A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

投票結果の解釈をめぐって

2019年2月24日。辺野古新基地をめぐる沖縄県民投票が行われた。こういう言い方をすると「印象操作だ!」と言われそうだが,ここではそうした議論をするつもりはないのでご容赦頂きたい。今回書いていきたいのは,投票結果の「解釈」をめぐる話である。

まずは,選挙の結果をフラットに確認しておきたい。

沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に必要な埋め立ての賛否を問う県民投票が24日、投開票された。3択のうち、埋め立てに「反対」は43万4273票に上り、投票総数の71・7%を占めた。県民投票条例で定める知事の結果尊重義務が生じる投票資格者総数の4分の1を超え、昨年9月の知事選で新基地建設反対を訴えて当選した玉城デニー知事が獲得した過去最多得票の39万6632票も上回った。「賛成」11万4933票で、反対が賛成の3・8倍に達した。「どちらでもない」は5万2682票。投票資格者総数は115万3591人で、投票総数は60万5385人。注目された投票率52・48%だった。

出典:辺野古埋め立て「反対」が7割超え 知事の得票上回る43万票 沖縄県民投票、投票率は52.48% | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

この結果をうけて,沖縄県知事玉城デニー氏は次のように述べる。

玉城氏は過去2回の知事選などで辺野古反対の民意は示されてきたとし、「辺野古埋め立てに絞った民意が明確に示されたのは初めて。極めて重要な意義がある」と述べ、辺野古反対の民意の根強さを強調した。 

出典:デニー知事「民意が明確に示された」 安倍首相に早期面談申し入れ | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

政府関係者(?)は次のように述べる。

政府関係者は「さすがに民意ではないとは言い切れない」と本音を漏らす。辺野古を進める方針は変わらないが「反対の声が強まり、逆風になるのは確かだ」と語る。

出典:さすがに「民意じゃない」とは言い切れぬ……政府、辺野古推進に逆風 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

一度は県民投票に反対の立場を示していた宜野湾市長の松川氏は次のように述べる。

米軍普天間飛行場を抱える宜野湾市の松川正則市長は「投票率が5割ほどで、民意が測れたのか疑念がある」と不満を口にした。

出典:「投票率5割で民意が測れたのか」沖縄県民投票、普天間を抱える宜野湾市は… | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

以上で見てきたように,「5割」という投票率をどのようにみるかというのが,まず難しい。産経新聞はこのような書き方をしている。

米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古移設を問う県民投票では、全有権者(約115万人)のうち47.52%が棄権し、6割以上が明確に「反対」の意思を示さなかった

出典:沖縄県民投票 全有権者の6割は辺野古移設に「反対」せず - 産経ニュース 

公明党の山口代表は次のように発言している。

26日の記者会見で、米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を問う県民投票で「反対」が多数となったことについて「(得票総数を有権者総数で割った)絶対得票率は38%程度にとどまった。その他の思いがかなりあるという結果をありのままに受け止める」と述べた。

出典:公明・山口代表、県民投票絶対得票率は「38%程度」 - 産経ニュース

このような意見は数多くみられる。YouTubeでも,KAZUYAさんやら,THE FACT やら,いくつかのチャンネルで同様の見解が示されていた。

極めつけは衆議院議員の下地ミキオ氏。Twitterで次のように述べた。

さすがに「反対以外」という書き方はいくらなんでも暴論かと思うが,一つの極論として紹介しておきたい。

このあたりについて,分かりやすくまとまっている図がこちらだ。

転載元:沖縄県民投票「投票せず」55万人にみえる3つの“民意”

投票総数からみれば「反対票」は,7割を占めており,圧倒的多数と言える。しかし,有権者数からみれば「反対票」は,4割弱にすぎない。過半数に達していないため「絶対的な多数」とは言えない上に,今回の県民投票には反映されなかった「民意」の存在も考えられることは間違いない。この「民意」は無視できるのか,このあたりをめぐって見解が分かれているのかもしれない。

ここで少し検討しておきたいのだが,「投票に行かなかった人」を含めて議論することはどの程度妥当なのだろうか。少し脱線して,第48回衆議院議員総選挙(2017年10月)について述べてみたい。この選挙では,総有権者数が1億609万1229人で,投票率は53.68%であった。ここでは,一人一票の権利を持つ比例代表の得票数に注目して議論してみたい。与党の得票数は25,618,981票(投票総数の45.95%)であった。この時点でも,過半数にすら支持されていないとは言えるが,総有権者数から計算すると,なんと絶対得票率は24.15%程度になる。つまり,山口代表の言葉を借りれば「その他の思いがかなりある」と言えるし,ここでのその他の思いは,沖縄県民投票のものよりもはるかに多いのである。この事実をどう受け止めたらよいのだろうか。そのまま解釈すれば,安倍政権はぜんぜん支持されていない政権なのかもしれない。よっぽど「辺野古反対」の方が強い民意と言えてしまう。

そんな話はさておき,絶対得票率で議論し始めてしまった場合「賛成以外」が9割以上いると考えることもできるので,「安倍政権は沖縄県民の9割の人が明確に賛成を示せないような政策を進めている」ともいえるかもしれない。そのように見てしまえば,政権はただの独裁集団と言えるだろう。

