入れや国防費の減額、尖閣問題での話し合いでの解決に反対し、憲法9条改正や竹島問題での強硬策に賛成し、外国人に対するネガティブな印象や外国人を忌避する態度、在日朝鮮人に対する差別的態度が強くなる傾向が示された(三船・横田,2018)。

吉住隆弘. (2018). 生活保護受給者への偏見に関連する心理学的要因の検討. パーソナリティ研究, 27-3.

同論文では,生活保護受給者への偏見をめぐる心理学的要因の分析を行っている。その結果,国家主義との弱い正の相関,視点取得との弱い負の相関が示されている。

池上知子, 高史明, 吉川徹, & 杉浦淳吉. (2018). 若者はいかにして社会・政治問題と向き合うようになるのか. 教育心理学年報, 57, 273-281.

(論文というよりも教育心理学会の企画シンポジウムの資料である)
政治参加に関する論のようで「差別」をめぐるお話も強く関係している。非常に重要な知見の集まった資料である。

高史明. (2017). 差別という暴力 (特集 暴力: どこから生まれるのか? いかにして克服できるのか?). 心理学ワールド, (77), 13-16.

「フェアネス」という観点を中心に現代的レイシズムについて書かれた非常に読みやすい論考である。

・差別というのは,このようなフェアネスに関わる問題とみなすことができる。差別とは,もっぱら社会的集団のメンバーシップにもとづいて,そこに属する人々と他の人々の扱いに差をつけることを指す。メンバーシップにより異なる扱いをすることが是正すべき問題となるのは,フェアネスという規範に抵触したとき

・マイノリティの権利が保障されるようになることに対して,それまで特権的な地位にいたマジョリティが自分たちの権利が不当に脅かされていると感じることを基盤とする偏見は,他の様々なマイノリティに対しても見出されている。日本においても,昨今インターネット上で流行する「在日特権」の言説にみられるように,黒人に対する人種偏見と相似した在日韓国・朝鮮人への偏見が存在する

・マジョリティであるというだけでマイノリティよりも豊かな暮らしができて当然だと考える人々の「アンフェア」への怒りは,昨年末の米大統領選の帰結など,現代社会の力学を分析する上で欠かせない枠組みとなっている。これらの(それ自体がフェアとは言えない)「アンフェア」への怒りに対して,社会科学者は共感する必要も「寄り添う」必要もないが,理解する必要はあるだろう

差別論(2)心理学からみた差別①

今回読んだ論文

池上 知子(2014)差別・偏見研究の変遷と新たな展開.教育心理学年報,53,133-146.

(*内容の要約を目的としているため,一部の文章は改変して引用している。又,太字や下線などの処理はすべて本稿の筆者による。)

これまでのブログ

atsublog.hatenadiary.com

差別・偏見・ステレオタイプの定義

・「差別」とは,当該領域においては,集団間関係の文脈の中で使用される概念であり,特定の集団やその構成員に対して公平さを欠く不当な扱いをすること

・その中には直接的に相手に危害を加える行為や自分の所属する集団や他の別の集団を有利にするため相手に不利益が及ぶようにする間接的な行為が含まれる

・差別的行為を行う者は対象となる集団やその構成員に偏見を持っているとされる

 

・「偏見」とは,対象に対する否定的態度を指し,対象集団に関する否定的内容の信念や感情,行為意図を含んでいる。

・多くの研究者は,Allportの定義を踏まえ,誤った知識や過度の一般化によってもたらされる悪感情を偏見としてとらえてきた

 

ステレオタイプはこの偏見の認知基盤をなすものであり,歴史的には,特定の社会集団に対して抱かれる集約的イメージを指す

・当該集団にみられる典型的な特性や社会的役割についての信念の集合とみなし,他者に関する情報処理を一定の方向へ導く認知的スキーマの一種

これまでの差別・偏見研究で指摘されてきたこと

人格理論によるアプローチ

欲求不満と攻撃による理論(Dollard, Doob, Miller, Mower, & Sears, 1939)
人間は目標の達成を阻害され欲求不満に陥ると攻撃衝動が高まり,その衝動を充足させるための対象として攻撃を向けても安全な他集団や少数者集団が標的として選択される

