A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

(考察)優生思想と福祉の不可分性

Introduction

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興味深い記述があった。

古市[古市憲寿]は財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど」といい、落合[落合陽一]も「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と応じた上で、「国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。今の政権は強そうだし」とまで付け加える。

この対談の原文は落合陽一氏自身がTwitterでアップしている。

そしてこの記事での古市氏の発言について、Twitterでこのような意見が出ている。

まずは、津田大介氏。

次に、荻上チキ氏。

さて、「優生思想」と聞くと少々身構えてしまう。優生思想といえば、ナチスドイツのユダヤ人迫害政策だろうか。それとも近年少しずつ明らかにされてきた戦後の断種手術の問題だろうか。どのみちマイナスイメージを強く有している人が多いのではないだろうか。

だが、優生思想は間違いなく現在この国にとどまらず世界中に根付いているし、目の前にも広がっている。そして私たち自身の誰もが多かれ少なかれ優生思想を有している。

そしてもう一つ付け加えておくと、優生思想だからといってすぐに批判をすることはナンセンスである。ある意味、優生思想のある社会と立ち向かうためには、個人の問題に矮小化するだけでは不十分であるということを最初に述べておきたい。このあたりについては今後のブログでも繰り返し書いていく予定である。

さて、本稿で述べたいのは、荻上チキ氏の仰る通り、ここで提示された意見がまぎれもなく「優生思想」であることである。だが、同時にこの問題の内包する難しさを少しだけでも少し考察できればと思う。

「優生政策=福祉政策」となってしまう現実

スウェーデンの優生政策について、市野川の分析を以下に紹介したい。

 ノーベル賞受賞者として知られるグンナルとアルヴァのミュルダール夫妻は、スウェーデンの普通出生率が世界最低にまで落ち込んだ一九三四年に『人口問題の危機』を出版した。
 夫妻は、翌三五年に発足した政府の「人口問題委員会」にも加わり、出生率を上昇させるため、低所得層の有子家庭に対する経済的援助の充実を力説した。ミュルダール夫妻が提言した家族政策は今日でも肯定的に言及されることが多い。しかし、夫妻は、経済的援助と同時に、誰が子どもをもつに値する人間なのかという選別の必要性を強く訴えていた。夫妻は『人口問題の危機』の中で、「変質(退化)が高度に進んだ人間たちを淘汰する」ためには、必要ならば強制手段に訴えてでも、不妊手術を実施すべきだと説いている。

市野川容孝「福祉国家の優生学――スウェーデンの強制不妊手術と日本」

グンナー・ミュルダール(夫)はノーベル経済学賞を受賞し、アルバ・ミュルダール(妻)はノーベル平和賞を受賞している。だが、引用部で言及がある通り、優生学を全面に押し出そうとしていたことは明らかである。そして、優生学が必要であることを訴えた結果、「ノーベル賞」という形で一定の評価をされているということにも目を向けなければならないだろう。

市野川はこのように主張している。

福祉国家は、少なくとも二つの理由から優生政策を正当化する。かつてM・フーコーは、福祉国家に内在する矛盾を「無限の要求に直面する有限なシステム」として表現したが、そうした矛盾ゆえに、福祉国家は、有限な財源の効果的配分を目指して、誰が子どもを産むに値するか、誰が生れるに値するか、さらには誰が生きるに値するかという人間の選別に着手するのである。と同時に、福祉国家は、児童手当の支給、あるいは障害者施設の拡充といった形で、従来は家族という私的領域に委ねられていた人間の再生産過程を支援する分、逆にその過程に深く介入する権利を手にするのである。

市野川容孝「福祉国家の優生学――スウェーデンの強制不妊手術と日本」

これは非常に重要な指摘である。同様の意見はデンマーク社会民主党員だったK.ステインケも行っている。ステインケは「社会福祉を必要とするような人びとが減少すれば、その分、彼らにより多くのサービスを、より人道的なかたちで提供できるようになる」ことを主張した。こうした「財源の有限性」の問題は、先ほどの記事とも完全に重なるだろう。もう一度振り返ってみよう。

財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」 (冒頭の記事より)

こうして見ると「お金がかかっているから延命治療をやめる」というのは財源の有限性を盾に「死んでもいい生」を定めているという点において、明らかな優生思想であることがよくわかる。(尚、そのあとに落合氏が指摘しているのは、生の問題というよりも「受益者負担」の論点のため、私の見解としては、あまり優生的な印象は受けなかった。もちろん、お金を多く払えというのが優生思想に無関連とは言わないがレベルは低いのではないかと考えている。*1) だが、こうした「お金」の問題は古市氏を断罪して済むような問題ではないことを以下に少しばかり主張しておきたい。

本音を言えば...