たしかに,今回の県民投票にとどまらず,「賛成票に入れる人はおかしい」「賛成派は沖縄の敵だ」というような風潮がみられることに対しては,個人的にあまりよく思っていない。たとえ,反対が圧倒的多数の民意だったとしても,賛成という意見を「述べてはならない」のであれば,民主主義として成立していないからである。現に,今回の投票でも「少なくとも1割は賛成派がおり,明確に反対の意思を示さない人も少なからずいる」ことが示された。これも民意の表れである。

しかし,だからといって「反対の民意は強くない」と述べるのには少々無理があるのではないかというのが私見である。投票しなかった人を混ぜて議論をすることにはかなり無理がある。直近の衆議院議員選挙を使って同様の検証をしてみると,与党支持はたった4分の1にも満たないのである。最近の世論調査よりも圧倒的に低い数値が出ており,あまりこの数値の妥当性は高いと言えそうにない。妥当性が低いことを念頭においても,与党支持より圧倒的に「強い」民意なのである。投票しないという選択を恣意的に解釈している人が多いことは正直なところ残念である。

そもそも,賛成派はなぜ「賛成」という民意を示すようにアプローチしたり,沖縄県民の理解を得られるように「対話」する姿勢をみせなかったのだろうか。もっと投票率を上げるために広報したりなぜしなかったのか。「お金の無駄だった」と言っている人もいるが,投票率が上がらなかった理由は,反対派だけのせいではなく,むしろ賛成派の方に関係があるのではないかと思っている。それでいて,あとから基準をずらし「反対に投じなかった6割以上の民意」やら「50%程度の投票率で民意が反映されているのか」やら言うのは,ちょっと卑怯だなと思ってしまった。

今後は最初から投票結果の解釈に関する「明確な」基準を決めておかなければいけなくなるのかもしれない。

勧善懲悪と「公正世界仮説」

(以前出したブログの焼き直しです)

abematimes.com

www.huffingtonpost.jp

どちらも世間を揺るがせた大ニュースである。SNSからメディアまで様々な媒体で広く取り上げられ、大規模なバッシングが起こった。

それぞれの記事から気になった部分を一部引用してみたい。

小川彩佳アナウンサーは「もちろん客観的な事実に基づいて報じる心がけをしていたつもりだが、最初にタックルをした選手が会見を開いた時の印象が鮮烈だったし、遅れるようにして開かれた内田前監督と井上前コーチの会見の見え方、語られた言葉が多くの対比を感じさせるようなものであったために、そこに引っ張られてしまっていた部分があったかもしれない。背景には複雑なものがあったかもしれないが、シンプルな勧善懲悪の構図で報じてしまっていた部分があったのではないか、ということについは個人的に否定できない。

「元監督の指示はなかった」日大アメフト部の悪質タックル事件で、警視庁が異なる判断 世論を煽ったメディアの責任も | AbemaTIMES

「ネットには、謝罪するかしないかということ自体が一人歩きする悪いところがあります。『謝ったら終了』みたいな言い方もある。その反対には『謝らせたら勝ち』という感覚があるんですね。でも、謝罪するかしないかだけを捉えて話が進んでいくのは、重要なことではありません。そうではなく、なぜそれがダメなのかを丁寧に考える必要がある」

BTS問題で専門家が指摘 「ネットには謝罪するか・しないかだけが一人歩きする悪い傾向がある」 | ハフポスト

大規模なバッシングが起こる事件では、大抵の場合「悪」が生み出され、十分な検討もされないままで、ひたすらに責めるという傾向が強い。

もちろんそこで標的となっている「悪」にも非があるのは否めないが、単純な勧善懲悪の構図を作ることは、複雑な背景をうやむやにしてしまうリスクが高く、十分な教訓帰納を果たすことができないため、あまり望ましくないように感じる。

そもそも、なぜ人は「勧善懲悪」に走るのか。それを「公正世界仮説(just-world hypothesis)」の観点から少し考えてみた。

目次

勧善懲悪とは

善事を勧め、悪事を懲らすこと。特に、小説・芝居などで、善玉が最後には栄え、悪玉は滅びるという筋書きによって示される、道徳的な見解にいう。勧懲。

出典:デジタル大辞泉小学館

簡単に言えばアンパンマンの世界である。正義の味方(善玉)であるアンパンマンが、悪玉であるバイキンマンをやっつける。「最後に必ず正義(善)は勝つ。」という筋書き、これが勧善懲悪である。

これが現実世界にもあるだろうと考えるのが次に紹介する「公正世界仮説」である。

公正世界仮説とは

Wikipediaにはこのように書かれている。

公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、この世界は人間の行いに対して公正な結果が返ってくる公正世界(just-world)である、と考える認知バイアス、もしくは仮説である。

公正世界仮説 - Wikipedia

簡単に言えば「自業自得」「因果応報」の世界である。悪いことをしたら罰を受け、良いことをしたらいいことが待っている。誰もが持っている信念だろう。これの何が問題なのか。これまでの研究の多くで指摘されているのは「被害者(犠牲者)非難」の問題である。ここでは、性暴力を例に少しだけこの問題を指摘しておきたい。