・偏見や差別を,防衛機制の一つである「置き換え」として捉える

・経済不況など社会への不満が社会的弱者への攻撃を引き起こす(Green, Glaser, & Rich, 1998)

・偏見や差別をある種の人格障害と結びつけて理解する→権威主義的パーソナリティ(Adorno Frankel-Brunswik, Levinson, & Sanford, 1950)
力への追従と弱者に対する加虐性を中核的特徴としている。懲罰的で専制的な養育環境の下で形成されやすく,脆弱な自我を脅威から守るための心理機制の所産としてみなされた

・偏見や差別は,すべての人々に程度の差こそあれ潜在している

集団心理からのアプローチ

集団葛藤理論(Sheriff, 1967)
偏見や差別は,集団間に現実的な利害の対立があるところに生ずる
内集団(自分の所属する集団)の達成目標が,外集団(他の集団)によって疎外されるような状況,利益が脅かされるような状況でみられる反応

社会的アイデンティティ理論(Tajfel & Turner, 1986)
人は物質的な利益のために争うだけでなく,名誉や誇りといった精神的利益のために競い合い,それが集団間差別をもたらすことを示した

・人はごく形式的であっても何らかの集団カテゴリーに割り振られると,個人にとってその集団が自己を環境内に位置づける重要な認知基盤となり,その集団への所属性が自己概念を構成する一つの要素となる。これを社会的アイデンティティと呼んでいる。

・偏見や差別の背景には「自己高揚動機」がある
人は,元来,自己を望ましいものとみなしたいと動機づけられているため,他の集団との比較による相対的優位性を保つことによって所属集団の価値を高く評価し,それを自己の価値に反映させようとする

・個人と集団のポジティブな関係は,内集団への忠誠と献身を生み出す原動力となる一方で,他集団への差別的態度を引き起こす原因にもなる

・(所属集団と個人のネガティブな関係である)集団脱同一視傾向を示すと,所属集団より下位の集団の評価を下げる傾向がある

・内集団ひいきは,互恵的規範に基づいた「集団協力ヒューリスティック」(内集団のメンバーに対してはほぼ自動的に協力する)によるものとの主張

・偏見や差別は集団生活を送る人間にとって不可避的に起きる適応的現象

認知的アプローチ

・人間は外界から複雑な情報を絶え間なく大量に受け取っているが,処理容量には限界があるため,それらを単純化し分類することによって対応

・他者を範疇化する行為は,同じ範疇に入る人たちを類同視し相互に互換可能なものとしてみるようになり,異なる範疇に入る人たちとの違いをことさら強調して知覚する(Tajfel, 1969)

同化と対比は,対象に対する過度の単純化と一般化を引き起こし,偏見・差別の認知的基礎となる集団ステレオタイプの形成につながる

現代的差別

・人々は,人種間の生物学的優劣に基づいて偏見や差別を公然と表明する古典的人種差別主義はもはや社会的に容認されないことを理解し,意識レベルでは平等主義であろうとしているが,無意識のレベルでは,差別感情や差別意識を密かに抱いている

嫌悪的人種差別主義(Gaertner & Dovidio, 1986)
表面上は,平等主義的信念を表明しながら,内心では対象に対して否定的感情を抱いている

現代的人種差別主義(McConahay, 1986)
人種間の平等を保障する必要性は十分認識しているが,現に存在する人種間の格差や不平等を偏見,差別の結果とみるのではなく,本人の努力の欠如に原因を求め,加えて,社会的弱者が過剰に自分たちの権利を要求し,不当に優遇されているという主張を行う傾向
→自身の差別や偏見に由来する主張であるという自覚がない

