A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

差別論(1)差別の定義をめぐって

差別の定義(佐藤, 2005)

・「差別」という言葉には両立不可能な2つのイメージが存在している

①差異モデル
「A と B を差別する」といったように、差別を基本的に「異なる扱い」であるとイメージし、2つの異なる集団(社会的カテゴリー)の比較によって差別を明らかにするというモデル

②関係モデル
「A が B を差別する」といったように、差別を基本的に「非対称な関係、もしくは権力関係」であるとイメージするモデル

・両方の考え方を受け入れるなら、「差別」によって「差別」が生じていると言わざるを得なくなる

・そこで、結果の不当性(人権侵害)からの問題構成を「人権論」と呼び、不当な結果を生み出すような原因である行為や仕組みに照準を合わせた問題構成としての「差別論」とは峻別

排除の三者関係モデル(佐藤, 2005)

・排除は共同行為であるが、これを差別者が被差別者を排除するという二者関係ではなく、差別者・共犯者・被差別者の三者関係モデルでとらえる。すなわち、共同行為としての排除は、差別者が共犯者を「同化」し、「われわれ」というカテゴリー化がなされることによって達成される。「われわれ」のカテゴリー化は、非対称な差異を作り出し(他者化)、「われわれでない者」(被差別者)を「見下す」。

★文献リスト

・佐藤 裕(2005)『差別論ー偏見理論批判』(要旨:https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/47196/20726_%E8%A6%81%E6%97%A8.pdf

・亘 明志・佐藤 裕(2007)書評 佐藤裕 著 『差別論--偏見理論批判』. ソシオロジ, 51(3), 178-185.(https://doi.org/10.14959/soshioroji.51.3_178

 

差別の定義をめぐって(野口道彦の考察)

www.pref.osaka.lg.jp

(pdf→http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdf

・差別とは、「(1)個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(3)異なった(不利益な)取扱いをすること」と定義できます。しかし、このような定義で、ある行為が差別かどうかという判定が、すぐにできるということではありません

・差別とみなさない側は、(1)と(3)との関係を、理にかなったものだと考えています。逆に、「差別だ」と訴える側は、(1)と(3)との関係を不合理なものだと考えています

・ある行為が「差別である」として糾弾の対象となるのか、それとも、「単なる区別」だとして問題にならないのかは、社会規範がおおいに関係しています

・社会規範は一枚岩ではなく、集団によっては社会全体の規範と異なる集団規範が維持されていることがあります

差別の種類

・社会規範との関係でみると、差別は3つのタイプにわけられます。第1は合法的「差別」、第2は社会的差別、第3は個人的差別です。

・合法的「差別」というのは、「差別」をすることが社会規範によって広範な人々に支持されているものです。これは、そもそも正しい行為とみなされているのですから、その社会では「差別」とは認識されていません。このタイプのものを合法的「差別」と呼んでおきましょう

・社会的差別は、区分されるシンボルとして、民族的もしくは社会的出身、人種、皮膚の色、性、言語、宗教などさまざまなものが持ち出されることになりますが、見落としてはならないのは、差異自体に意味があるのではなく、その背景には力関係におけるアンバランスがあるということです。力関係の優位な立場から、マジョリティは異なった取扱いをすることを正当化する論理をでっちあげてきました

・差別を支持・正当化するような集団規範さえも存在しなくなると、差別は個人レベルでのみおこなわれるようになります。これを個人的差別ということにします。個人的差別とは、差別を正当化する論理が誰からも支持されず、単に個人レベルの好き嫌いといった程度になったものをいいます

・アルベール・メンミは、「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者(引用者注:人種差別主義者)が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである」と指摘

・社会的差別は一方の極を合法的「差別」とし、他の極を個人的差別とするスケールの中間にあって、差別を正当化する集団規範の有無、強弱によって変わるグラデーションの領域

差別意識・偏見

差別意識は、大きくわけて、個人の態度のレベルと文化に組み込まれた差別意識のレベルでとらえることができます

・「(1)ある集団に属しているということで、個々の違いを見ずに、一面的な見方、カテゴリカルな一般化をし、 (2)嫌悪など感情を含み、(3)それに食い違う情報に接しても、見方を変えようとしない硬直した態度である」というのが、一般的な偏見の定義

