安楽死をめぐるお話(1)
Introduction
メモ
— Atsu (@amtmt322) January 2, 2019
安楽死をしたい理由が「迷惑」だから、は"自己決定"とはいえず、欧米では通用しない
社会保障の文脈と混ぜて安楽死が議論されてしまうことも踏まえれば、日本で今導入するのは危ない
そもそも安楽死と尊厳死も混ざって議論されてる
議論の土俵を整える必要性があるhttps://t.co/yvRirdSetd
今回のブログを書こうと思ったきっかけはこちらのツイートでもリンクを載せたラジオ番組のおかげである。この「荻上チキ Session-22」は非常におもしろい番組なので今後も聞いていきたいと思う。
本稿では「安楽死(+尊厳死)」をめぐる話として最近読んだものをまとめてみる。
安楽死を認める要件
これまでに日本国内で「安楽死」をめぐる議論は多かったとは言えないだろう。日本において裁判で「安楽死」の正当性が問われた事件としては、「東海大学安楽死事件」が挙げられる。この事件では、積極的安楽死として許容される要件として
・患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
・患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
・患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
・生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること出典:東海大学安楽死事件 - Wikipedia(最終確認:2019年1月6日)
が挙げられている。
同様の指摘は国内にとどまらず、世界的にみられるものである。
同書[『安楽死を遂げるまで』]によると、安楽死を認めている国の法律には、概ね4つ条件が課せられているという。
①耐えられない痛みがある。
②回復の見込みがない。
③明確な意思表示ができる。
④治療の代替手段がない。
日本で安楽死を導入することの問題点
ジャーナリストの宮下洋一氏は次のように述べている。
欧米の考え方では、あくまで自分で死に方を決めるという考えなんです。自分が死にたいと思ったから安楽死を選ぶ。自分の意思を重視するんですね。
あくまで自分の物語がしっかりあって、それにあわせて死に方を決めるという考えです。
家族に迷惑をかけたくないから「安楽死」を選びたいという考え方で代表されるように、日本では「迷惑をかけてはいけない」という価値観が強いと思うんです。
日本で安楽死を導入すると、自分の意思よりも、家族の空気を重視して安楽死を選ぶという危惧はどうしても残る。だから、私は日本では安楽死を法制化すべきではないと考えています。
個人の意思によって死ぬという欧米の考えと、自分より周囲を考える日本社会の価値観とは違うんです。
欧米でも安楽死の濫用という論点は残っていて、反対派はそこを強調します。安楽死は死の自己決定を大事にしたきれいな死に方である、とは言い切れないんです。
ここで出てきた「迷惑」というのが非常に厄介である。先に挙げた4つの要件にも「迷惑」にあたるような規定はない。当然といえば当然だろう。「死の自己決定」を最優先する中で、「迷惑」が許されてはならないからである。
西智弘医師は専門である「緩和ケア」の話も交えながら、
まず、病院や医師ごとの緩和ケアの格差があるために、十分に苦痛が緩和されない人たちがいるから安楽死が必要という論調は危険です。その状況で安楽死が認められると、緩和ケアの発展は止まり、本来は生きたかった患者さんが、不十分な緩和ケアしか受けられない中で耐えきれずに安楽死を選ぶ、という悲劇が発生しかねません。
そして、家族と患者さん本人の目指すゴールが違う場合に、必ずしも患者さん本人の意思が優先されない場合があるということも、安楽死が行われるうえでは危険です。患者さんが、家族の気持ちを慮って、「生きていても家族が迷惑する」と、望まない安楽死を求める場合もあるかもしれません。
と述べている。だが、その上で
安楽死が法的に認められている国の多くは「自分の人生は自分のもの」という価値観をもっています。そして日本においても、自己決定と自律に大きな価値を置く人たちが、若い世代を中心に増えてきていることを感じています。
そういった世代が「死」に向き合うようになった時、Aさんのような希望をもつ方は今よりも増えていくかもしれません。
というように、日本における「価値観」の変化が起こっているのではないかということを指摘している。こうした価値観の変化に関するエビデンスは見つからなかったが、少なくとも今後さらにこうした議論が盛んになることは社会の変化から見ても予想されるだろう。だが、先日の某対談も含め、社会保障費などと絡められて議論されることが多いことには注意が必要である。あくまで「死の自己決定」という文脈の下で語られるように注視する必要があるだろう。
日本を代表する若き論客たちが活発に議論を行うことそのものは素晴らしいことだと思います。
ただ記事を読んでいてどうしても気になったのは、「安楽死」という問題を、「コスト」と関連付けて語る意識が見え隠れすることです。
この方向で議論を進めていく先にあるのは「生死の選別」です。最終的には「生産性のない人間は、社会から排除されたほうが良い」という意見がでてくることさえも考えられます。
筆者[市川衛氏]は、安楽死に関しては、医療費などのコストとは完全に切り離して「病などを抱えた人が、自身の人生をより満足して完結させるための選択肢のひとつ」として議論すべきだと考えています。(この点については、様々な意見があるでしょう)
なお、いま増え続ける医療費の最大の要因は、「高齢化」ではなく、新薬など高度化した医療をまかなうコストだということが判明しています。
残念ながら、「ある世代」や「ある状況の人」を狙い撃ちにすれば問題はすっかり解決、という簡単な問題ではありません。
出典:「死ぬ前1か月の医療費さえ削ればよい」落合陽一氏×古市憲寿氏対談で見えた終末期医療の議論の難しさ(市川衛) - 個人 - Yahoo!ニュース
「迷惑」と絡んだ話で「遠慮」をテーマにしたこんなエッセイを思い出す。
自分たちが生きる社会の中で、「生きること」そのものに遠慮を強いられている人がいることを想像してみてほしい。「遠慮圧力」が、ときには人を殺しかねないことを想像してみてほしい。
たしかに、ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけれど、だれかに「命に関わる遠慮を強いる」のは暴力だ。多くの人は「遠慮で人が死ぬ」とは思っていない。でも、マイノリティにとって「遠慮が死因になる」ことは、現実に起こり得る恐怖だ(こうしたことは生活保護の現場でも起きている)。
朝日新聞が2010年に実施した調査では、安楽死の法制化を望む声も、最期は安楽死を望むという声も7割近くを占める。(参考→【橘玲氏 特別寄稿】日本人の7割以上が安楽死に賛成しているのに、法律で認められない理由とは?)
だが、先にも紹介したジャーナリストの宮下氏はこのように述べている。
そもそも多くの日本人は安楽死と尊厳死の違いすら理解していない。実は、取材の成果を雑誌に発表するようになって、私のもとに安楽死を望みたいという日本人から、複数の連絡が寄せられました。だけど、実際に返信したり会ったりしてみると、まだ20、30代と若い彼らは、安らかに死ねるという漠然としたイメージを抱いているだけで、中身についてはよく知らなかった。
最後に最近話題となっていたが、こんなものを紹介しておく。
自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきり[#「はつきり」に傍点]と生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。
出典:宿命(萩原朔太郎)
おしまい。
参考文献・引用文献
・【橘玲氏 特別寄稿】日本人の7割以上が安楽死に賛成しているのに、法律で認められない理由とは?