公正世界仮説からみる痴漢被害者への非難

痴漢被害が問題になる時、被害者側の落ち度を責められることがある。「渋谷ハロウィン」などが好例だろう。(→渋谷ハロウィン痴漢被害者は自己責任なのか | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

痴漢の被害にあう(悪いことをされる)人は、公正世界仮説の観点から考えると、何か悪いことをしていなければならなくなる。ここで例えば「痴漢されるような服を着ていたのが悪い」とすることで、公正世界的な信念を守ることができる。痴漢被害者を責める論理は、このような発想から生まれる「自己責任」論の一種だろう。

少し横道にそれるが、痴漢を引き起こす大きな原因は性欲だけではないと考えられている。以下で紹介する記事ではそれぞれ「ストレス」「支配欲求」が指摘されている。痴漢も「性欲」のみで語れる単純な問題ではないことがお分かりいただけるかと思う。

◆参考

全男性が持っている「痴漢トリガー」とは何か | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

性暴力を「ささいなこと」にする レイプ・カルチャーとは何か

「悪いこと」を決める

被害者非難の問題は「悪いことをされるということは、(被害者が)悪いことをしているに違いない」という考えに基づくものだ。対して「公正世界仮説」の元のかたちを考えれば「悪いことをしたら罰が与えられるべきだ」となり、至極ごもっともなように思われる。しかしここでも大きな問題が生じる。誰が「悪いこと」かを決めるのかである。日大タックル問題にせよ、BTS問題にせよ、情報量には限りがあり、表面に見えてきた「明らかに悪いこと」にばかり目を向けて「悪者」が作られたとは言えないだろうか。ここを見落としてはならない。

例えばタックル問題では、実際にタックルを行った20歳の青年へのバッシングは少なかったと思う。これが、もし「監督による指示」という文脈がなければと考えるだけで恐ろしい。

ここは本筋ではないため深くは書かないが「悪」は公認されてはじめて「悪」になるということを忘れてはならない。

公正世界仮説の功罪

前節で「悪」を公認することの話を書いた。これを踏まえると公正世界仮説に新たな問題が見えてくる。何かが起こった時に明らかな「悪」が決まらないと公正世界信念を守れないということである。言い換えれば「世界は公正であるから何かしらの問題が起こったら必ず悪がいる」これも公正世界信念から導き出せる考え方だろう。もし真実が非常に複雑であり、明確な悪と断定することが難しいとしたら...公正世界信念は保てない。

このような考えに立てば、大きな事件が起こった時に「悪」を断定的に決めることとその「悪」に対する過度なバッシングに一つの説明をつけられると思う。悪を作りあげ、罪を糾弾する(罰を与える)ことで公正世界は守られる。たとえ真実を覆い隠してでも。

さいごに

悪を決めるときに何が最も重視されるのか。これは私見だが「感情」ではないかと思う。大きくバッシングを集めるニュースは感情的に駆り立てられるものが多いように思う。このような事件ほど冷静な検証がなされず犯人探しで終わってしまうことが多いように感じている。ここはもう少し検証を進めていきたい。

本稿では「勧善懲悪」の背後にある公正世界仮説について書いてみた。

何か大きな事件が起こった時に「公正世界信念にとらわれていないか」「感情的に見すぎていないか」ということを意識しておくことが重要だろう。

公正世界信念を守ることは大切かもしれないがそれだけでは再び同じことが繰り返されてしまうリスクがある。教訓を得ていくためには、単なる勧善懲悪に終わらず深く検証していく姿勢が求められるのだろう。

友だち幻想(読書メモ)②

読んだ本

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

第4章

「ルール関係」と「フィーリング共有関係」

・ルール関係:他者と共存していくときに,お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係
・フィーリング共有関係:フィーリングを一緒にして,同じようなノリで同じように頑張る関係
・「ルール関係」と「フィーリング共有関係」を区別して考え,使い分けができるようになること。これが,「大人になる」ということにとっての,一つの大切な課題

 

ルールをめぐって

・なるべく多くの人が,最大限の自由を得られる目的で設定されるのがルール
・自由はルールがないところでは成立しない
・“人を殺さない,人から盗まない” というルールは,“人に殺されない,人から盗まれない” ことを保障するために必要なもの(→自分の身の安全を守るために,他者の身の安全も守る)
・ルールを決めるときは,どうしてもこれだけは必要というものに絞り込むこと,「ルールのミニマム性」というものを絶えず意識することが重要

 

「並存性」

・全員が気の合う仲間どうしであるということは,現実的に不可能
・「親しさか,敵対か」の二者択一ではなく,態度保留という真ん中の道を選ぶ

第5章

教育をめぐる「幻想」

・「生徒の記憶に残るようなりっぱな先生をめざすことはない」
→生徒の記憶に残ることを求めすぎると,過剰な精神的関与や自分の信念の押し付けに走ってしまう恐れがある
→生徒の意識に一生消えないような嫌な記憶を残すような先生にだけはならないことの方が,よっぽど本質的で大切なこと

・先生は,基本的には自分がわかってもらえなくてもいいくらいの覚悟が必要→生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入するよりも,自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できているようにする