・『権威主義的パーソナリティ』は、幼児期の体罰をともなった厳しいしつけに原因があり、厳しい体罰を受ければ本来もつはずの敵意が、絶対的に親に依存している幼児の場合、それを表現することができず、憎しみの感情が抑圧され、親に対しては従順な態度をとり(権威主義服従)、伝統的な価値を脅かす社会的弱者に対しては攻撃する傾向(権威主義的攻撃)が生まれる

差別意識を個人の特性で考えると、差別するのは一部の「異常な人」という見方になりますが、差別意識を文化に組み込まれたものと考えると、差別するのは、その文化を従順に身につけた「優等生」という見方になります。人数も少数ではなく、多数の人々になります

・差別という言葉で行為も意識も結果現象もあらゆるものを含めていますが、少なくとも差別行為と差別意識は区別して考えなければならないでしょう。差別をするのは、差別意識をもっているからだと単純に考えてしまいがちですが、必ずしも差別行為と差別意識は一致しているとは限りません(図)

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部活動と合理性神話 / 職業と教育社会学

今回読んだ本

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

第8章「部活動は学校において合理的な活動か?」より

部活動の合理性

・部活動には文化的経験の機会保障という面での合理性がある

・「激しい指導(行き過ぎた指導)」という事例からは,機会保障面での合理性のみでないことが読みとれる

・教員の負担という観点からみれば不合理な活動

組織社会学の視座

官僚制

〇官僚制の特徴(ウェーバー
・規則により権限や義務が定められている
・官庁間での階層構造
・文書による職務執行
・専門的な訓練の必要性
・職員が専業であること など

〇官僚制の非合理性
・官僚制の逆機能(マートン
「もともと規則を守ることは一つの手段だと考えられていたのに,それが一つの自己目的に変わる」(本来の目的よりも手段の重視)

・学校では,効率的に教育を提供しようとするシステムが,一定の秩序を児童生徒に押しつけてしまう危険もはらんでいる

制度理論と合理性神

・制度理論では,組織における恒常的で反復される生活は,諸個人の自己利害にもとづく計算された行為からではなく,「ものごとのあり方,あるいは,ものごとがなされるべき方法」として,適切である,自明であると認識されることから生じると論じられる」

・合理性神話(マイヤー)
一見,合理的・効率的に見える組織行動は,実際に合理的・効率的であるとは限らないが,当該の組織行動が合理的・効率的だとする社会的な合意は存在する。こうした社会的合意を「神話」と表現した。こうした神話のおかげで,官僚制は正当性を得て多くの組織で採用された。

・学校も合理性神話を利用し,効率よく自らの教育の有効性を主張することができる

・組織の「合理性」≠実質的な効果のあるもの 

部活動の”合理性神話”

・戦後の部活動は,民主主義的に「合理的な」活動として出発。その後,東京五輪期には,選手養成の場としての「合理性」や,平等な文化的意義の保障という「合理性」が高まり(対立し),その後は再び民主主義的な「合理性」が台頭した。高度成長期以降は管理主義的な「合理性」が見いだされるようになった。

・このように,さまざまなかたちで部活動を「合理的」とみなす見方が生まれたことで,部活動は今日まで拡大してきた。

・「文武両道」を謳う進学校が多いのも,それが優れた教育実践であるという「合理性神話」によるもの。

 

第10章「教育から職業への移行と就職活動」より

社会人基礎力

「社会人基礎力」とは、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、経済産業省が2006年に提唱しました。

人生100年時代」や「第四次産業革命」の下で、2006年に発表した「社会人基礎力」はむしろその重要性を増しており、有効ですが、「人生100年時代」ならではの切り口・視点が必要となっていました。