 今年7月に相模原市津久井やまゆり園で事件が起きたとき、私が真っ先に感じたのは「容疑者の言い分は、理解できる部分が皆無でもない」でした。それは、「姉[知的障害を持っている姉]にかかっている社会的コスト」が主な理由です。姉の障害者年金はだいたい、都内の新築1Kの家賃くらい。それとは別に施設には行政から毎月、入所者ひとりあたり大卒初任給くらいの額の助成金が下りています。実際に姉は毎月、私の月収と変わらないほどの「税金」の恩恵を受けています。

 実は事件が起きるまで、姉の年金の具体的な金額を知りませんでした。改めて聞いてみて、家族の立場からでも決して少額ではないと感じましたし、特に助成金には、容疑者の「そこまで税金をつぎ込む価値があるのか」という主張にどう反論すればいいのかとも思いました。

 それでも年金が、家族亡き後の姉の、文字通りの生命線であることは間違いなく、支援費制度の下では福祉サービスを“買わ”ないと、障害者は生きていけません。

やまゆり園事件で改めて感じた、障害者家族の“社会に対する遠慮”/「家族に障害者がいる日常」後篇 - wezzy|ウェジー

知的障害の姉を持つ方が寄せた文章である。これがある意味で現実的な考え方なのではないだろうかと唸らされてしまう。障害を持った方への支援を例にもう少し掘り下げてみたい。

当事者やその周囲からすれば、それ(お金や支援)がなくては生きていけない。だが、同時に周囲から「使いすぎだ」と言われてしまえば反論することは難しい。実際にコストはかかっている。だからこそ遠慮が生まれてしまうのではないだろうか。

そして、決して裕福な人が多いとは言えない現在の日本で「(自分とは関係のない)障害を持った方への支援を手厚くする代わりにあなたへのお金を減らします」といったらアンフェアだといって怒りはしないだろうか?逆に「(自分とは関係のない)障害を持った方への支援を減らして、あなたへの支援を増やします」と言われて、反対できる人はいるのだろうか。

ナチスドイツの初期の政策も、ユダヤ人から集めたお金でドイツ人を豊かにするといった、いわば「富の再分配」であったことも忘れてはならない。そしてヒトラーは熱狂的に支持され、ユダヤ人の殺戮は多くのドイツ人から見過ごされていった。「お金で釣られた」という表現は使いたくないが、まさにそんなとこだろう。そのくらい、当時のドイツでは目先の”裕福”を実現したヒトラーは評価されたのである。

そういえば、アメリカのサンディスプリングス市が誕生した背景には、富裕層の税に対する不満があったという(→“独立”する富裕層 ~アメリカ 深まる社会の分断~ - NHK クローズアップ現代+)。税金を払っても自らにかえってこないことを憂いた結果として富裕層のコミュニティとして誕生した市だが、その周囲の市では貧困が拡大していき、環境がどんどん荒れていったという。これは「アンフェア」という感覚にも関連があるが、まさに自らに分配してもらうために貧困を見捨てたわけである。

税収の配分という問題は、現在でも強くあることだし、これまでの議論を基に考えれば、私たちの「優生思想」と不可分な存在と言えないだろうか。

人間だれしも自らの幸福を祈る。そして自らの幸福のためにはお金が必要であることは疑いがない。そのためには自分以外の犠牲はいとわない。これが「内なる優生思想」として潜在的に社会に根づいている。そして、それは社会の余裕がなくなってくると、無自覚的かは知らないが顕在化していく。

「内なる優生思想」については、ここでは深く触れないが、私はヒトという個体が生得的に有している本性であると考えている。また、優生思想は、連続量的なもの(レベルがあるもの)であり、その強さは環境的な要因で左右されていると考えている。このあたりは今後の記事に譲るとしても、こういった内面的でどんな人間も有している「優生思想」に目を向けていく重要性を最後に改めて書いておきたい。「あるのだから仕方ない」という姿勢では最後に自分にかえってくる。どんな人間にもこのような思想があることを自覚し「自分はどうなのか」と内省し続ける必要がある。そしてそれが、政策を決定する人や言論人であればなおさらである。今回の古市氏の発言は、社会に潜在化しているものに乗っかっただけと言われればそうだが、言論人がこのような発言を不用意に行ってしまったという事実に対しては非常に残念である。

 

おわりに

繰り返しになるが、古市氏の発言は、スウェーデンデンマークの優生政策でも広まった「福祉の考え方に基づく」優生思想であることは疑いがないだろう。だが、それを強く批判することができない社会であるということもしっかりと目を向けなければならない。もちろん、言論人として「内なる優生思想」を内省せずに、不用意な発言を行ったことに対して決して褒められるべきものではないが、そうやって批判できるわたしたちにもこのような思想があることを胸に、謙虚な姿勢で社会に遍在する「優生思想」と戦っていく必要があるだろう。

改めて、優生思想とは何なのか。それぞれが問い直す必要がある。

 

*追記 (2019.1.2)

冒頭で紹介した古市・落合両氏の対談が文春オンラインに掲載されたようである。

落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #2 「テクノロジーは医療問題を解決できるか」 | 文春オンライン

更にリテラも記事として取り上げている。

古市憲寿と落合陽一「高齢者の終末医療をうち切れ」論で曝け出した差別性と無知! 背後に財務省の入れ知恵が|LITERA/リテラ

 

[参考文献]

米本昌平, 松原洋子, 橳島次郎, & 市野川容孝. (2000). 優生学と人間社会. 講談社 (講談社現代新書). ISBN, 125994823(4061495119).

*1:2019年1月3日追記。本記事を書いた時点では全文を細かくは検証していなかったためにこのような意見としていた。しかし内容としては落合氏にも優生思想をうかがわせる発言が少なくないこと、また古市氏はこうした思考を「実際は無理」という形で理由は不明瞭だが否定していたということは書いておきたい。また、記事そのものはテクノロジーに関する今後の可能性が主題であり、そうした主題そのものを問題視しているわけではない。本稿で紹介した優生思想の発現は、あくまでそうした議論の途中に出てきたものである。だが、記事中で否定的に扱われているとは言い難い上に理解としても不十分に感じるため、批判的な立場には立ちたいと思う。