A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

優生思想をめぐる研究から学ぶ #1

論文

安藤泰至. (2018). 優生思想と 「別のまなざし」: 宗教・いのち・障害と共に生きること. 宗教と社会貢献, 8(1), 3-23.

生命倫理問題と「いのちへの問い」

安藤(2018)は、はじめに

「治すための医療」が進展すればするほど、「治すことができない、治らない患者」はどんどんその蚊帳の外に置かれていった

ことを指摘している。それはつまり、

病気だけを診るような医療が幅を効かせ、「悩み苦しむ患者に手を差し伸べ、彼らを助ける」という医療の原点がともすれば見失われがちになってきている

ことである。さらに、

そして、障害もまた「治すことのできない」ものであり、障害のある人の生活や人生をどのようにサポートするかということもまた、「治す」ことを至上目的とするような現代の医学・医療の視野からは抜け落ちてしまうことが多い。

少なくとも「治療」という観点から考えれば、うなずける指摘と言えそうである。だが、障害を持った方への支援を行うのは「医学・医療の視野の中」にあるべきかと言われれば少々難しいかもしれない。むしろ、障害の「医学モデル」からの脱却を図るという意味では、障害は「治す必要がない」こととして、むしろ現代の医学・医療の視野の中にいないことが望ましいといえるかもしれない。障害の「社会モデル」の理念から考えてしまえば、支援をするのは、医療も含めた「社会」の側と見ることもできるため、このあたりは簡単な議論とは言えない。(参考→障がいの定義は医療モデルから社会モデルに転換を – アゴラ

 

生命倫理に関わる問題についても指摘を続ける。

こうした技術[不妊治療や代理出産などの技術]があることで、逆に不妊はますます「病気」として「医学的治療」の対象となり、子どもがほしいのにできないという苦悩をそのままに受け止めること(それだけをとれば「子どもをあきらめること」や「養子をもらう」ことなどもありうる選択肢の一つになるはず)ができにくくなっている。

出生前診断については、

人の誕生をめぐる生命操作[選択的中絶、デザイナー・ベビーなど]は、私たちが「授かりもの」としてきた胎児=子どもに対する意識を徐々に浸食し、本来私たちが問うべき「いのち」への問いを後退させているように思える。

さらに、人の死をめぐって

脳死臓器移植という技術は、臓器を受け取る側の人(レシピエント)の救命のために、臓器をあげる側の人(ドナー)のいのちやその最期の時間・空間を侵食する。それまで「超昏睡」や「不可逆的昏睡」の名で呼ばれていた状態の人が「脳死」と呼ばれ、その人の身体だけでなく、多くは家族と共に過ごされるその看取りの時間・空間が臓器移植という技術によって支配され、管理される。「いのちの贈り物」や「いのちのリレー」といった臓器移植を美化するキャッチフレーズが、むしろそこで「いのち」がどのように扱われているのかを隠蔽する働きをする。

なるほど、確かに「いのち」への問いというテーマは優生思想を考えるうえで非常に重要な視点である。そもそも、何をもって「生」とするのかというのは非常に難しい。臓器移植などは確かに「いのちのリレー」であり、レシピエントの生を救うことにつながるかもしれないが、ドナーの生は「価値のないもの」と見なしていると考えることができる。そんなに簡単な問題ではなさそうである。

もう少し考えてみれば「死刑制度」というのも「価値のない生」という観点に立ってみると、非常に難しい問題ではないだろうか。大きな犯罪を犯すなどして制裁を加えなければならない存在であることに疑いがないとしても、命を奪うという段階においては一種の「優生思想」ともいうべき「生命の価値」という問題を内包しているように感じる。

 

節の最後に、安藤(2018)は、こうした問題に取り組むはずの「生命倫理学」に対する問題点として

①そこで生命や健康、病気や障害をめぐる医学的・医療的なものの見方が十分に相対化されていないということ。

②生と死をめぐる意思決定において一定のプロセス(手続き)を踏んだ上であれば個人の自己決定にほとんどすべてをゆだねることで、さまざまな人々が「共に生きられる」社会のあり方への希求が薄くなっているのではないかということである。

の2点を指摘している。

自己決定から誕生した優生思想は現代の優生思想といえる。一部の学者の言葉を借りれば「新優生学」である。①の指摘は申し訳ないがまだ私には十分理解できていない。ここでの「相対化」という語をどのようなニュアンスで使っているのか浅学な私には難しい。このあたりは今後追記していきたい。
②については、いわゆる「インクルーシブ社会」への希求のことだろう。だが、この指摘は障害などにとどまらず、人種的な問題なども含めた「共生」という理念全体に対するもののように思われる。自己決定の重要性はもちろん否めないが、自己決定が重視されるあまりに自己責任も重視されているからこそ、共生への希求が薄れるのだろうか。このあたりのメカニズム?はどうなっているのだろう。

続きは次回。