A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

行動遺伝学について考える

今回読んだ本

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

 

行動遺伝学者の安藤寿康氏の書籍である。タイトルはやや攻めているように感じるが内容は行動遺伝学の知見を簡潔に述べたシンプルな内容であった。

本日は同書より注目したポイントをいくつか(2章まで)取り上げてみたい。

3つのメッセージ

・「遺伝とは親のもっているものがそのまま子どもに伝わることだ」*1とか,「遺伝だと勉強や努力や教育をしても役に立たない」という考え方*2(偏見や先入観)は遺伝の法則から導き出されるものではない[p.16]

・心理学や教育学や人文社会科学全般が,遺伝学や広く生命科学に隷属するものではなく,両者を対等につきあわせることで,生命科学が逆に見落としがちなことに気づく[p.17]

・私たちが求め続けている自由で平等な社会とは,遺伝子の制約を乗り越えることによって実現されるものではなく,むしろ遺伝子たちのふるまいをきちんとわきまえ,遺伝子たちと調和しようとする営みの中で実現されうる[p.17]

行動遺伝学を研究する理由

教育の重要性,環境の重要性はいうまでもありません。遺伝を理由に人を差別してはならないというのも当然のことです。しかしだからといって,遺伝による個人差があるという事実を無視したり否定しようとするのは,いかにそれが善意と正義に満ちたものであっても,知的に誠実であるとは言えないはずです。必要なのは,まさに「遺伝も環境も両方論」,つまり遺伝の影響をきちんとみすえたうえで,環境とのかかわりを理解し,設計していくことしかない。この結論は論理的に必然の帰結としかいいようがありません。[p.56-57]

この文でほとんどすべてが語られているように思われる。行動遺伝学はしばしば「優生思想」のレッテル貼りにあって批判されてきたが,そもそも行動遺伝学は「遺伝も環境も」の学問であり,遺伝を無視して「環境がすべて」という意見に対しての異議を唱えているのだと言えるだろう。

行動遺伝学の3原則

①行動にはあまねく遺伝の影響がある
②共有環境の影響がほとんどみられない
③個人差の多くの部分が非共有環境から成り立っている
[p.77]

不都合な真実なのは「環境」ではないか

行動にあまねく遺伝子の影響がある以上,そしてその遺伝子の組み合わせが人によって異なる以上,いくら学校でみんなが同じことを同じ時間かけて学んでも,そこには成績の出来不出来,能力の得意不得意があるのは当然なはずです。

ところが,学校ではそれが好ましくないものと考えられ,勉強のできない子は努力が足りないとか,しかるべき時にしかるべきしつけができていなかったと考えられて,本人や親に負の烙印が押されがちです。こちらのほうが,真の意味での遺伝子の不都合な真実なのではないか。こんな問題が浮上してくるのです。[p.88] 

ここまで引用が続きすぎてしまったので最後にこの話について個人的な見解を書いてみたいと思う。

まず「成績の出来不出来や能力の得意不得意があることは当然のことである」という知見は,現実にどのような方向に使っていくかが非常に難しいのではないだろうか。だから本書でも具体的な明言を避けているのだろう。

例えば,こうした知見は「インクルーシブ」という理念につなげられるように思われる。

「共生社会」とは、これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会である。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である。このような社会を目指すことは、我が国において最も積極的に取り組むべき重要な課題である。

出典:共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告) 概要:文部科学省

つまり,成績が悪かったり,能力の得意不得意があることが受容され,そうした人でも積極的に社会参加・社会貢献ができるという方向に進むことができれば,余計な苦しみを負う必要がなくなるのではないだろうか。成績が悪いことはしつけのせいではない,遺伝の影響もあるのだと考えれば,親や本人にとって「逃げ場」となり,心理的なストレスは軽減できるかもしれない。

だが,同時に「逃げ場」ができることによって,そもそも自らの遺伝情報について正確に把握していないと,何でもかんでも「遺伝」を言い訳にしてしまう状況になってしまうリスクをはらんでいるだろう。遺伝検査も何もやらずに「僕はゲームが得意な遺伝を持っているんだ」というように都合のよい遺伝情報をねつ造して勉強せずに遊びまくる子どもが現れるリスクは十分にある。前述の通り,遺伝によってすべてが決定されることはない。しかし「遺伝の影響」というマジックワードが環境を悪化させる可能性にも注意しなければならないだろう。安藤の指摘する通り「遺伝の関係があっても教育・学習は大事」なのであり,遺伝を言い訳にして勉強から逃れていいというわけではない。

更に,成績の悪さや不得意があるから「頑張らなくていい」などと言ったらまさしく優生思想と同じようなものになってしまう危険度があがる。つまり,遺伝的なものに他者からの「価値判断」を与えることが優生思想につながるのである。

では,こうした知見と私たちはどのように向き合っていくことが必要なのだろうか。安藤は「遺伝的に向いていることに時間を注ぐべき」と述べているが(参考→最先端の行動遺伝学が示す「希望ある生き方」とは|Career Supli),遺伝的に向いていなければやらなくてもいいのか,遺伝的に向いていないことはやってはならないのか,遺伝的に向いているかいないか診断などではっきりと判断できない現状では,このあたりのことも判然としない。「下手だな」と言われて「ああ遺伝的に向いていないんだ」とあきらめることが増えるのはいいことなのか。考えれば考えるほど難しい問題であることは確かだ。

*1:相加的遺伝効果(遺伝子の効果量を単純な足し算でモデル化)と非相加的遺伝効果(遺伝子の効果量は組み合わせによって効果が変わる)の効果を合わせて考えてみると,親と同じ遺伝的素質を持った子はむしろ生まれにくいとすらいえる。[p.78-84]

*2:個人差の多くは「非共有環境」から成り立つものであり,環境要因の寄与がないわけではない。[p.77]また,遺伝によって影響されるのは「学習の仕方に関わるさまざまな条件」であり,遺伝=学習できないというわけではない。[p.85-88]