こうした状況を踏まえ、平成29年度に開催した「我が国産業における人材力強化に向けた研究会」において、これまで以上に長くなる個人の企業・組織・社会との関わりの中で、ライフステージの各段階で活躍し続けるために求められる力を「人生100年時代の社会人基礎力」と新たに定義しました。社会人基礎力の3つの能力/12の能力要素を内容としつつ、能力を発揮するにあたって、自己を認識してリフレクション(振り返り)しながら、目的、学び、統合のバランスを図ることが、自らキャリアを切りひらいていく上で必要と位置づけられます。

参考リンク
社会人基礎力(METI/経済産業省)
経済産業省「人生100年時代の社会人基礎力について」

ハイパー・メリトクラシー社会の問題

〇ハイパー・メリトクラシー(本田, 2005)
・意欲やコミュニケーション能力,「人間力」といった個人の人格に類する要素をも能力とみなし,就労にあたり重要視する社会

・学校での育成が難しく,家庭環境も大きく影響するため,格差や不平等の正当化につながるリスク

・キャリア教育の「自分で考えて自分で決めよ」というメッセージは,進路不安を招いており,抽象的なキャリア教育ではなく職業に関する専門的な知識を教えるなど,教育の職業的意義の重要性を本田(2009)は主張している。

コミュニケーション能力を職業の関連として教える問題点

①意欲やコミュニケーション能力を,個人の「能力」に還元することで,社会的な不平等が見えにくくなる

・教育や家庭の環境,性別といった「社会的に平等とは言えない差」によって受ける影響を考慮していない

②仕事に対する意欲が労働環境の悪さを覆い隠す可能性

・「仕事に対する意欲を持つべき」という規範は,かえって劣悪な労働環境に人を適応させてしまう可能性がある

 

ソーシャルスキルを測定する

なぜ,測定するのか?

ソーシャルスキルを測定する目的はいくつか考えられます。一つには「実証的な研究を行うため」というものが挙げられそうですが,「治療やトレーニングのため」という目的もソーシャルスキルの場合には非常に重要な理由の一つです。

スクリーニングとアセスメントの問題

〇スクリーニング
・大勢の人の中から治療やトレーニングの対象となる人を見つけ出すために行う測定
・時間をかけずに済む簡便な尺度
・項目数が少なく,本人がチェックできる,簡単な質疑応答で結果が出せるもの
ex. KiSS-18 (菊池, 1988)

〇アセスメント
・スクリーニングで引っかかった個人のソーシャルスキルの,どの領域に,どの程度の問題があるのかを測定
・個人特有の問題点を特定でき,記述できる尺度や測度
・測定に時間がかかったり,測定する方にも,される方にも,負担がかかったりする手続き

〇課題
・スクリーニング程度の測定しかせずにトレーニングを実施している例
・尺度や測度,測定法がスクリーニングに向いているものなのか,アセスメントに向いているものなのか,意識されていない

何を測定するのか

ソーシャルスキルの定義の仕方によって,測定のされ方も変わることが想定されます。ソーシャルスキル生起過程モデル(相川, 2009)に基づけば,「相手の反応の解読」「対人目標と対人反応の決定」「感情の統制」「対人反応の実行」というように,認知過程から実行過程までそれぞれが測定の対象となります。

・「相手の反応の解読」過程とは,相手がこちらに対して実行した言語的,非言語的な反応を解読する過程

・「対人目標と対人反応の決定」過程とは,眼前の対人状況にいかに反応すべきか目標を決定し,これを達成するための反応を決定する過程

・「感情の統制」過程では,①相手の反応の解読過程で生じる対人情動,②対人目標と対人反応の決定過程に伴う感情,といった情動や感情を適切にコントロールする過程

・「対人反応の実行」過程は,対人反応を,言語的,非言語的に実行する過程。対人反応を①微視的,②巨視的,③力動的の3種類に分類して,整理される。

ソーシャルスキルの主な測定法

他者評定

①面接法:研究者,治療者,トレーナー,カウンセラー,教師などが,測定の対象となる者(対象者)と直接,面談する方法

②行動観察法:対象者にとって自然な状況の中で,対象者の行動を観察する方法

③ロールプレイ法:実際の対人的問題を再現するように工夫された模擬的場面を設定し,その中で対象者に特定の役割(ロール)を与えて,対人反応を実際にやってもらうことで,対象者のソーシャルスキルの程度を測定するもの