・先生は,自分が帯びてしまう影響力の大きさと自分の影響力の責任の限界を,同時に見据えるクールな意識を持つことが求められている

第6章

「定位家族」と「生殖家族」

・定位家族:人間としての「方向づけ」がなされる家族。自分が生まれ落とされた家族
・生殖家族:新しく結婚して,そして子どもを作っていく家族

・親子は,他者性ゼロからスタートして,やがて少しずつ他者性をお互いに認めるような方向に行かざるを得ない。
・親の子に対する「包摂志向」(親が子どもを包み込みたいという心理)と,子の親に対する「自立志向」(親から自立しようという心理)というもののぶつかり合いが,思春期から青年期にかけて起こる(→反抗期)

 

大人になるために

・大人になるとは...「経済的自立」「精神的自立」(=「自分の欲求のコントロール」+「自分の行いに対する責任の意識」)「人間関係の引き受け方の成熟度」
・大人になるために必要なこと...「気の合わない人間とも並存しなければならない」「君にはこういう限界がある」
→「オレ様化する子どもたち」(優れた人間の足を引っ張ろうとする)
→人生の「苦味」を味わうことを通して味わう「うま味」というものを経験できるようになることこそが,大人になるということ

第7章

・ある程度のルール性をふまえた上での,あるいは先生と生徒ということを意識した上での親密性の作り方が,いまの若い人たちはとても苦手

・人との関係を作っていきたい,つながりたいという積極的な思いが一方であり,でもやっぱり傷つくのはいやだといった消極的な恐れ感情もある

・親友にしても,恋人にしても,まるごとすべて受け入れてくれてるわけではないんだけれども,自分のことをしっかり理解しようとしてくれている人と出会うーーそういうレベルで,私たちは他者を求め,しっかりと向き合って関係を深めていけることが,現実世界で〈生のあじわい〉を深めていくためには必要 

 第8章

「コミュニケーション阻害語」

①「ムカつく」「うざい」:異質なものと折り合おうとする意欲を即座に遮断してしまう言葉,攻撃の言葉,根拠もなく感情のままに言える
→主観的な心情を簡単に発露できてしまうほど,社会のルール性がゆるくなってしまった

②「ていうか」:うわべだけ会話をつなげていくマジック・ワード

「チョー」「カワイイ」「ヤバい」:物事に対する繊細で微妙な感受能力が奪われてしまう危険性

④「キャラがかぶる」「KY」:あまりに周りに合わせようとする振る舞い方は,人とのつながりのなかで自分自身を疲れ果てさせてしまう危険

 

読書は「対話」

・本を読むことの本質は,筆者との「対話」

・①今ここにいない人と対話して,情緒の深度を深めていける。②くり返し読み直したりすることによって自分が納得するまで時間をかけ理解を深めることができる。③いろいろな性格の人と比較的楽に対話することができる。少しずつ自分の感じ方や考え方を作り替えていくことができる。

 

本当の「楽しさ」

ラクして得られる楽しさは,タカが知れていて,むしろ苦しいことを通して初めて得られる楽しさのほうが大きいことがよくある

・他者への恐れの感覚や自分を表現することの恐れを多少乗り越えて,少々苦労して人とゴツゴツぶつかりあいながらも理解を深めていくことによって,「この人と付き合えて本当によかったな」という思いを込めて,人とつながることができるようになると思う

 

恋人を欲しいと思わない青年について

これまでの恋愛心理学の研究では「恋人を欲しいと思うのは当然」という認識のもとで,実際の恋人に対する調査が中心に行われてきた。しかし,現代社会においては,恋愛願望が高くない(持たない)青年というのも一定の割合で存在することが指摘されている。たとえば,髙坂(2013)は,全国の大学生1530名に対して質問紙調査を実施しているが,307名(20.1%)が恋愛不要群であることが指摘されている。実を言ってしまえば,私自身も「恋人を欲しいと思わない青年」の一人である。

早稲田大学で「恋愛学」という講義を開講している国際政治学者の森川(2015)によれば,現代の若者はコミュニケーション能力が低いため,恋愛したくても恋人ができず,そのようななかで,恋愛の楽しさを認めてしまうと,恋愛ができない自分がみじめになるため,「恋愛は面倒くさい」などいう言い訳を並べ,恋人を欲しいと思わないことで自己正当化しているという(髙坂, 2018)。私は別に,恋愛ができない自分をみじめに思っているわけでもないし,自己正当化しているつもりもない。かつて恋人がいたこともあるが,今の自分は恋愛をしたいわけではないという状況である。森川(2015)がどのような調査をしてこのような見解を示したのかは分からないが,自分の知り得る(他の知り合いも含めた)「恋人が欲しいと思わない青年」の特徴に合致しているとは言い難く,そもそも恋人がほしくない理由がたった一つで説明できることも理解できない。まぁ,国際政治学者がなぜ「青年の恋愛」を偉そうに語っているのかよくわからないし,しかもそれが合っていないとなれば,学問どうこうの前に非常に不愉快である。

*森川(2015)について書かれているブログがありました。→(恋愛しない若者たち<識者はどう見る?> : わたしが思うこと...あれこれ..

