A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

行動遺伝学の意義を考える

今回読んだ本

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

 

ヒュームの法則

「である」を問題にする事実命題と「べし」を扱う規範命題は性質を異にしており,事実命題から規範命題は導出できないという指摘。

出典:内藤淳. (2004). メタ倫理学・メタ法価値論と進化生物学 (1):「ヒュームの法則」 をめぐって. 一橋法学, 3(2), 767-804.

「○○である」=「○○すべき」とは導出できないという指摘である。例えば,安藤は,

遺伝の影響があることが事実として示されたからといって,だから遺伝の影響は重要だと考えたり,遺伝の影響を重視すべきだと主張してよいことにはなりません。[p.187]

と述べている。同様の指摘は,ムーアがスペンサー批判を通じて主張した「自然主義的誤謬」にもみられ,価値・規範判断を事実命題から演繹推論することを「誤謬」であると指摘している(内藤, 2004)。

こうした指摘から考えるべきことは,行動遺伝学の知見そのものではなく,むしろそれに何らかの価値判断が加わる状況に対して,私たちは注意を向ける必要があるということである。ダーウィンの「進化論」やメンデルの「遺伝の法則」そのものには価値判断が含まれていない。優生学の父として批判されることの多いゴルトンにしても,統計学的手法に基づいて,人間の遺伝的要因を分析しようと試みることだけであれば,特に価値判断が入っているとは言い難いだろう。こうした,価値判断のない状態の研究をすべて批判することは,遺伝的要因すべてに目をつぶることにつながってしまうのではないだろうか。遺伝と行動の関連を調べている者(行動遺伝学者や進化心理学者,社会生物学者など)は,この点を強く主張している。(価値判断を含まない)遺伝と行動に関する研究は必要であり,それは優生思想につながる危険性を持っているとしても,それが直接的に優生思想になることはない。むしろ,優生思想への過度の警戒のあまりに,”科学的に実証されている”「遺伝」の寄与を無視することは,逆に問題ではないだろうか。この点は後ほどもう少し詳しく検証する。

尚,ナチス・ドイツの政策にも影響を与えたと考えられている,ビンディンクとホッヘの「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」という著作には,明らかに「生きるに値しない」という価値判断が含まれているといえるだろう。同様に,行動遺伝学等の知見を人種差別や偏見・ヘイトスピーチなどに利用したり,断種法・障害者虐殺などに応用したりすることは明らかな価値判断が含まれており,許されることではない。

ここで注意しなければならない点がいくつかある。まずは,完全な価値判断からフリーになって行動遺伝学等の知見を語ることができるのかという問題である。次に,価値判断が含まれているからすべていけないとは言えないかもしれないという問題である。そもそも「いけない」という判断そのものが価値判断なのである。断種法は現在となっては否定的な見解が主流だが,実施されていた当時はそれを悪だと判断していた人は少なかっただろう。すなわち,行動遺伝学等の知見に価値判断を混ぜてしまうことが問題なのではなく,価値判断が含まれる際には注意深く吟味・検討する姿勢が求められるということであるだろう。そうした意味では,研究者が「これは価値判断を含まないフラットなものである」という主張をした時に,本当にフラットなのかを検証する必要性もあるのかもしれない。このあたりが,現代の「優生思想」と「生命科学」をめぐる最も難しい点である。

遺伝を無視することが”優生思想"

安藤はこうした遺伝要因を無視することこそ優生思想にとどまっているということを指摘している。

「もし知能に遺伝的人種差があることがわかると差別に結びつくから,遺伝的差異はないことにしなければならない」と主張する人は,「実際に遺伝的差異があったら,自分はそれを理由に差別する」という優生的態度に潜在的にとどまっている

その主張に固執するかぎり,問題の本質は解決されず,事実上の優生社会,差別社会が温存され続けてしまう

むしろいかなる心理的,行動的形質に集団間の遺伝的差異があったとしても,それが特定の集団の人たちの尊厳を脅かしたり社会的差別の正当化に結びつかないような考え方と社会制度の構築が必要[p.193-194] 

 

こうなると,自由競争や能力主義を正当化する理由を再検討しなければならなくなるのではないでしょうか。初めから持っているパイが違い,しかもそれは初めだけでなく,人生のあらゆる局面で,それぞれ予期せぬ形で内側から適応条件の差異を作り出しているからです。それでも自由競争をよしとすれば,優生社会を手放しで容認することになるのではないでしょうか。これが遺伝子の時代に私たちに突きつけられる社会的,倫理的,政治的問題になるのです。[p.198]