A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

対立を乗り越える心の実践(読書メモ)①

読んだ本

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

対立を乗り越える心の実践: 障害者差別にどのように向き合うか?

 

各引用部位の見出しはブログ筆者による。

第1章

見えない偏見ー障害者を取り巻く問題に現れる心の働き(栗田季佳)

「障害」というラベリングの問題

・一般に先生方は,「障害の有無ではない,また障害名も関係ない,その子を見ることが大事だ」とよく言われます。もちろんそうした姿勢は私も大事にしたいと思っていますが,実は障害というラベルがあるだけで,無意識のうちに子どもの捉え方は変わってしまうことを知っておく必要があるのです

 

自己肯定的な心性

・障害のある人もない人も,他者に比べて自分をより肯定的に捉える,言い換えれば自分をよりよく見せる眼鏡をかけていると考えられる
・逆に,自分を客観的に捉え,他者からどう見られているのか冷静に判断できる人は,鬱傾向が高い

 

差別や偏見につながる「心」

・死を意識しているときほど障害のある人に対して警戒的になる,障害者を避ける
・平均からの逸脱者に対して,あの人変な人だよねと言ったり,それが学校や会社といった組織の中ですと,指導を加える対象として認識したりもします(中略)障害のある人のような少数の人たちを異質であると捉えるまなざしにもつながります

 

顕在化する差別・偏見

・環境が許せば,押さえていたそうした感情[偏見や差別心]が,堰を切ったようにあふれ出ることがあります。
・(一方で)差別も偏見も固定的なものではなく,私たちはそれに対応する柔軟性も持っていると思って良いのです。

 

差別や偏見を乗り越えるには

・障害のある人と身近な関係性を作る(接触体験)こと
→「身近な人に対して優しくありたい」という心性の利用
→「障害のある」Aさんというラベルの解放

・障害者がいるのが当たり前の社会を作る
→「平均」評価を変える

・障害についての「正確な知識や理解」も大切だが,自分という生き物がどういう心の特徴を持っているのかという人間性の理解も必要

第2章

バリアフリーという挑戦ー「社会を変える」ことは可能か(星加良司)

「四つのタイプのバリア」

一つは物理的障壁で,たとえば道路や廊下に段差があって自由に動けない等のことです。二つ目は制度的な障壁で,障害があることによってたとえば運転免許や医師免許といったものの取得に制約がかけられている,といったことです。それから文化情報面での障壁があって,たとえば本書は日本語の文字で書かれていますが,仮に本書の内容に関心のある方に日本語を第一言語としない方や視覚障害の方がおられるとすると,日本語の文字中心の出版文化というものは,情報の入手,情報の理解に多大な困難を伴う環境となっていると言えるわけです。そして意識上の障壁。これは道徳教育や人権教育などの分野でよく使われる言葉ですが,まさしく,偏見とか差別とか無知等々のことです

 

価値づけとバリアフリー

・「価値のある社会的活動への参加にあたって,妨げとなる外的・社会的要因を除去しようとする営みと思想,またはそうした要因が除去された状態」
・社会的な価値づけのプロセスあるいはメカニズム,あるいはそうした価値づけを改変する可能性,時には別の形の価値づけを模索して行く営みを含めて,バリアフリーというものを捉えていく

 

障害学の観点

・実は障害学とは,そのdisabilityについての理解の仕方を大幅に転換することを一つの出発点としています。すなわち,従来のdisability感が,そうした能力を持たない個人の問題,あるいは個人の身体的な特徴に由来する形で無能力という現象が起こっていると考えられてきたのに対して,実は無能力という状態は社会的な構築物ーー社会によってつくられたものーーであると考える認識の転換を図ったのです→【障害の社会モデル】

 

障害学の二つの流れ

・一つは,障害者から社会的,経済的,法的,心理的,さまざまなレベルの力を奪うようなイデオロギーや制度が存在していることを問題視し,それを分析,記述することを通じて,無力化する力(ディスエイブリズム)をなくしていくための方途を探るというアプローチ
・「正常性」とか「健常性」といった規範を絶対視して,それに近づくための実践を人びとに強制するような力(エイブリズム)への批判

 

