A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

体罰事件について思う2つのこと(雑文)

https://mainichi.jp/articles/20190118/k00/00m/040/210000c

都立町田総合高校で教員が体罰 ネットで動画拡散 - 産経ニュース

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東京都立町田総合高校で起こった体罰事件。「体罰」と聞いてしまうと教員が責められるのがこれまでの常だったわけだが、今回の一件は思わぬ方向に進んでいった。それは、体罰の瞬間の直前を含めた映像が公開されたことにより、生徒の煽り行為、撮影者の言葉、待ち構えたかのように近寄ってきた生徒の存在など、さまざまな"背景"が推測されるような状況が見えてきたからである。

本ブログでは、私が気になった2つの話を少しずつ書き起こしていきたい。

 

体罰とは

1. 体罰の禁止及び懲戒について

体罰は、学校教育法第11条において禁止されており、校長及び教員(以下「教員等」という。)は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合も体罰を行ってはならない。体罰は、違法行為であるのみならず、児童生徒の心身に深刻な悪影響を与え、教員等及び学校への信頼を失墜させる行為である。(以下略)

2. 懲戒と体罰の区別について

(1)教員等が児童生徒に対して行った懲戒行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。この際、単に、懲戒行為をした教員等や、懲戒行為を受けた児童生徒・保護者の主観のみにより判断するのではなく、諸条件を客観的に考慮して判断すべきである。

(2)(1)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とするもの(殴る、蹴る等)、児童生徒に肉体的苦痛を与えるようなもの(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。

3. 正当防衛及び正当行為について

(1)児童生徒の暴力行為等に対しては、毅然とした姿勢で教職員一体となって対応し、児童生徒が安心して学べる環境を確保することが必要である。

(2)児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使は、もとより教育上の措置たる懲戒行為として行われたものではなく、これにより身体への侵害又は肉体的苦痛を与えた場合は体罰には該当しない。また、他の児童生徒に被害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避したりするためにやむを得ずした有形力の行使についても、同様に体罰に当たらない。これらの行為については、正当防衛又は正当行為等として刑事上又は民事上の責めを免れうる。

体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知):文部科学省

文部科学省が2013年に公表しているものであるが、体罰の定義が非常にあいまいであり、現場の裁量に任せられていると見ることもできる一方、これでは過剰に体罰に対して怯えなければいけないという状況もあるように感じられる。

体罰はダメ!」と言う割にはそもそも体罰の定義も不明瞭で、それでは体罰を根絶するというのも簡単な話ではないし、実際のところ体罰に代わる効果的な指導法についての言及が少ないことも「体罰容認論」を支える根拠なのではないかと感じる。

【「体罰」を考える】喫煙生徒を血まみれになるまで殴った教師、母親は「よくぞやってくれました」と頭を下げた(1/4ページ) - 産経WEST

 

「指導」という問題

体罰が禁止されている理由の一つは、その教育的意義の問題である。暴力習慣は引き継がれていくとはよく言ったもので、その辺りには私も詳しくないが、暴力によらない解決を目指すことで、将来的な暴力行為を減らすという目的は大切なものであると思われる。

しかし、今回の一件で一番問題視しているのは、生徒に対して適切な指導を行えているのかということである。もちろん、体罰による指導を肯定したいわけではないし、体罰があったことでむしろ指導をしづらくなったとも言えるだろうが、今回の報道を見る限りでは多分生徒に対する指導は十分に行われていないことが推測される。

学校側は、生徒と両親に17日謝罪したが、殴られた生徒は、許せないという思いを伝えたという。

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これが本当なのだとしたら町田総合高校はこの生徒に対して全く指導ができていないだろう。「許さない」という言葉を簡単に出せてしまう背景には、自らの過失についての自覚のなさがはっきりと見えてしまっている。いや、むしろまったく反省などしておらず、ケガをしたと言っても嫌いな教員が消えて「ざまあみろ」と。彼は生徒たちの間では"ヒーロー"になっているのかもしれない。ここまで来てしまうと憶測に過ぎないが。

