A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

社会的クリティカルシンキング

Walters(1994)の見解

クリティカルシンキングの論理性を強調しすぎると,不必要に攻撃的になり,対立を生み出しやすくなる,

②思考するのはそれぞれが異なる考えや経験を持つ人間なので,あらゆる思考に対して完全な客観性を要求することは非現実的である,

③文脈から切り離された思考は,自己反省的な思考活動を低下させ,主張や議論全体の意味や目的を見失わせる可能性がある,

④ゆえにクリティカルシンキングを,論理主義的で文脈から切り離された抽象的で客観的な思考ではなく,文脈や文化に依存した,現実世界において,より意味のある思考として捉える必要がある

廣岡・小川・元吉(2000)の見解

廣岡ら(2000)は、クリティカルシンキングの因子として次の3つを示している。

①「客観的で冷静な判断
・論理主義的な要素を反映した項目。
・論理的に議論を組み立てることができる,冷静な態度で判断をくだすことができるなど。

②「探究的・追究的思考
・①と同様に,論理主義的な要素と深く関係。

③「誠実さと他者を尊重する態度
・相手に対する寛容さや共感的な要素と深く関連
・他の人の考えを尊重することができる,自分とは別の意見を理解しようとするなど

社会的クリティカルシンキング

社会的クリティカルシンキングとは,自分とは異なる他者の存在を意識し,人間の多様性を認めながら,偏ることなく他者を理解しようとし,文脈や状況によっては譲歩することができる。そして,異なる他者や多様な価値観に対する寛容さを持つことを重視した概念である。このように,他者や社会的な文脈を意識することを優先した社会的クリティカルシンキングは,いわゆる論理的なクリティカルシンキングよりもイメージがよく,個人的な親しみやすさを高く感じると予測できる。

抱井(2004)の分析によれば、

相互依存的自己観が優勢な東アジアの文化の一つである日本では,思考を行う主体とその社会的文脈の関連性を重視した,関係的・文脈的思考が重視されるため,西洋文化で高く評価される論理的・抽象的思考が好まれるとは限らず,むしろ,他者に対する配慮に欠けた不適切な思考と解釈されかねない

社会的クリティカルシンキングの育み方

まずは,クリティカルシンキングに対するネガティブなイメージを払拭することからはじめる必要があるだろう。そのためには,社会的クリティカルシンキング魅力を学生に伝えることが有効である。そして,社会的クリティカルシンキングの高い人物に成長したいと学生自らが強く感じ,他者を意識したクリティカルシンキングとその表現の仕方の重要性を理解したうえで,実践的な教育活動を行っていくことが必要ではないだろうか。

引用文献

元吉忠寛. (2013). 社会的クリティカルシンキングのすすめ (特集 批判的思考と心理学). 心理学ワールド, (61), 17-20.

 

僕の感想

「Critical Thinking」は一般に「批判的思考」と訳されるが、確かに日本人の感覚と「批判」というのは少々相性が悪いような印象はこれまで否めなかった。そもそも本来の「批判」という言葉の意味としては、相手を否定するようなニュアンスというよりも良いものは良い、悪いものは悪いと指摘するというようなニュアンスだったはずなのだが、現代社会においては「批判」とは相手の悪い所を否定的に咎めるという意味で使われていることが多いような気がする。(詳しくは→30.決してネガティブな意味だけではない「批判」 - 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) - カクヨム

大塚英志氏が、社会の「感情化」という話をしていたが、現代社会においては確かに論理的な思考よりも他者との協調やそれこそ「共感」で生きていく方が楽であり、批判的思考などの「めんどくさい」ことは好まれないのではないかと思う。(参考→大塚英志「ネットのわかりやすさは共感できない現実を排除していく」|大塚英志と『感情化する社会』の不愉快な現実|大塚英志|cakes(ケイクス)感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本 大塚英志:朝日新聞デジタル

以前、書いたブログで、社会の流動化に伴う存在論的不安から、閉じた空間での共感を重視するという土井隆義先生の論考を紹介したことがあるが、実はこうした社会的な要因は、従来的な「批判的思考」と親和性が低いのではないだろうかと考えている。

そんな中で、今回紹介した「社会的クリティカルシンキング」という概念は、ある意味現代日本に最も合った形でのクリティカルシンキングになりうるのではないかと感じた。私もたびたび感じていたことだが、社会全体において求められている「批判的思考」は、論理的な思考というよりも、自己省察や他者の理解・尊重であるだろう。むしろ他者を批判するスキルには必要以上に長けているのだが、本稿の最初で紹介したように「不必要に攻撃的な」言動が(特にTwitterなどでは)目立っている。こうした「攻撃的な議論」は現実世界でも適用されているという。わたしの所属する大学の某ディスカッション系の講義では声の大きい人が他人の意見を聞かないということが起こっているという。これはディスカッション能力の問題ということもできるが、同時にクリティカルシンキング能力の欠如ということもできるだろう。

初等・中等教育はもちろんのこと高等教育も含めて「アクティブラーニング」という名の下で「対話的な学び」がこれから増えていくことが予想される。この中で、現代日本において親和性の高くなることが予想される「社会的クリティカルシンキング」のスキルを伝達し、納得・共感させていくことが今後の学校教育で行われていくことが重要ではないだろうか。

最後になるが、先日のブログで「優生思想」であると批判的に紹介した古市・落合両氏と、荻上チキ氏が(新年から)Twitterで論戦をされていた。久しぶりにTwitter上でこんなに有益な議論を見ることができた。彼らには(少なくとも落合氏と荻上氏には)批判的思考スキルが十分にあるように見えた。だからあのような実のある議論ができるのだろう。そんなことをしみじみと感じさせられた。