問題の本質

・障害者に対してマイナスの効果が生まれるのは副次的な作用であって,社会が,今の形で成り立っていくために,ディスエイブリズムやエイブリズムと表現される力が必要となっているという側面があるのでは
・マジョリティにとって有利な社会が生み出されやすいという傾向が一般的にある(→「最大多数の最大幸福」など)
・個人が社会に対してより多くの貢献をするような動機づけを与えることが,社会にとって合理的→システムにとって都合のよい機能を十分に果たせない身体を持っている人は,どうしても社会の周縁部に置かれる,あるいは不利な社会的位置を余儀なくされる
存在論的な安定のために,他者としての障害者という存在を生み出し続けている
・今日取り組むべきバリアフリーをめぐる課題においては,さまざまな障碍者の権利保障のための法整備,あるいはそうした施策の前提となっている,disabilityが社会的構築物であり,だからそれは社会的に解決すべき課題なのだという考え方を広く浸透させることはもちろん重要ですが,(中略)その背後で進行している,マイノリティを周縁化し無力化していく力を強めるような社会的な傾向をブロックすることができるのかというテーマに取り組まなければいけないだろうと思うのです

 

「当事者性」をもって考える

・自分が生きている社会のありようの中で,どのようなバリアが生まれているのか。あるいは,自分自身がバリアに直面した経験がないのだとすれば,なぜないのか,自分はどういう位置にいることによってバリアを経験せずにすんでいるのかということについて考える作業

・知的探求とは,そもそも非常に複雑な事柄をさまざまな角度で見ることを必要とします。あるいはさまざまな知見を組み合わせて,問題の解を見つけていかなければならない。(以下略)

 

「理科を学ぶ目的」とは(雑文)

理科教育関連の集中講義で、毎回と言っていいほど扱われるテーマがある。

「理科を学ぶ目的はなんですかと子どもから聞かれたらどう答えますか?」

という問いである。繰り返し言われるということは、これが理科教育において、はっきりとした答えの出ていない“永遠の課題”であり、なおかつ教師ならば知らないと困るものなのかもしれない。

だが、そうした意識調査の結果が講義の中で取り扱われたことはない。さらっとGoogle Scholar で検索してもほとんど見つからなかった。なんで気になるのに調査しないのか。すごく疑問である。教員相手と生徒相手に小中高大など様々な学年段階に対して意識調査をしたら、面白いと思うんだが。まぁ、資料論文くらいにしかならないか...それでも、理科教育に関わる講義ならどの先生も扱うようなトピックならば、調べていないことの方が不自然である。まぁ,きっと何か事情があるのだろう。

それはさておき、理科を学ぶ目的とは何かということで、しばしば教科教育全般的な目的として指摘されるのが「実質陶冶」と「形式陶冶」のお話である。

実質陶冶(じっしつとうや)
知識・技能などを、実際の生活や生産に即して授け、精神の実質的側面を豊かにはぐくもうとする教育。(デジタル大辞泉

実質陶冶(ジッシツトウヤ)とは - コトバンク

 

形式陶冶(けいしきとうや)
知識・技能を習得する能力そのものをはぐくもうとする教育。観察・注意・記憶・想像・分析などの各能力を高めることに重点を置く。 (デジタル大辞泉

形式陶冶(けいしきとうや)とは - コトバンク 

簡単に言えば「実質陶冶」は,教科関連の「知識・技能」的な側面にあたり,「形式陶冶」は,教科を横断する「能力・態度」的な側面にあたるといえるだろう。ところで,最新の学習指導要領(平成29年改訂版)では,理科で育成する資質・能力として,[1]知識・技能,[2]思考力・判断力・表現力等,[3]学びに向かう力・人間性等が挙げられているが,まさに「実質陶冶」的な側面と「形式陶冶」的な側面が出ている。「実質陶冶」と「形式陶冶」は車の両輪のようなもので,どちらかが欠けても車は走らない。両方をバランスよく行っていく必要があるのだろう。

さて,理科という科目を学ぶことのメリットは何だろうか。実は,こうしたメリットについて整理するにあたって,先ほどの学習指導要領で紹介されていた「理科で育成する資質・能力」は非常に大きな示唆を与える。もっとはっきりと言えば,理科を学ぶ目的はずばり「(理科で育成する」資質・能力を身につけるため」なのである。

ざっくり思いついたものを書いておきたい。分類は勝手にしたので,おかしいところなどもあるかもしれないがご容赦頂きたい。

【1】知識・技能

・自分の身を守るための正しい知識を身につける
・問題を発見する技能の習得
疑似科学にだまされない知識
・季節感の獲得

【2】思考力・判断力・表現力等

・科学的に「考える力」の習得(客観的・実証的・論理的・体系的)
・ものごとの普遍性を発見する能力

【3】学びに向かう力・人間性

・日常生活に対して「疑問」を持つ態度(批判的思考態度)
・新しい概念を導入する態度
・知的探求心の習得

【4】その他

・科学者の養成,理科教員の養成
・受験で使うから

むしろ,理科は割と好きだった自分にとってこれほど難しいトピックはない。逆に,理科が嫌いな人の意見を聞いた方が参考になりそうな気すらしてくる。

まぁ,どうせこれからも考え続けるトピックなのだろうから,今後もこのブログは書き換え続けたいと思う。

対立情報との接触が態度に及ぼす効果

目次

読んだ論文

小林敬一. (2016). 対立する情報との接触が態度に及ぼす効果. 心理学評論, 59(2), 143-161.

