A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

対立を乗り越える心の実践(読書メモ)③

読んだ本

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

 

第5章

特別討論〈相模原事件〉の後のこの国でーー有事モード下の差別と偏見

はじめてこの本を読んだのが,昨年の春だったが,一年という時が経って多くのことを学んだ今,この章の見え方がかなり変わった。これからも繰り返し読まなければいけないと感じる。今,私にできる限りの切り口で本章を読み解きたい。

語らないもの

・事件そのものにも「まさかこんなことが」と思ったわけですが,その後の議論が,措置入院などこの国の精神医療のあり方に終始していることにとても違和感がある。なんでそれだけなのか,そうではない,「優生思想」の問題をはじめ,さまざまな差別をめぐる問題があるのだと,言葉を発したいのだけれど,一つの切り口で語ろうとすればするほど,何かがこぼれていく。それほどにこの事件は多くの問題を根本的に突きつけたと思います。[岡原]

・この事件が起きるずいぶん前から,日本だけではなく,社会の中に「優生思想」と値を共有する思考が広まってきている。日本について言えば,とりわけ東日本大震災以降,そうした思考を表に出すことを抑制してきた歯止めが外れてしまったのではないか,というような感覚を持ってきました。[星加]

・今の社会の中では,加害者が抱いていたとされるロジックが成立し得る,ということを了解してしまう自分がいる。そんな感覚があるのです。[星加]

 

「他者」であるーー排除の感覚

・この事件が社会の周縁部,自分とは関わりのないところで起こったという感覚を,たぶん多くの人が持っている。→「重度重複障害の他者化」[星加]

・この事件の加害者のように,何か特異なことを起こす人たちは自分たちとは違う,精神的な障害者なのだとしてそれを矯正しようとする感覚が,広く社会にあるのは事実だと思います。(中略)批判する側の論理にも,同じような事件を起こし得る共通の何かがあるように感じます。[栗田]

・「危険な思想を持っている奴だ」「危ない奴だ」ということで,周りともうまくやれない植松聖がいて,それを誰もが避けてしまった。そのあげくにあの事件があったとすれば,その排除の構造を問題にしないかぎり,同じようなことはまた起こるのではないかと思うのです。[栗田]

・障害者差別の研究をしている自分が,しかし,障害者という括りを別にすれば,そうした排除の構造の中で生きている自分に向き合いきれていない。[栗田]

 

語らないもの

・これまで自分が積み重ねてきたことと,起こってしまった事態と,それについて無理にでも発言する自分が,全身でつながっていないということがあからさまに感じられてしまった。[岡原]

・今回被害に遭われた重度知的障害の人々が,いかに遠い存在であるか。(中略)実際これだけ圧倒的に,自分たちとは違う存在として認識されている事実をあからさまに示されてしまうと,やはりショックを感じてしまった。[星加]

 

自分の問題として「闘う」

・あの事件を語るということは,どこかで,植松容疑者に重なる自分,加害者と地続きの自分を考えないといけない。私自身が,どこか外側でこの事件を見ているのにも,そうした勇気のなさがあるのかもしれない[栗田]

・今の社会は,健常者同士の間でも,「空気が読めない奴」なんて言葉で,コミュニケーションがとれないということに過剰なまでの排除が行われている。僕ら自身がそうした社会の中で生きている以上,植物状態の人々も含めて「コミュニケーションしにくい人々」とどう関わるのか,もう一度強く考え直す必要があるでしょう[岡原]

・慈悲的なというか,温かい言葉で覆い隠しながら,実際にはどんどん他者を排除していく社会があって,その中に,一生を病院や施設で過ごす人がいることを私たちは知らないで,議論の場さえありません。[栗田]

・差別とか偏見というのが,特別なことではなくて,日常的に人が摩擦を起こしたりすることの延長にあると考えられれば,身近な問題として議論することができると思うのですが,社会があまりにも縦割りになりすぎて,議論できる場自体が狭められ,そんな中で何か規範的でないことを言えば強烈に批判されるという息苦しさはなんとかしなければと思うのです。[栗田]

 

「本音」を評価する社会

・これまでの人種教育がある種の建前というか,ポリティカルコレクトネスを,我々が生きていく上での技法として定着させつつも,一方で,個々人の中にある感情を抑圧してきたという構造はある。[星加]

・向き合う,つまり本音をあらわにすることで,本音の部分に承認を与えてしまいはしないか,それが差別や偏見を再生産してしまうのではないか[星加]

・今の社会は,少しくらい偽悪的になっても本音を言うことへの評価が,明らかに高くなっている。それがどうしようもないような発言であっても,本音の感情で言っているなら許されてしまうという雰囲気が,明らかに強くなっています。[岡原]

 

有事と「優生思想」

社会的な危機に直面する中で,極限的な状況における生の選別や優先順位づけというものを,半ば当然のものとして受け入れるようになってきたのではないか。典型的なのは,いわゆるトリアージというものですね。(中略)しかし,原発事故のように危機が何十年にわたるとされる中で,その危機の感覚自体が極限的な短い時間に止まらない,日常のものになってきた。そうなる中で,極限における生命の選別という思想も日常化してきたのではないか→「思考全体が『有事モード』になっている」[星加]

 

アカデミズムが抱える課題

人間の価値とは何かといった根本的な問題に対して,学者たちが正面から議論するのを良しとしない,自分の専門は大事にするけど,それ以外のことには無関心,あるいは口を挟もうとしない。(中略)それまでの既存の価値観や権威を相対化し,先の時代の理論や方法を批判し,その結果,学者だけではなくて,医師や弁護士といった専門家全体の権威は低減した。(中略)そうした中で,専門家,知識人という人たちが,大きな問いを立ててものを考える,発言するという気概を持ちにくくした。時に気概を持って発言する人がいると,「上から目線」だと切って捨てられるような時代です。それを恐れてはいけないんだけれども,実際,職業としての学界の中でもアカデミックな公共性を論じることがなくなっている。[岡原]

 

「他者を肌身で感じる」

・何事につけ,肌身の感覚で捉えてみようとする努力がいるのだと思います。それは先ほど言った「本音」とは違う。「本音」とはいうけれども,それが何を根拠に発せられているのか,自分の本音と思っていることも,しょせんは,インターネット上の言説の受け売りかもしれない。そのように捉えて,みずからの信念そのものも疑って,みずからの体験を広げ,他者への関心を広げ,しかもそれを個人的なレベルにとどめない公共的な視野で位置づけ直して考えていく努力が,今の知識人に必要だと思います。[岡原]

・同時にそれは,専門か任せにしないということにも通じますが,知識人だけの事柄ではない。(中略)哲学や人文学の問いでもあるけれども,過程とか教室とか職場とか,あらゆる生活の場で,日々問われている問題だということです。[岡原]