④仲間*1による評定
a. 評定尺度法:ソーシャルスキルの行動レベルの特徴が記述されている複数の項目を用いて,仲間が対象者をポイント尺度上で評定するもの
b. ゲス・フー・テスト:一連の行動特徴を記述した項目をあげ,これに該当する人物名を一人または複数,挙げさせる方法
(その他にもソシオメトリック・テストなどが挙げられる)

⑤関係者による評定*2による評定
a. 評定尺度法
b. 行動チェックリスト法:発言,微笑,アイコンタクトなどの肯定的行動,たたく,邪魔をする,ケンカをするなどの否定的な行動を列挙しておき,ある一定期間にそのような行動がみられたか測定
c. ランキング法:関係者が集団内における対象者のランクづけを行う(スクリーニング向け)

自己評定

①自己評定尺度法:対象者当人に自己評定用の尺度を手渡し,回答してもらうもの

②自己監視法:日常のできごとを対象者当人に日誌風に記録させる方法 

参考文献

人づきあいの技術―ソーシャルスキルの心理学 (セレクション社会心理学)

人づきあいの技術―ソーシャルスキルの心理学 (セレクション社会心理学)

 

相川 充(2009). 人づきあいの技術ーソーシャルスキルの心理学,サイエンス社,p.167-205. 

*1:対象者と同じカテゴリーに入り,日常的接触があり,対象者のことを知っている人

*2:対象者と異なるカテゴリーに入り,日常的接触があり,対象者のことを知っている人

少年犯罪とその報道に対する視点

今回読んだ本

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

12章「少年犯罪についての認識とメディア」より

認識と実態のギャップ

・統計的には「改善」の傾向がみられ,身のまわりでも凶悪な犯罪に出会っていないにもかかわらず,少年犯罪は増加し,また質的に悪化したという認識が多くの人々に分け持たれている【p.215】

報道は何を伝えてきたか

マスメディアによる影響

・マスメディアによる「洗脳」という理論は半世紀以上も前に否定

・マスメディアが人々にもたらす効果として「議題設定」があるとする理論,つまりメディアにはその受け手をがらりと塗り替えるほどの強い直接的効果はないが,あることがらについて「何を考えるべきであるか」,またどう考えるべきかという認識のレベルにおいて影響を与えるとする理論

・取捨選択の視点(大庭, 1988)
①一般性(社会一般,多数の人々への影響)
②刺激性(常軌を逸する度合い)
③流行事象との適合性(世相を反映すると判断された度合い)
④連続性(すでに報じられた事件との同時多発性)など
【p.216-217】

報道の時代的変遷

・事件報道は,少なくない場合,ただできごとを淡々と伝えるだけでなく,そのできごとについてとくに何が考えられるべきか,問題の核心はどこかを選択的に指し示すことで,同じようなできごとの再発防止に向けた「解決の物語」を同時に示してもいる。

・戦後から1960年代までの少年による殺人事件は,ほぼ加害少年のおかれた「社会環境」の問題が事件の背景にあると語られていた。【p.218

・1970年ごろから,代わりに姿をあらわすのは,「家庭」や「学校」での問題が少年事件の背景にあるとする報道だった。【p.219】

・神戸・連続児童殺傷事件(1997年)以降,「心の闇」という表現を通して,加害少年の異常な内面が諸事件の原因として語られるようになった。【p.221】

動機探しをめぐって

原因を探る限界性

・鈴木(2013)の指摘する「起動原因」と「構築原因」
起動原因:行為のきっかけや背景となる原因
構築原因:なぜほかでもないその行為がなされたのかを説明する原因

・起動原因はいくつも並べることができるものの,構築原因を考えようとすると背景論が破綻する【p.226

・そもそも事件の残虐性にかかわらず,なぜ人を殺さねばならなかったのかという構築原因の詮索自体に無理があるのではないだろうか。同報道を重ねても,殺人の理由が理解できたというところにたどり着くことは,倫理上できないはずだ。【p.229】