無意識レベルに着目して

二過程理論:人間の行う情報処理には,意識的注意を向けながら遂行される統制的処理と意識的注意を伴わずに遂行される自動的処理の二種類があり,状況に応じていずれかが起動すると考える認知心理学の分野で提起されたモデル

分離モデル(Devine, 1989)
偏見・差別の表出過程を二過程理論の枠組みを用いて記述。ステレオタイプや偏見に基づく態度や行動の表出は2種類の経路をたどると考える。
(1) 対象のカテゴリカルな属性と結びついているステレオタイプが自動的に活性化し,それに基づき対象に対する態度や行動がストレートに表出
(2) ステレオタイプに依存した反応を意識的に統制しながら,社会的に容認される形の態度,行動として表出

・伝統的なジェンダーステレオタイプは,自尊心が脅威に晒されたり,存在論的恐怖が顕現化すると活性化しやすい(石井・沼崎,2011)

社会動機的アプローチ

社会的支配志向性(Sidanius & Pratto, 1999)
人間には集団間の優劣や序列を肯定しようとする根強い心性があり,この心性は進化的起源がある
「階層神話」と称される言説(ex. 貧困は自己責任である)と志向性が結びつくと,さまざまな社会政策に対する賛否が規定され,階級差別的社会構造の温存につながる
差別の真の源泉は人々が抱く「差別ー被差別関係」への願望

システム正当化理論(Jost, Liviatan, Van der Toom, Ledgerwood, Mandisodza, & Nosek, 2010)
人間は基本的に現状を維持するように動機づけられており,現行の社会体制を,それらが現にそこに存在するという理由から公正で正当なものとみなす傾向にある

相補的ステレオタイプ(Kay, Jost, Mandisodza, Sherman, Pertrocelli, & Johnson, 2007)
あらゆる対象には長所と短所があり,ある次元で優れていると,別の次元では劣るものであるという信念
→平等達成の錯覚を引き起こし,不利な立場にある者への救済意図を減じるように機能

偏見の正当化ー抑制モデル(Crandall & Eshleman, 2003)

・偏見の対象とされる集団やその構成員について個人が表明する態度は,その個人の真の態度がそのまま表明されているわけではなく,さまざまな要因によって,抑制もしくは正当化される過程を経て表明される

・特定の対象に対する嫌悪や恐怖,不安などの否定的感情としての偏見は,きわめて頑強であるだけでなく,人々は,そのような偏見を表出したいと強く動機づけられている

・公教育等を通じて平等主義や人道主義の観点からそのような偏見を公共の場で表明することが社会的に容認されないことを学習し,リベラルで博愛的な自己イメージを維持するために,偏見の表出が抑制される

・抑制しようとすればするほど,逆に表出への衝動が強まり,偏見の正当化を可能にする要因を求めるようになる

・正当化の要因となりうるのが,たとえば,システム正当化理論(Jost et al.,2010)における「ものごとは,現にそこにあるということで正当化されうる」とか,公正的世界論(Lerner, 1980)における「人々は皆,それぞれの価値に見合う結果が得られるようになっている」といった自然論的誤謬に基づくイデオロギーであり,社会的序列や階級構造を自然選択と適者生存の必然的帰結とみる社会生物学的進化論である。また,自己責任論(貧困は本人の意志の弱さや努力の欠如による」 )や後天的学習説( 同性愛は家庭環境に原因がある」 )に基づく各種言説も含まれる

・正当化要因を見出すことによって,憚ることなく偏見を表明することができ,抑えていた感情を解き放つ快感を得ている

 

 

参考文献

好井 裕明. (2013). 分野別研究動向 (差別). 社会学評論, 64(4), 711-726.