そういう意味では,本稿で紹介する髙坂康雅先生は,先に紹介した髙坂(2013)や髙坂(2018)をはじめ,恋人を欲しいと思わない青年に対しても非常に丁寧な分析をされている。そこで,本ブログでは,髙坂(2013)をもとに,恋人を欲しいと思わない青年がなぜそう思うかについて述べていきたい。

今回の論文

髙坂康雅. (2013). 青年期における “恋人を欲しいと思わない” 理由と自我発達との関連. 発達心理学研究, 24(3), 284-294.

自分自身のこと

学術的でない体験談から述べていく。なぜ,私が恋人を欲しいと思わないか。理由は実際のところ「なんとなく」なのだが,そう言ってしまうと埒が明かないので,自分なりに考えてみると,いくつかのポイントに集約される。

一点目は,昔の恋人への意識だろうか。(相手がいまどう思っているのかは知らないが)自分としては感謝の思いも大きいし,そんなに悪い関係性ではなかったと思っている。喧嘩もしたが。楽しかった思い出もある。そんなことがあってか,どこか次の恋愛に向かおうという気持ちが弱いのかもしれない。

二点目は,これが一番大きい気がするのだが,恋人との時間を過ごす余裕がないという点である。デートする時間があるくらいなら論文を読みたいし,本を読みたいし,自分の時間を過ごしたいという思いが強い。さらに言えば,恋人と過ごせるような金銭的余裕もないと言えるかもしれない。その時間があればバイトに充てないと十分な生活はできないような状況である。

三点目は,人間関係(全般)にエネルギーを注ぎたくないという気持ちである。高校時代,彼女がいた頃は連絡も多くとり合っていた。裏を返せばその分,彼女との時間を大事にしていただけでなく,自分のエネルギーも彼女のために使っていた。他の友だちとも密に連絡を取り合っており,人間関係にたくさんのエネルギーを注いでいた。しかし,現在は一人暮らしということもあり,エネルギーについてもある程度節約して生きていかなければ厳しいという思いがある。そうなってくると,人間関係において余計なエネルギーを使いたくないので,人間関係を全般的に希薄化させる方向に意識が向いているような気がする。無論,恋人に対してもエネルギーを使いたくないので,恋人を作ろうという方向には気持ちが向かないのである。

髙坂(2013)の見解

髙坂(2013)によれば,恋人を欲しいと思わない理由は大きく6つに分類できるという。

1つ目が「恋愛による負担の回避(負担回避)」であり,恋人がいることによって生じる,精神的,時間的,経済的負担を回避したいという心性である。

2つ目が「恋愛に対する自信のなさ(自信なし)」であり,異性に対する魅力や異性との付き合い方に関する自信が持てていないというものである。これは,森川(2015)の指摘にも当てはまるだろう。

3つ目が「充実した現実生活(充実生活)」である。やりたいこと,やらなければならないことや友人との交遊などで充実した日々を送っているものである。

4つ目が「恋愛の意義の分からなさ(意義不明)」である。これは,恋愛をする意味や価値を見いだせない心性である。

5つ目が「過去の恋愛の引きずり(ひきずり)」であり,これは以前の恋愛を忘れられず,次の恋愛に向かう気持ちになれない心性である。

6つ目が「楽観的恋愛予期(楽観予期)」であり,恋人は自然な流れで,そのうちできると思っている心性である。

そして,これらの理由項目から5つのクラスターを得ている。第1クラスターが「負担回避」「意義不明」が最高で,「自信なし」「充実生活」なども高い「恋愛拒否群」,第2クラスターが「自信なし」が最高の,「自信なし群」,第3クラスターが「充実生活」「楽観予期」得点が高めな「楽観予期群」,第4クラスターが「ひきずり」得点が最高の「ひきずり群」,そして第5クラスターが,特別な理由の見いだせない「理由なし群」であった。

尚,髙坂(2018)では,これらの項目を2次元4類型にまとめ直して「積極的回避型」「楽観予期型」「ひきずり型」「自信なし型」と命名している。詳しくは,髙坂(2018)を参照してほしい(髙坂康雅. (2018). 青年期・成人期前期における恋人を欲しいと思わない者のコミュニケーションに対する自信と同性友人関係. 青年心理学研究, 29(2), 107-121.

おわりに

ここまでの議論を振り返れば,自分がおおよそ何群なのかということも分かるような気がする。まぁそんなことはどうだっていい。私がこのブログを書いた目的は非常にシンプルである。「恋人を欲しくない」人がいたら,そのことにもっと自信を持ってほしいということである。森川(2015)が指摘していたような自己正当化という目的だけではない。そんなことを,この髙坂(2013)や髙坂(2018)は示唆している。恋愛をすることだって素晴らしいことだが,恋愛をしないことだって認められていいはずだ。「大人」には分からないのかもしれないが,恋人がほしいと思わない私たちにだってちゃんとした理由がある。それを真っ向から否定しないでほしい。ネガティブに捉えすぎないでほしい。「恋人を欲しいと思わない青年」の一人として強く訴えたい。「自己正当化」というような分かった口を叩くな。自分と違うからって安易にネガティブに捉えたり「おかしい」とか言うな。「少子化」「晩婚化」対策をしたいなら,私たちに不毛なレッテル貼りをする前に,結婚しやすく子どもが生みやすい環境くらい整えろ。恋人がほしくない人を責めるくらいなら,恋人がほしくてもできない人の支援を考えろ。