海外の報道のあり方

・日本で事件が掘り下げられる場合は,事件の動機が中心であり,近年では少年の心理にとくに焦点が当てられている

アメリカやイギリスでは,具体的な事件を手がかりにしながら,より広い社会的状況について考察を展開する

・イギリスでは,事件の「発生・逮捕」や「捜査」よりも「裁判・収監」に関する報道が中心的である

・日本の報道では事件の「発生・逮捕」ばかりが伝えられ,いまだ刑罰が確定していない容疑者に対して,過剰な「社会的制裁」がおこなわれているようにみえる(その情報の消費者として私たちもそこに加担している)。また,私たちの社会はあまりにも「半径5メートル」にとどまって動機の詮索をおこなっているが,そのような情報を求める欲望はどの社会においても「当たり前」ではないこと,それらなしでも社会は成立しうることも,海外の報道から気づくことができる。【p.231-232】

おわりに

・私たちの社会の犯罪不安を過度に高めない道筋があるとすれば,事件の発生や逮捕,あるいは微細な動機の詮索を焦点とする報道は「当たり前」ではなく,情報を求める欲望もまた「当たり前」ではないとして,私たち自身がメディアから提供される情報を冷静に見直すことから歩まれるものではないだろうか【p.232-233】

 

優生学はアクセスの問題?

おもしろい記事を読んだ。

近年の遺伝子工学優生学についての論考である。かなり示唆に富むような記事だったので、少しばかり書き残しておきたい。

現代社会に根づいた"優生思想"

中国での遺伝子操作ベビーの話は非常に物議をかもした。当然ここまで来ることは容易に想像がされていたのだが、いざそのようなことが起これば社会的な注目も集める。今後どうなっていくのかを考えていく中で倫理的な面について考えることは重要であるだろう。

・極端なシナリオではあるが、『ガタカ』や『フランケンシュタイン』はわたしたちに、子どもたちがみな自身ではコントロールできない要因に基づく差別に対して脆弱であることを教えている。人工的な生殖技術によって生じる状況もそのひとつ

優生思想としばしば絡めて論じられるのが「差別」の問題である。かの有名なナチスの政策もユダヤ人の迫害や障害者などをはじめとした虐殺、いずれも「差別」的な思想に基づいたものと言える。だからこそ、学者が「黒人と白人の知能には遺伝的な差異がある」なんて言った日には大バッシングを浴びるわけである。これは本人にはコントロールできない状況による「差別」を生む可能性が高いからである。先の学者の論は実際に正しいのかもしれないが、優生思想や差別に関する倫理的な議論が整っていない状況では、お話として「そうではない」ということが求められているようにも思う。

・受精卵の遺伝子編集が進展すれば、論理的に考えて、やがて社会は優生学によって劇的な変化を遂げるだろう。

・そして「完璧さ」についての単一の見方に適合するようつくられた人々が、何世代にもわたって誕生することになるだろう。これは明らかに恐ろしい展望である

これについて、個人的にはよくわからない部分がある。まず「優れた遺伝子」とは何なのかという問題から始まる。完璧な人間は遺伝子操作によって作ることができるのだろうか。むしろそのようにして全ての子どもを遺伝子操作によって完璧に作ったとしても本当にすべての子どもが完璧な人間になるのだろうか。むしろ、遺伝的要因が統制されるので、環境的要因の差しか存在しなくなり、「東大に行けないのは子育てのせい」言説が今以上に広がっていくような気がするのは私だけだろうか。高度な技術で遺伝子操作が行える社会は、むしろ子育てのプレッシャーが大きくなる「生きづらい」社会になるのではないかと私は危惧している。そして、誰もが素晴らしい子育てができるわけではなく、すべての人間が素晴らしい人間になるとは到底思えない。行動遺伝学は遺伝決定論ではない。環境要因がある以上、完璧になるような遺伝子操作を行っても、すべての人間が完璧な人間になるかと言われたら私は(現在の知見では)否定するしかないだろう。