 

気ままに考えたこと。(雑文)

Twitterの延長でしかないが、たまには最近思っていることを気ままに書いておきたい。本来は、ブログってこうやって使うのかなぁなんて思いながら。

基本的に私のブログは学術ブログなので、勉強したことをまとめるのに使うようにしている。他人に見せることはあまり考えておらず、単純に自分が得た知識をまとめておくことがメインで、たまに考察してみたり、世間に発することのできるような意見をまとめるようにしている。

学ぶことが増えるようになって、最近最も注意していることは「自分は決して"できる"人間ではない」ということと「結論を急がない」ということである。

前者はきっと自分が一流の学者になったとしても忘れないだろう。「学ぶ者は常に謙虚であるべし」というのが私のポリシーである。それは、社会的な望ましさなどではなく、シンプルにそれが学ぶ者として最も必要な態度だと思うからである。学ぶ者は常に様々な知見や意見に対してフラットに接する必要があるだろう。つい「確証バイアス」的に、自らの意見に適するものばかりを集めて、考えた気になることは多いが、むしろ"考える"とは逆の営みであり、自分の今持っていない意見を集めながら、どのような考えが自分に足りないのか、あるいはどのような点がおかしいのか、一つずつ見ていくことなのかなぁと思っている。そして、そんなことはわかっている!と言う人も、自分がそうなっていないか自省する必要があるだろう。僕が知りうる限り、世の中の研究はそんなのばっかりだ。以前、優生思想について調べる時に、お世話になったとある教授から「優生思想という言葉で調べた時点で、あなたが得られる情報は優生思想に対して否定的なものばかりになる可能性が高いですよ」と言われたことがある。無自覚に(知らなかっただけでもあるのだが)、確証バイアス的な情報収集をしていたことを後悔したし、これからはさらに気をつけようと感じた。

偏りを防ぐために、情報に触れる量を増やし続け、さまざまな情報から共通項を見出す、分野を超えて様々なものをつなぎ、そして考えていく。そんな営みが最近の私の中心的な課題かなと思っている。だからこそ、後者の「結論を急がない」につながっていく。結論を急ぐためには、反対意見を吟味したり、反対意見を考慮して、自分の考えを精査することを省くしかないだろう。結論を急ぐことをやめれば、考えるという営みもさらにさらに良いものになっていくのだろうと感じている。

去年までは、批判的思考と言いながらもあまり批判的に思考することができていなかったように感じる。今年の最大の目標は「批判的思考能力を身につける」ことである。そのためには、批判的思考に関する学びも深めていきたいし、批判的に見るべき様々なトピックに対して、考え続けたいと思っている。

こういう態度は、ある意味で研究者に向いてないのだろうなと思う。でも、僕はどうしても研究者になりたいわけではないし、気ままに考えることが許されないならば、研究者になるつもりもない。社会の役に立つかは分からないことでも、思考をめぐらせ、研究し続けることは大切なことではないだろうか。昨今の状況を見ていると、自然科学にとどまらず、心理学や教育学なども、割と社会のニーズに合わせた研究が多いような気がしている。気のせいだといいのだが。確かに社会に求められている研究をすることは大切だが、社会が直接求めていなくても、社会にとって必要な研究はあるのではないかとよく思う。さっきも、目の前でカルト団体の人と仲良く話している学生がいて、やっぱりカルトマインドコントロールに関する研究は大切だと思う一方、オウム真理教に対する心理学的な研究は決して十分には行われていない。本当は必要だったのかもしれない。でも、国は死刑を執行した。間接的に、国民が「死刑を選んだ」のだ。

自分がどんなことをしたいかなんてわからない。所詮、ひとりの大学生。モラトリアム人間だ。だから私は今日も考え続けるし、明日からもずっと考え続ける。心理学のことも、教育のことも、政治のことも、自分のことも。考えるのをやめたら、人間でなくなってしまうような気がする。だから私はこれからもずっと考える葦であり続けたい。

