A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

(考察)フェイクニュース問題をめぐって #2

#2 真実よりも優先されるもの

1.「閉じた関係の中で共鳴」

2017年7月8日(土)の北海道新聞に「フェイクニュースの広がりー閉じた関係の中で共鳴ー」と題された、土井隆義の論考が掲載されていたので一部紹介したい。

1-1 フェイクニュースの特徴

土井は同記事で

・ネットでは自分が見たいと願う偏った情報に囲まれやすい。
・ネット情報は信頼性の判断が難しく、疑いを抱きにくい。

ことを指摘したうえで、さらに

フェイクニュースの支持者は、「それは事実とは違う」と他者が指摘しても、「あなた方にとっての真実と私たちにとっての真実はそれぞれ違う」と反論し、聞く耳を持たないことも多い。客観的な事実は軽視され、たとえ虚偽であっても自らの感情になじむ情報が優先される。

と述べている。これは前稿で示した、現代の「ポストトゥルース社会」において、「真実の追求よりも同一の意見を持つ他者の存在が優先されている」という主張と似たようなことが指摘されている。

又、ここで述べられているような、自己の信念や感情にとって都合のよい情報ばかり見てしまうことを、心理学では「確証バイアス」と呼んでいる。こうした認知バイアスの問題もフェイクニュースをめぐる問題には内包されていると考えられるだろう。

1-2 フェイクニュースポストトゥルース

土井によれば、フェイクニュースポストトゥルースとは「表裏一体」の関係であるという。フェイクニュースの拡散が社会の分断化を生み、社会の分断化はポストトゥルースを引き起こしやすくする。まさに負のスパイラルといえる状況なのである。
つまり、フェイクニュースが拡大していく中で「リテラシー」を高めて対応しようとするだけでは、拡大を続ける限り”いたちごっこ”状態である。こうしたことからも、人間の能力向上で現状に対応するだけでなく、本質的にフェイクニュースの拡大を止める策を講じなければならないのだといえるだろう。

1-3 社会の流動化とフェイクニュースの拡散

土井はこう述べている。

グローバル化が進んで流動性の高まった現代社会では、(中略)その不安定さを少しでも解消するため、生活環境や価値観が似通った者どうしで関係を閉じ、(中略)その関係の内側では、たとえ真偽が疑わしくても賛同や共感を得られる事柄を共有しあうことが優先され、それが共通の基軸となりつつある。

社会の流動化によって「存在論的不安」などが生じる中で、安定を求めるために意見の似た者同士で集まっていく。そして、その集団の中では真偽よりも賛同や共感が優先されるということである。

土井は続いて「真偽が疑わしいものもだんだんと真実味を帯びていき、集団内では最終的に真実として認識されるようになってしまう」ことを指摘している。認知心理学における「虚偽記憶」のようなことが起こっているのだろうか(→虚偽記憶 - Wikipedia)。都合の良いように認知を歪めているということがよくわかる。

最後に土井は、これらの問題を踏まえて、ファクトチェック(事実確認)の厳格化だけではどうにもならず、フェイクニュースが今日の社会構造に根差した現象であることを認識し、この背景に想像力を巡らせていくことが必要であることを指摘している。これは前稿でも紹介した通りであるし、本稿でも繰り返し述べてきた。フェイクニュースをめぐる議論の複雑さは、①真実よりも他者との関係が優先される、②フェイクニュースポストトゥルース社会は相互作用しながら(負のスパイラル)拡大していくという点にある。単なるリテラシーうんぬんやファクトチェックといった対症療法的な対応だけでは追いつかないのは自明だろう。そして、社会的背景を押さえる上では、土井の指摘した「グローバル化」による流動性の高まった社会というのが一つの重要な観点ではないかと思われる。

 

2.“集団へ同調する”政治

2-1 与党を支持するということ

少し前にこんな記事が話題になった。*1

globe.asahi.com

さてこの記事の中に、かなり興味深い記述がある。

2年生の女子学生は、昨年秋の総選挙で初めて投票した喜びを手放しで話してくれた。「私も日本国民なんだ、これが政治参加なんだ、と実感しました。そして、開票結果を見て、自分が多数派だったと分かったら、なんだか安心しました」