・わたしたちが映画などで目にする科学的優生学は、たいていはとるに足らない何か、つまり西欧的な美の基準や、健康の普遍的指標を維持するためのもの

・もしテクノロジーが、台頭する白人至上主義に対して劣勢を強いられている人々にとって「よりよい結果」を生み出すために本格的に使われるとしたらどうだろう

・現実的には、こうした技術の導入には高い壁がある

HIV感染率が最も高い地域は、人々が医療へのアクセスに最も困難を抱えている地域でもあるから

・世界のほかの地域に目を向けると、すでに「遺伝的な改良」は、ありふれた選択肢のひとつ

・処置へのアクセスには社会的な偏りがあり、すでに遺伝子に基づく階層制度を生み出している

・着床前遺伝子診断に加え、体外受精へのアクセスの不平等が、20世紀初頭にあった優生思想(「子孫を残すべき優れた人々と、そうでない人々がいる」という思想)を復活させた

体外受精をとりまく現在の法規制と政策は、新たな優生学に等しい

・一部の人だけが利用でき、残りの大勢には手が届かない高価な処置になっているから。社会経済的状況や、人種、民族、婚姻関係の有無、性的志向、障がいといった集団特性によって、生殖技術へのアクセスが制限され得るから

・真の倫理的課題は、医療へのアクセスをいかに万人に行き渡らせるか

遺伝子操作にとどまらず、着床前診断体外受精といった技術にはアクセスにおける不平等が明らかに生じていることが指摘されている。これをこの筆者は「優生思想」であると指摘しているが、そもそも優生思想とは何かという問題に直面する。

では、少しばかり脱線して「優生学」や「優生思想」の定義について何人かの学者のものを紹介したい。

優生学とは、応用科学に分類される学問の一種であり、「人類の遺伝的素質を向上させ、劣悪な遺伝的素質を排除することを目的とした学問」と定義されている[1]。

一般に優生学創始者とされるイギリスのフランシス・ゴルトンは、1904年に開催された第1回イギリス社会学会において「優生学とは、ある人種(race)の生得的質の改良に影響するすべてのもの、およびこれによってその質を最高位にまで発展させることを扱う学問である」と定義している[2]。社会学者の立岩(2001)は、優生学を「人間の性質を規定するものとして遺伝的要因があることに着目し,その因果関係を利用したりそこに介入することによって,人間の性質・性能の劣化を防ごうとする,あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場,社会的・政治的実践。」であると述べている[3]。

哲学者の森岡(2001)は、優生思想を「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方」と述べている[4]。障害学者の野崎(2011)は、優生思想とは「望ましい生とそうでない生とを峻別し、望ましい生を奨励し増やそうとする一方、望ましくない生を忌避し減らそうとする思想であり、またその思想に基づいた知の体系、運動である」と定義している[5]。日本障害者協議会の代表などを務めている精神保健福祉士の藤井(2018)は、優生思想を「身体的・精神的に優秀な能力を有する者の遺伝子を保護し、能力の劣った者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に残そうという考え方」と述べている[6]。

論者によって様々な定義がなされるので、一筋縄ではいかないが、こうしたものがいわゆる「優生学」「優生思想」なのである。今回の記事での指摘は、藤井(2018)の定義に基づくと分かりやすいように思う。つまり、一部の人(富裕層)にのみアクセスが許されることによって、富裕層という"優れた"生をよい形で残すことが奨励され、同時にそれ以外の人々(特に貧困層)といった"劣った"生に対しては十分なアクセスをさせないことで"劣った"生はよい形にならなくてもよいという状況になっていると言えるのだろう。

では、記事の締めくくりのように「アクセスを平等にすれば」優生思想の問題を解決できるのだろうか。と言われれば、そんなに簡単な問題でないことはすぐにわかる。そもそも、アクセスを平等にしたところで、優れた生・劣った生というように考えてしまう問題点は解決していないし、むしろすべての人がアクセスを持つことによって、生の優劣はいつしか当然のこととして受け入れられ、出来るだけ優れた子どもを生むことが人間の義務となる時代が来るのかもしれない。