さらに、学校側の会見によると

信岡校長は、教諭が暴力を振るった背景について説明を避けたが、「生徒に問題や指導すべきことがあったために手が出たのではない」と話し、生徒に落ち度はなかったとの認識を示した。

https://mainichi.jp/articles/20190118/k00/00m/040/210000c

とのことであるが、まったく意味がわからない。つまり、教員に対する暴言もピアスを開ける行為も「問題や指導すべきこと」ではないというのである。

確かにピアス禁止については近年議論されはじめた面はあり、それを絶対悪と断定するのには無理があるだろう。茶髪問題やピアス問題は簡単な問題ではない。

全文表示 | 高校生の茶髪・ピアス禁止は「悪しき統制主義」? 現役教師の新聞投書で議論沸騰 : J-CASTニュース

だからピアス禁止が校則に明文化されていなかったとして、最大限譲歩した上で述べるが、教員への暴言行為は問題や指導すべきことではないのだろうか。「小さい脳みそで」とか「どう落とし前つけんの」とか。生徒にまったく非はなく、指導すべき問題ではないのか。これが容認されてしまえば、教員は生徒のストレスのはけ口になり、一種のいじめの対象となりうるわけだが(今回もそれに近いと思っているが)、それでも教員は耐え続けなければならない職業なのか。それこそ時代遅れの考え方ではないだろうか。

先の文部科学省資料にも

児童生徒の暴力行為等に対しては、毅然とした姿勢で教職員一体となって対応

とある。暴力行為等には言語的な暴力行為も含められて当然ではないだろうか。教職員が一体となって対応すべき案件なのではないだろうか。それを一人の教師の体罰の問題に矮小化してしまって本当に良いのだろうか。教育機関として、悪いことをした者に指導をするという責任を放棄してはならない。冷たく言えば、今回の校長の弁明は教育者失格の発言であると私は感じている。今後の対応に期待するばかりである。

 

制裁の問題

今回の一件は思わぬ方向に進んだことにより、炎上・生徒の特定作業・バッシングなど様々な方向からの「社会的制裁」が加えられることになってしまった。また教員に対する同情の声や罰を減する嘆願なども起こった。これはこれで良いとする意見もあるが私はここで少し立ち止まっておきたいと思う。

確かに、1人の教員に対して10人ほどの学生が取り巻いて、今回のような問題が起きたとみれば、完全なる「いじめ」であり、到底容認されるものではない。だが、そうした一部の高校生を相手に数万人というSNSユーザーが攻撃を加えるのも、またこれは「いじめ」と本質的に同じではないかと思っている。私的制裁の最大の問題は感情が先行してしまうところにあると思う。つまり今回の拡散された動画を見て胸くそが悪い気持ちになった人は少なくないだろう。自分もその一人である。だが、その胸くその悪さを理由に私的制裁を加えてしまえば、「気に入らないからいじめよう」という論理と同じ枠組みの中に自分が入ることになり、攻撃対象となっている人と「同じ穴のムジナ」となるわけである。お前にいう筋合いがあるのかという話になってきてしまうだろう。集団攻撃はこのようにしばしば再生産される。私たちはこのあたりにもう少し自覚的になる必要があるのではないだろうか。

言い換えれば、今回の問題行動を起こしたような青年の行動は、決して特殊なものではなく、多くの日本人が表ではやらないだけの行動とも言えるのかもしれない。だが、表だとか裏(ネット)だとかという議論は意味がなく、ダメなものはダメと言わなければこうした問題は解決しない。

新春暴論2018――「許される体罰」を考えてみる / 山口浩 / 経営学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2

 

追記。1.21。

世論は完全に生徒への攻撃となっているようであるが、本当にそれが正しいのかははっきりしないのではないだろうか。確かに適切な指導を行う必要性は否めないが、社会的制裁を感情的に加えたことによって問題の本質が見失われたような印象も同時に受けている。改めて落ち着いた行動をとるべきだろう。このブログでも指摘したが感情的な集団攻撃をしてしまっては、同じ穴のムジナである。