以上。

友だち幻想(読書メモ)①

読んだ本

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

第1章

本書のテーマ

現代社会において基本的に人間は経済的条件と身体的条件がそろえば,一人で生きていくことも不可能ではない。しかし,大丈夫,一人で生きていると思い込んでいても,人はどこかで必ず他の人々とのつながりを求めがちになるだろう

・ムラ的な伝統的作法では,家庭や学校や職場において,さまざまに多様で異質な生活形態や価値観をもった人びとが隣り合って暮らしている「いまの時代」にフィットしない面が,いろいろ出てきてしまっている

・共同体的な凝集された親しさという関係から離れて,もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり,気の合わない人とでも一緒にいる作法というものをきちんと考えたほうがよい

第2章

二種類の「つながり」

①目的が「つながりの外」にある場合(人とつながる,つまり人間関係を作ることによって,自分にとっての利得や利益といったものを得ようとする場合)
②人とつながることそのものが目的であるような場合→「交流」

 

幸福のモメント

①自己充実(自己実現):自分が能力を最大限発揮する場を得て,やりたいことができる
②他者との交流:(i)「交流」そのものの歓び,(ii) 他者からの「承認」(相互承認)

 

「他者」について

・「他者」とは自分以外のすべての人間
・二種類の他者:(i)「見知らぬ他者」(≒他人),(ii)「身近な他者」
・どんなに気の合う,信頼できる,心を許せる人間でも,やはり自分とは違う価値観や感じ方を持っている(「異質性」を持った他者である)

 

他者の二重性

①「脅威の源泉」としての他者
②「生のあじわい」(エロスの源泉)としての他者
→人は,他者のもつこの二重性に,常に振り回されるもの

第3章

スケープゴート

・人々の憎悪や不安,猜疑心などを,一つの対象(個人や集団)に転嫁して,矛先をそちらにそらせてしまうこと
・第三者を排除することによって,その場の「あなたと私の親しさを確認しあう」
→今度はいつ自分が排除されるか分からない(不安の増幅)+情報共有に対する「不安」(緊張した状態で一緒にいる)
→ますます固まる

 

同調圧力

本当は幸せになるための「友だち」「親しさ」のはずなのに,その存在が逆に自分を息苦しくしたり,相手も息苦しくなっていたりするような,妙な関係が生まれてしまうことがある

 

ネオ共同性(現代における「新たな共同性」への圧力)

・ムラ的(伝統的)共同性の根拠は「生命維持」の相互性
・ネオ共同性の根拠は「不安」の相互性

 

社会的性格(リースマン)

・伝統指向型(自分の主体的な判断や良心ではなく,外面的権威や恥の意識にしたがって行動の基準を決める)→ムラ的共同性
・内部指向型(自分の内面に「心の羅針盤」を持ってその基準に照らして自分の行動をコントロールする)
・他人指向型(自分の行動の基準を他人=他者との同調性に求める)→ネオ共同性

 

二重の共同性

・生活の基盤をつくる人びとの〈つながり〉が,直接的に目に見える人たちへの「直接的依存関係」から,貨幣と物を媒介にして目に見えない多くの人たちへの「間接的依存関係」へと変質した(「同質的共同性」から「抽象的共同性」への転換?)
・人びとは一方で個性や自由を獲得し,人それぞれの能力や欲望の可能性を追求することが許されているはずなのに,もう片方でみんな同じなければならないという同調圧力の下に置かれている

 

あえて「離れる」

・自分がルサンチマンの感情(「恨み,反感,嫉妬」といった,いわば人間誰もが抱きうる「負の感情」)に囚われがちなときは「自分は自分,人は人だ」という,ちょっと突き放したようなものの見方をしたほうがいい
・お互いにうまくいく関係というのは,その距離の感覚がお互いどうし一致していて,ちょうどいい関係になっている→適切な距離は人によって違う

 

対立を乗り越える心の実践(読書メモ)③

読んだ本

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

 

第5章

特別討論〈相模原事件〉の後のこの国でーー有事モード下の差別と偏見

はじめてこの本を読んだのが,昨年の春だったが,一年という時が経って多くのことを学んだ今,この章の見え方がかなり変わった。これからも繰り返し読まなければいけないと感じる。今,私にできる限りの切り口で本章を読み解きたい。

語らないもの

・事件そのものにも「まさかこんなことが」と思ったわけですが,その後の議論が,措置入院などこの国の精神医療のあり方に終始していることにとても違和感がある。なんでそれだけなのか,そうではない,「優生思想」の問題をはじめ,さまざまな差別をめぐる問題があるのだと,言葉を発したいのだけれど,一つの切り口で語ろうとすればするほど,何かがこぼれていく。それほどにこの事件は多くの問題を根本的に突きつけたと思います。[岡原]