もちろん、優生思想を絶対的に否定すべきものなのかどうかから議論すべきなのは間違いない。しかし、同記事での指摘のように、アクセスが一つの"優生思想の顕在化"であったとしても、それだけを解決したところで、この問題が解決しないのは当然である。

[1]デジタル大辞泉小学館)より
[2]米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝「優生学と人間社会」講談社現代新書,2000.
[3]社会福祉士養成講座『社会学ミネルヴァ書房 より(立岩真也「優生学について・3――不妊手術の歴史」
[4]森岡正博「生命学に何ができるかー脳死フェミニズム・優生思想」勁草書房,2001.
[5]野崎泰伸「生を肯定する倫理へー障害学の視点から」現代書館,2011.
[6]藤井克徳.(2018) 「わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想」合同出版,2018.

いじめ問題をめぐる社会学の視点

今回読んだ本

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

半径5メートルからの教育社会学 (大学生の学びをつくる)

 

第11章「いじめ」問題がつくる視角と死角より

いじめ件数をめぐって

・社会の目を引く「いじめ自殺」事件が起きて,それを新聞などのマスメディアが多くとりあげた年度ーつまり,いじめに対する社会の関心が高い年度ーほど,いじめの認知(発生)件数が多くなる

・そうした認知(発生)件数と新聞記事数の共振性は,近年になるほど高まっている【p.196-197】

いじめ定義の困難性

・北澤(2015)の「いじめの見えにくさ」に関する見解
そもそも「見えにくい」とはどういうことなのだろうか。(中略)「けんか」と「いじめ」,「ごっこ遊び」と「いじめ」との境界問題にみられるように,判断の難しさを見えにくいと表現することが多いのではないか。【p.201】

 

・「いじめが教室で起こった」と認識することも,ましてや,その認識を教室の人々全員が共有することも難しい。

・「いじめ」は教師や傍観者が見て見ぬふりをして見逃されるというよりも,むしろ教室にいる人々がその状況をどのように定義するかのズレによって見逃されているかもしれない

・「いじめ自殺」事件において,それを「いじめ」と定義できているのは,「被害者が苦しんでいた」という定義に即してというよりもむしろ,自殺というショッキングなできごとを通じて,被害者の内面が劇的なかたちで示されたために,外部の人々(マスメディアなど)がその事件を「いじめ」と事後的に呼んでいる部分が大きい。

・いくら文部科学省がいじめを被害者の観点から定義したところで,当の被害者がそれを自覚したり訴えたりすること,そしてまわりの者が被害者の内面を知ることは,容易ではないのである【p.202-204】

 

・北澤(2015)によれば,教師は,いじめの「発見者」から「定義者」となることが求められる。すなわち「いじめ」を適切に発見できるかどうかではなく,どのような「事実」を立ち上げて「物語」を制作し,どのようにしてその物語を当事者たちに受け入れてもらえるようにするかということである【p.212】

死角をめぐって

・「スクールカースト」(鈴木, 2012):生徒間のインフォーマルな序列関係。「理不尽」ではあるが,「いじめ」ではない関係。

・優しい関係(土井, 2008)
人間関係上の対立や葛藤を避けることを最優先する人間関係

・「いじりーいじられる関係」や「スクールカースト」は,こうした「優しい関係」に基づいた,言い換えれば,人々が空気を読み合うことによって形成・維持されるもの【p.205-208】

社会的差別との連関

スカンジナビア圏やイギリス,アメリカなどでは,いじめをたんなる人間関係のトラブルとしてしまうのではなく,社会的な差別の問題にかかわって理解しようとする向きが強い(森田, 2010)

・日本の場合,いじめを学校教育の問題としてとらえる傾向にある。だから,いじめの原因を,教室の構造や人間関係に求めたり,現代の若者のコミュニケーション特性に求めたりするのである。

・〈インキャラ〉という言葉が,教室内部の力学だけでなく,教室の外部にある力学,すなわち性差別や同性愛嫌悪という社会的差別の問題とつながっている。【p.208-211】