この文もどこに行くのかわからずに漂流している気がするが、しょせん気ままに考えるとはそんなもんかな。気が向いた時にまた気ままに考えてみたい。おわり。

共生社会への希求

今回読んだ本

共生の現代的探求―生あるものは共にある

共生の現代的探求―生あるものは共にある

 

「共生」に関する本を読んでみたいと思って手に取ったのだが,学のない私には難しすぎたため,全編読むのはギブアップ。来年あたりリベンジしてみたい。

ひとまず,序章の部分から参考になった記述を。

社会的共生の希求

・「共生」の概念は,元々,生物が生存競争をしながら依存しあう関係をとらえる方法として生まれているが,ここでの「共生」はそうした自然アナロジーではなく,社会の生産現場や教育現場における“社会的関係としての共生”を指す。

・資本制の発展とともに,人間において物象化が進み,アトム化されて均一化が進んだ。専門分化が進むが,それは均一化の中の一形態ーー差異化ーーにすぎない。しかし,そうした近代社会の人間均一化を通してこそ,「共生という関係性」が生まれている。それは近代のアンチテーゼとしての共生社会への希求・接近という性格を帯びている。今日の社会が剰余価値(利潤)だけを追求することでは破綻することが段々と明らかとなり,人びとが共に生きる,あるいはともに生かし合う・共に生かされるという「共生の価値」を求めざるを得なくなっているのである。

共生論アプローチ

・論点の一つ目は,個と全体の関係としての共生(共同的包容)

・もう一つの共生は,互いに異質な(差異的な)ものーー均一化のなかの差異性をいう(俗に差別化と呼ばれる)--としてあるがゆえにこそ,その差異を保持しつつ共存したり,差異を相互に生かし合って関係が変化していくような共生(差異的包容) 

・共同的包容→“One for All, All for One."が,共同性の一つの理想主義的表現といえる。前の“One for All"=すべてのために役立つ私という存在は,現代の共生関係の起点になり得る。まずは個人が他者に貢献するあり様を問わねばならない。

・そもそもOne for All, All for One.とは,個と全体の結合であるが,個が個人的存在であると同時に,社会的存在でもあるという二重性において成り立つ。そして「共生」はまさしくそれを実践的に可能にしている状態。

・差異的共生→たとえば障害者は人間や生命体が差異的に扱われているとの一つの認識の中に位置している。

・差異的包容は,異質なものの関係として排他的に扱う差別思想へと昂進させる社会的圧力に従わせることーーしれはもはや差異を超えた真正の差別ーーもあれば,またそれとは反対に,それを同一性の中の差異として受容し,むしろ共生の力として生かし合う関係に発展させることも可能

・社会的共生が成立するところには,必ずや人間における価値や倫理など価値的な判断が存在する。それを学問としてもとらえることが必要であり,その意義に目を向ける必要がある。我々は,「共生」が単なる思想・使命・志向性として成立しているという観点から離れ,人間の価値的な関与や関係性をとらえることに重要な意味がある。

・社会的共生の研究には,共同性(共同的包容)と差異性(差異的包容)という物差しをあててみること,さらに人間における共生の価値的なものを照射する方法が有効と考える。

競争・排除から社会共生へ

・今日的な日本やアメリカでは,自由放任と競争を原理とする新自由主義が展開されている。人びとは「競争」それ自体を,自由の響きによって,あるいは生物学的淘汰性の受容の意識から,社会の規範的価値として受け止めようとはする。

・私たちは,競争を前提とする社会を必ずしも是として受け入れているのではないのである。ましてや,弱者が排除されることを決して良しとはしない。他者との競争,他者からの排除ではなく,他者との共生(共に生きる,共にある)を求め,他者によって生かされ・必要とされる関係性の“豊かさ,心地よさ”を実感する人たちが増えている。個としての競争・排除から共同や共生へ,という流れは確かに存在する。社会共生は,社会的個人の自由,平等,所有,ベンサム(功利)を,新しい時代にふさわしい形で実現する可能性をもっていると考えられる。