 「自分が多数派だったと分かったら、なんだか安心しました」

この言葉は、これまで議論してきた「ポストトゥルース社会」に関係していると読めないだろうか。記事ではこんな言葉も紹介している。

「今の日本はすぐに反対の声が出てくる。そういう人の方がどちらかというと、独善的だという気がします。私は個人的に、自分が投票した党が政権につかなくても、たとえ納得いく政策がとられなかったとしても受け入れます。それが民主的なんだ、ああ今はこれ(が民意)なんだって」

 「納得いく政策がとられなくても文句は言わない。これが民意だから。」*2

多数派であることの安心感は、先ほども紹介した「存在論的不安」の低減に役立っている可能性がある。多数派である限り、多くの他者との同一性が担保される。そして、その集団の中では真偽よりも賛同や共感が重視されるのである。つまり、政策の中身よりも「多数派である」(同志がたくさんいる)という事実が重要なのであり、個々の政策には反対でも与党を支持するという人もさらに増えていくかもしれない。支持政党についての文句は基本的に言いづらくなっていくだろう。

さらに、自分が現在多数派の集団にいてもいつ少数派になるかわからないという不安があるため、簡単には多数派の集団から抜けるわけにはいかない。その結果、集団へのコミットメントは更に高まることが予想される。何かに反対するということは、和を乱す行為であり、不安を高める方向にはたらく。

そして、この記事が指摘しているような「自分が投票していない党にも反対しない」という姿勢も存在論的不安から説明が可能ではないだろうか。日本においては「無党派層」がある一定の割合いるとされているが、無党派層はこれまで述べてきたような「集団へのコミットメント」が低い。むしろ積極的には干渉しようとしないと言えるだろう。だが、特定政党の政策に反対意見を出してしまえば、その支持集団とは「敵」になってしまう。敵が増えれば不安が高まる。だから敵を増やさないように黙って受け入れる姿勢になる。こうした心理が背景にあることは十分考えられる。

 

2-2 一体感を生み出す「敵」

話が横道にそれてしまった。政治においてはもう一つ重要な要素がある。それは前節でもやや触れたが「共通の敵」を作ることで一体感が増すということである。いわゆる「ポピュリズム*3と呼ばれる政治姿勢は、敵を作ることで大衆扇動を行うものとして知られているが、現代社会においては、いわゆる「ポピュリズム」に限らず世界中でこうした「敵」を作る対立構造的な政治が多いように見られる。日本も例外ではない。「ネトウヨ」「パヨク」といった罵り合いは毎日のように起こっている。これも、不安を低減するために集団の結束を深めるための手段であると考えれば腑に落ちる。不安の低減作業は底なし沼のようなものであり、どこまでも続いていくのだ。しかし同時に「敵」を作る政治は、社会の分断化を生みだし、これもまた悪循環に陥ると考えられる。こうした政治状況では社会問題を解決するのが難しいことも悪循環につながる。

フェイクニュースは政治をめぐる文脈の中でしばしば登場するが、そもそも政党支持などにおける「集団への同調意識」が、真実性を軽視させているという状況にあり、さらにはこうした意識が異なる意見を持つ人との対立構造を深め、さらなる悪循環に陥っていくと考えることができるだろう。

 

本稿では、土井教授の論考と、政治をめぐる「集団への同調」という2つの観点からフェイクニュース問題の背景を探った。

気が向いたら続きを書きたいと思う。

*1:この記事はTwitter上で非常に物議をかもした記事である。私個人の意見としても、この記事に出てくる大学生の主張は、はっきりと書いてしまえば、民主主義に関する理解も軍国主義に関する理解もかなり欠落しており、現実を抜きにした一種の「理想論」的な主張であることは否めない。だが、こうした意見が出てくることもうなづける社会であることは否めない。決して批判に終始せずに考えていかなければならない問題がここにはあると思う。

*2:憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とあるが、国家が自由や権利を侵害しようとしている場合に「不断の努力」をしなくていいのだろうか。という疑問はある

*3:ポピュリズムだからといってすぐに否定するべきではない。これについては、こちらの記事が詳しい→ポピュリズム、それは危険な存在か、民主主義の促進剤か:朝日新聞GLOBE+