・この事件が起きるずいぶん前から,日本だけではなく,社会の中に「優生思想」と値を共有する思考が広まってきている。日本について言えば,とりわけ東日本大震災以降,そうした思考を表に出すことを抑制してきた歯止めが外れてしまったのではないか,というような感覚を持ってきました。[星加]

・今の社会の中では,加害者が抱いていたとされるロジックが成立し得る,ということを了解してしまう自分がいる。そんな感覚があるのです。[星加]

 

「他者」であるーー排除の感覚

・この事件が社会の周縁部,自分とは関わりのないところで起こったという感覚を,たぶん多くの人が持っている。→「重度重複障害の他者化」[星加]

・この事件の加害者のように,何か特異なことを起こす人たちは自分たちとは違う,精神的な障害者なのだとしてそれを矯正しようとする感覚が,広く社会にあるのは事実だと思います。(中略)批判する側の論理にも,同じような事件を起こし得る共通の何かがあるように感じます。[栗田]

・「危険な思想を持っている奴だ」「危ない奴だ」ということで,周りともうまくやれない植松聖がいて,それを誰もが避けてしまった。そのあげくにあの事件があったとすれば,その排除の構造を問題にしないかぎり,同じようなことはまた起こるのではないかと思うのです。[栗田]

・障害者差別の研究をしている自分が,しかし,障害者という括りを別にすれば,そうした排除の構造の中で生きている自分に向き合いきれていない。[栗田]

 

語らないもの

・これまで自分が積み重ねてきたことと,起こってしまった事態と,それについて無理にでも発言する自分が,全身でつながっていないということがあからさまに感じられてしまった。[岡原]

・今回被害に遭われた重度知的障害の人々が,いかに遠い存在であるか。(中略)実際これだけ圧倒的に,自分たちとは違う存在として認識されている事実をあからさまに示されてしまうと,やはりショックを感じてしまった。[星加]

 

自分の問題として「闘う」

・あの事件を語るということは,どこかで,植松容疑者に重なる自分,加害者と地続きの自分を考えないといけない。私自身が,どこか外側でこの事件を見ているのにも,そうした勇気のなさがあるのかもしれない[栗田]

・今の社会は,健常者同士の間でも,「空気が読めない奴」なんて言葉で,コミュニケーションがとれないということに過剰なまでの排除が行われている。僕ら自身がそうした社会の中で生きている以上,植物状態の人々も含めて「コミュニケーションしにくい人々」とどう関わるのか,もう一度強く考え直す必要があるでしょう[岡原]

・慈悲的なというか,温かい言葉で覆い隠しながら,実際にはどんどん他者を排除していく社会があって,その中に,一生を病院や施設で過ごす人がいることを私たちは知らないで,議論の場さえありません。[栗田]

・差別とか偏見というのが,特別なことではなくて,日常的に人が摩擦を起こしたりすることの延長にあると考えられれば,身近な問題として議論することができると思うのですが,社会があまりにも縦割りになりすぎて,議論できる場自体が狭められ,そんな中で何か規範的でないことを言えば強烈に批判されるという息苦しさはなんとかしなければと思うのです。[栗田]

 

「本音」を評価する社会

・これまでの人種教育がある種の建前というか,ポリティカルコレクトネスを,我々が生きていく上での技法として定着させつつも,一方で,個々人の中にある感情を抑圧してきたという構造はある。[星加]

・向き合う,つまり本音をあらわにすることで,本音の部分に承認を与えてしまいはしないか,それが差別や偏見を再生産してしまうのではないか[星加]

・今の社会は,少しくらい偽悪的になっても本音を言うことへの評価が,明らかに高くなっている。それがどうしようもないような発言であっても,本音の感情で言っているなら許されてしまうという雰囲気が,明らかに強くなっています。[岡原]

 

有事と「優生思想」

社会的な危機に直面する中で,極限的な状況における生の選別や優先順位づけというものを,半ば当然のものとして受け入れるようになってきたのではないか。典型的なのは,いわゆるトリアージというものですね。(中略)しかし,原発事故のように危機が何十年にわたるとされる中で,その危機の感覚自体が極限的な短い時間に止まらない,日常のものになってきた。そうなる中で,極限における生命の選別という思想も日常化してきたのではないか→「思考全体が『有事モード』になっている」[星加]

 

アカデミズムが抱える課題

人間の価値とは何かといった根本的な問題に対して,学者たちが正面から議論するのを良しとしない,自分の専門は大事にするけど,それ以外のことには無関心,あるいは口を挟もうとしない。(中略)それまでの既存の価値観や権威を相対化し,先の時代の理論や方法を批判し,その結果,学者だけではなくて,医師や弁護士といった専門家全体の権威は低減した。(中略)そうした中で,専門家,知識人という人たちが,大きな問いを立ててものを考える,発言するという気概を持ちにくくした。時に気概を持って発言する人がいると,「上から目線」だと切って捨てられるような時代です。それを恐れてはいけないんだけれども,実際,職業としての学界の中でもアカデミックな公共性を論じることがなくなっている。[岡原]

 

