A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)③

読んだ本

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第5章

・障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく,『価値がない』と思う人のほうに,『価値を見いだす能力がない』だけ
・物事を多角的にとらえ,そこに自分なりの価値や意味を見いだしていく能力が低いことの自己告白
→そうした能力の欠如が,日常を貧しく色あせたものにし,うっぷんを晴らす相手を見つけては憎悪をまき散らすような行動につながっている可能性もある【p.206】

・まちの人に,自分たちの存在を知ってもらうこと。そして,人目に付く場所にどんどん出かけ,地域で普通に生活する実践を積み重ねていくこと。それによって,人が変わり,地域が変わり,社会が変わっていく【p.223】

・「福祉が芽生える瞬間」
・お金じゃなくて,人には思わずカラダが動く場面がある。
・仕事だからやるんじゃなくて,カラダが動き,何より心が動く。【p.245-246】

・人と人が支え合うこと。それによって人は変わりうるのだということの不思議さに,人が生きていくことの本質もまた凝縮している【p.249】

人と人が「支え合う」ことの意味とは(雑文・感想)

 3回にわたって,“たった一冊の”新書の内容をブログにまとめた。これには大きな意味があったと思っているし,僕にとってここ最近読んだ本の中でも一番読んでよかったと思わされる作品になった。そもそも読もうとしたきっかけはTBSラジオの「荻上チキ session-22」にて紹介されたからなのであるが,大学で売り出されるのが遅く,気づけば出版から2か月近く経ってから読むことになった。

  さて,本書は「なぜ人と人は支え合うのか」という疑問形のタイトルであり,本文の中で答えが出てくるのかと思いきや,一応の主張はいくつかみられるものの,明確な答えは示されていない。だが,これが裏を返せば筆者の答えでもあるのだろう。ある意味,明確な答えが出なくて当然なのかもしれない。人は他の人を支える生き物なのである。そこに明確な理由は必要ないのかもしれない。心理学で扱われてきた「利他行動」については現在勉強中なので,今後まとめていきたいと思っている。

 最後に。本書で肯定的に描かれた「ボランティア」であるが,東京オリンピックをめぐる「ブラック・ボランティア」を筆頭に,「やりがい搾取」という言葉などにもみられるように,近年はかなり否定的な印象が強まっている。ここに少しだけ私見を加えておきたい。「ボランティア」や「やりがい」という名の下で,搾取が横行してしまうリスクはある。これは,場合によっては障害者支援の文脈でも起こりうる話であるだろう。決して他人事とは思えない。ここでは「視点」がいくつかあることに注意して考えていきたいと思う。

①支援者(ボランティア)の側の認識
②被援助者(ボランティアを集める人)の側の認識
③社会・世論の認識

 まず,①のボランティアを行う者自身の認識の問題である。これについては本書でも指摘されたように「支えることが支えられること」になっているという側面があると考えられる。ブラックボランティアと揶揄されるような東京オリンピックのボランティアでも,経験値になる人もいるだろうし,何らかの形で「支えられる」結果になる可能性は十分にあるだろう。

 次に,②のボランティアを集める側の認識であるが,搾取という批判の背景には「やりがいの押しつけ」とか「出せるお金を出さない」など,不誠実な印象を持たれていることが多いのではないかと考えられる。確かに「やりがい」の名の下で,労働力を搾取することは問題といえるかもしれない。だが,お金が出ていなくても得られるものがあるという点に着目すればどうだろうか。不誠実とは言えなさそうである。しかし,そうした理由で正当化することによって「出せるお金を出さない」としたら問題にも思える。これが最も難しい論点であるだろう。ある意味で「無償で働きたい」人と,「無償で働かせたい」人という利害が一致してしまえば,外野があれこれ言うことの意味とは何なのだろうと考えてしまう。

 最後に,③社会・世論の認識である。これは特に①の認識に影響を与える。実際に働いている人は,自らが働く環境に対して文句を言えなかったり,本当はおかしいのに納得してしまっているケースが考えられる。こうした時に,社会通念に照らし合わせて是正していこうとする取り組みも社会では行われる。いわゆる労働運動(ストライキを含む)ものがこうした側面を有するだろう。

 結局のところ,ボランティアをめぐる問題は非常に複雑であり,ボランティアを一概に否定することも一概に肯定することもできないのである。その上で指摘しておきたいことが2点ある。一つ目は「ボランティアをする人自身がよく考える」ことである。ボランティアに時間を割きたいのか否かを“自ら”決定する,そこに他者からの圧力が介入しないようにする。ボランティアを強制するような行為は批判されてしかるべきだと私も考えている。職業選択の自由のようなもので,ボランティアをするかしないかも最終的には「自己決定」の下で決められる必要があるだろう。二つ目は「ボランティアをすると決めた人を非難しない」ことである。ボランティアを集める側への批判は,搾取になっていないかという観点からある程度自由であるべきだと思うが,ボランティア行為をすると決めた人に対する揶揄やバッシングは不毛であり,何の意味もない。ボランティアの目的はお金だけではない。その上,ボランティアを実際にした上で,日常生活では得られないような貴重な経験をし,「ボランティアしないなんてバカだよね」となる可能性だってある。実際,ボランティアをすること・しないことのどちらが良くどちらが悪いのかは断定することはできないし,その人次第とすらもいえる。だからこそ,他人の決定を揶揄するような言論に対しては批判的にみている。

 以前「荻上チキ session-22」の中で,昔のオリンピック・ボランティア経験者の方が電話出演されたときにややバッシングを受けていたのを思い出す。あの時は,番組リスナーは民度が高いものだと思い込んでいたが,よくも悪くも裏切られたのである。まじめそうな仮面をかぶった“正義の味方”は,意外と悪をバッシングしようとするのだが,実際のところ,決定的な“正義”などないのかもしれない。

 人と人は支え合う生き物である。同時に,人と人は攻撃し合う生き物でもある。オリンピック・ボランティアをめぐる議論は後者の側面を強く持っている。意見をぶつけることと他者を攻撃することは違うし,議論は勝負ではない。本書で描かれたような「支え合う」社会のためには,むやみに攻撃をしない人間性も必要ではないだろうか。