A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

(考察)フェイクニュース問題をめぐって #1

#1 最近のフェイクニュース事情

最近読んだ記事 その1

AIの軍拡競争が生み出す、人間には簡単に太刀打ちできないフェイクニュースの世界。それに少しでも対抗するには、私たちはこれまで以上に、常識やリテラシーと呼ばれるものに頼るしかないのだろう。

本当としか思えないニュースや映像こそ、逆に疑ってみたり、1本のニュースを鵜呑みにするのではなく、複数のソースを当たってみたりすること。そうした従来から言われてきたアドバイスを、もう一度心に刻み込む必要がありそうだ。

出典:もはや見破ることは不可能…?AIで深刻化するフェイクニュース(小林 啓倫) | 現代ビジネス | 講談社

フェイクニュースという戦場」における「AIの軍拡競争」と、なんとも仰々しい言葉が並ぶ記事だが、この記事で紹介されている「ディープフェイク」(高度なフェイクコンテンツ)は確かに広がっているようである。果たして、筆者が主張するように、人間の「常識やリテラシー」で対抗できるものなのだろうか?

 

最近読んだ記事 その2

デマが蔓延る世の中になった。

このような時代のことを、「ポストトゥルース」と呼ぶことがある。「真実」や「事実」が、世論を形成するときに、力を失ってくる時代の状況のことである。デマやフェイクニュースが頻繁に流れてくるので、何が本当で、何が嘘なのか分からなくなる

だから、デマやフェイクニュースに対抗するために、デマを訂正する記事や、事実確認(ファクトチェック)をする記事などが書かれることになる。事実確認をしてくれるこれらの記事は、デマやフェイクニュースに惑わされやすい現在に生きるぼくらにとって、大変ありがたいものである。

が、時折、「デマを訂正する主張それ自体がデマだ」、という事例に出くわすことがある。「〇〇はデマだ」と言われて、多くの人は「な~んだ、そうだったのか」「〇〇を報じたメディアは信用ならない、嘘つきだ」と思いがちであるが、「あれはデマだと判明しました」「科学的にはあれは事実ではありません」という、いかにももっともらしい顔をした記事自体がデマだ、というケースが随分と多いのだ。

ツイッターを見ていると、このような多重化したデマ、巧妙なデマに、知識人や専門家すら引っかかっているケースが随分と見受けられる。「リテラシー教育でなんとかなる」という意見があるが、リテラシーの面から言えばそれなりに高度なはずであろう人々がデマを見抜けないのだから、多分そんなに楽観視はできないだろう。

出典:「それはデマだ!」の主張自体がデマ…という事態にどう向き合うか(藤田 直哉) | 現代ビジネス | 講談社

「デマを訂正する主張がデマだ」と言われてしまったら、果たして私たちは何を信じればいいのだろうか。筆者の主張している通り、これは「リテラシー教育」でどうにかなるというような状況にはないと思われる。

筆者はこのようにも書いている。

むしろ問題にしたいのは、正しく事実を伝えていた北海道新聞を「デマ新聞」だと勝手に決めつける風潮の方である。これらを「デマ」「フェイクニュース」だと決めつけ、同調した人たちがたくさんいたことを、恐ろしく思うのだ。

彼らの多くは、追跡取材を追いかけてもいないし、見解を修正してもいないのではないかと思う。漠然と「北海道新聞はデマ新聞」と思い込み、それを確認しあうことで留飲を下げているだけなのではないか。

出典:「それはデマだ!」の主張自体がデマ…という事態にどう向き合うか(藤田 直哉) | 現代ビジネス | 講談社

フェイクニュース問題を考えるときに「真実かどうか」という話だけでは語れないことを示している。つまり、真実かどうかはどうでもよく、同一の意見を持った他者が多くいるという事実を得ることの方が重要視されているのではないかと考えられる。この点については後ほど深く掘り下げたい。

そして筆者はこのように結論づける。

なぜ、そのような根拠のない決めつけを「信じてしまう」「信じたがる」人々がこれほどまでに多いのだろうか? 事実であるにもかかわらず、それを報じる新聞を「デマ」「フェイクニュース」と勝手に決めつける人々がこれほど多いのは何故なのだろうか? それは、時代の傾向の問題として分析されるべきである。

人々が、事実や証拠や論理に拠らない決めつけを信じ込んでしまう現象は、現在では頻繁に起こっている。これはその一つの例だ。ポストトゥルースとは、それが蔓延した時代のことである。

デマに警戒するあまり、「あれがデマだ!」という意見自体がデマだ、という、多重のデマがこれほど容易く人に影響を及ぼしている状態には、暗澹たる気持ちになる。

何がデマかデマではないのかを確認するために参照するメディア自体がまたデマであるかもしれない……という可能性を無限に遡行し、ひとつひとつ真偽を確定するなんていう作業を、現実に生活しながらあらゆるニュースに対して一般の人々が行うのは、ほぼ不可能に近いからだ。

しかし、では諦めて開き直ってデマでも何でもよい、という風になれば良いのだろうか。それも、倫理的・人間的に正しいこととは思われない。

だとすれば、どうすれば良いのだろうか。この未知の状況に対して、メディアのあり方、信頼のあり方、私たちの情報や事実に対する構え方の、新しいあり方は必要とされている。

それは全世界で様々な人々が模索している最中だが、こうすればいいというシンプルな答えは見つかっていない。ぼくたちが、自分自身の手で、新しく発明していかなければならないもののようである。

出典:「それはデマだ!」の主張自体がデマ…という事態にどう向き合うか(藤田 直哉) | 現代ビジネス | 講談社

どのように、この「ポストトゥルース」時代を生きていけばよいのか。もちろん、先の記事にて挙がっていた「常識やリテラシー」が更に必要とされることは疑いがないだろう。しかし、この筆者が主張するように、それに加えて、新しい"何か”を模索しなければならない段階まで来ているのではないだろうか。

次稿は、そんな”何か”を模索する手がかりとして、こうしたフェイクニュースが広がる背景を少し追いかけてみたい。