「他者を肌身で感じる」

・何事につけ,肌身の感覚で捉えてみようとする努力がいるのだと思います。それは先ほど言った「本音」とは違う。「本音」とはいうけれども,それが何を根拠に発せられているのか,自分の本音と思っていることも,しょせんは,インターネット上の言説の受け売りかもしれない。そのように捉えて,みずからの信念そのものも疑って,みずからの体験を広げ,他者への関心を広げ,しかもそれを個人的なレベルにとどめない公共的な視野で位置づけ直して考えていく努力が,今の知識人に必要だと思います。[岡原]

・同時にそれは,専門か任せにしないということにも通じますが,知識人だけの事柄ではない。(中略)哲学や人文学の問いでもあるけれども,過程とか教室とか職場とか,あらゆる生活の場で,日々問われている問題だということです。[岡原]

 

対立を乗り越える心の実践(読書メモ)②

読んだ本

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

 

第3章

生の問題として〈対立を乗り越える〉を考える(岡原正幸)

現代社会について

今の社会が何を求めるか,今の社会がどのような方向にあるのかによって,そもそも何が障害になるかも変わるという話ですが,たとえば今,この国の首相が「一億総活躍」などと言っていますが,そこでは活躍しない人たち,活躍しにくい人たち,活躍できない人たち,活躍したくない人たちは全部一億からは排除されるわけです。そうした言説が堂々と言われてしまうような社会です。

 

「対立」とは何か

・社会において何かが対立だと名指されたとき,そこで何が起きているのか,少し距離をとって冷静に考える必要がある。どういうことかと言えば,その対立,あるいはそれを「対立」だと名指すことによって,得をしている人が必ずいるからです。
・自分自身も含めて,私たちはそうした利害や権力の関係から全く独立しては生きられないことを忘れてはならない

 

差別・偏見をめぐる「公私」の問題

対立を乗り越えるという点で社会にとって何が必要かと言えば,公の場面で差別的に振る舞い,障害者や少数者を抑圧するといったことが起きないことです。(中略)しかし,公の世界と私的な世界という区分けは,(中略)現実には,とても微妙な問題です。

 

「ラベリング」の課題に気づく

・私たちは常にカテゴリーで自分も相手も名指そうとします。しかしカテゴリーで名指したときに,取りこぼすものは何なのか,考えていかないといけません
・個別性を切り捨てて単一のラベルを貼って物事を見てしまうと,世界は,起伏のない,とても単調なものになってしまうでしょう

 

問題は「生きにくさ」

・効率こそ大事だと考えるこうした社会の変化に左右されて事が進んでいることを自覚する必要があります。特に,私は感情管理社会と呼んでいるのですが,サービス化された今の社会の中で,私たちはさまざまに自分を律することが求められ,とりわけ感情のコントロールが要求されている。そのレベルは大変に強く,それが生きにくさとして現れていると思います
・逸脱者を自分でつくっておいて,では包摂しようという,それこそ大変な手間です。そもそも逸脱者を出さなければいいわけです。
・この国は明らかに個別に対応できるようなことも,全て社会的に集団として何とかしようと考える。その意味では,社会主義的というか,管理化が非常に進んだ国です。

第4章

討論

ラベリングをめぐって

・ラベリングする,カテゴリー化することによって,その人たちにどういった支援が必要であるかとの視点を設けることができる(中略)一方で,違う人間であると判断されて排除されていくということも同時に生じる。→差異のジレンマ
・障害者というカテゴリーを使わないようにするというよりは,それを適切な形で使うようにしていく。そのためには,それぞれの場面で相手がどういう文脈で存在しているのかを意識することが大事でしょう。
発達障害と診断されることでホッとした,ポジティブに感じられたという経験
→「怠け者の健常者」というラベルから「頑張っている障害者」へ。
→集合的なアイデンティティの獲得
→「しつけ,教育の失敗,親の人格の問題」といった解釈からの変更

 

差別や偏見の解決

・差別や偏見の問題を,誰かを救うというのではなく,自分の問題として考える
・自分自身の価値を捉え直していくことが,最終的に偏見や差別の対象の人たちにどう接するかという問題をつながっていく→自分が生きやすくするためにはどうすればいいのか考えていく
・社会のありようが変われば,突然,自分自身に差別や偏見の矛先が向かってくる

 

差別や偏見の体験を語る

・まずは差別があるということを自覚して,その差別をしてしまう自分に自己嫌悪や罪悪感を感じることが,是正に向けての動機になっていく
・特定の偏見とか差別というのは,(中略)特定の時代状況とか社会的文脈との関係で生じていることであるはずなのです

 

「助ける」を考える

・(手助けというものがなくなることよりも)他者が必要としている手助けを当たり前に行えるような関係性がメインストリームの社会の中で実現するのが,本当は望ましい
・弱者だから助けるのではなく,手助けを必要としているのだから助ける

 

「対話」を考える

・言葉のやり取りによって,ではどういう配慮なら最低限可能か,その落としどころをお互いに見つけていくプロセスの結果として,配慮の内容が特定されていく
・日本は近年コミュニケーション能力が大事だとさんざん言われているのですけれども,聞く側の能力についてはほとんど議論されていないことが問題だなと思っていて,合理的配慮が義務づけられたということを機に,対話において,相手の言うこと,相手のニーズというものをどう聞き取るか,受け止めるかということを,社会の共通の振る舞いとして普及させていくことができないかと考えています