「対立」の種類

①「主張」の対立

・各情報の中で特定の問題に対して相反する立場が表明されている

・特定の問題に対して相反する事実的言明が提示されている

②「フレーム」の対立

フレーミングとは

・それによって人びとがある問題を特定の仕方で概念化したり,その問題に関する自身の思考を転換したりする過程

争点フレーミングの対立の例

・「健康診断の新基準は医療費削減につながる」 vs 「健康診断の新基準は病気の潜在的リスクを過小評価している」

③「論証」の対立

(同じ争点・異なる争点かを問わずに)ある争点に関する主張とその根拠(主張を支持する理由や裏づける証拠)が含まれる,論証の形式における対立

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異種混交性研究が示す接触効果

・社会的ネットワークの異種混交性が高い実験参加者ほど,態度変容の程度(提示した論証文の説得効果)も大きい。

・Visser and Mirabile(2004)によると,自分にとって重要な他者の中に,自分と同じ意見の者だけでなく異なる意見を持っている者もいるという認識が問題に対するアンビバレント感情を引き起こしたり態度の確信度を低下させたりすることで,態度が変容しやすくなるという。

・特定の問題を巡って(少なくとも)主張が対立する情報との接触は,情報源が自分の社会的ネットワークを構成する他者であれば,その問題に対する態度を軟化させ,その変容を促進する。

競合的フレーミング研究が示す接触効果

・競合的フレーミング研究の知見をまとめると,取り上げる問題の側面が異なっていても,フレームが対立する情報との接触は,態度の形成・変容に一定の影響を及ぼすといえる。ただし,その影響の方向や強さは主として,競合的フレーミング情報との接触が同時か継次か,対立するフレームの強弱,(継次接触の場合)先に形成される態度の頑健性によって変わる。すなわち,競合的フレーミング情報との接触が同時の場合,対立するフレームの強さが同等であれば,各争点フレーミング情報の効果は相殺されるが,フレームの強さに差があれば,強いフレームに沿った態度が形成される。継次接触の場合,最初に接触した争点フレーミング情報で形成される態度の頑健性が高いと初頭効果が,頑健性が低い(あるいは低下する)と新近効果が現れる。

態度の極化研究が示す接触効果

・受け手が特定の問題に対し肯定的あるいは否定的な態度を有していて,かつ(バイアスがかかった同化研究の知見から)その態度がアクセス可能な場合,論証が対立する情報との接触で少なくとも認知された態度の極化が生じる。

態度の極化

対立情報との接触で既存の態度がより強まる方向に変化する現象

バイアスがかかった同化

対立情報の受け手が自分の事前態度と一致する情報をより肯定的に評価し,一致しない情報をより否定的に評価する傾向

まとめ

・対立情報との接触が態度に及ぼし得る効果は次の 6 つに集約できる。

(a)既存の態度を和らげ態度変容を起こしやすくする(態度の軟化)
(b)各情報の相反する作用を中和し穏健な態度の形成を促す(相殺効果)
(c)強い情報に沿った態度の形成を促す(片面効果)
(d)先に接触する情報に沿った態度の形成を促す(初頭効果)
(e)後に接触する情報に沿って態度を変容する(新近効果)
(f)受け手の認知レベルで既存の態度を強める(認知された態度の極化)

・少なくとも主張が対立する情報との接触は,それが社会的ネットワークに由来する場合,主張の対立(すなわち,社会ネットワーク内にある意見の相違)を焦点化し,態度の軟化をもたらす。
・主張が対立する情報でも,(各主張に根拠を伴う)論証が対立する情報との接触は,社会的ネットワークに由来せず,かつ長期記憶内の既存態度がアクセス可能な状態にあれば,論証の対立(すなわち,既存態度を肯定する論証 対否定する論証)が焦点化される。
・そして,各論証に焦点を合わせた情報の処理(バイアスがかかった同化)を介して認知された態度の極化が生じる。

・一方,公的問題に肯定的あるいは否定的な既存態度がなかったり既存態度のアクセス可能性が低かったりする場合,論証形式の情報かどうかにかかわらず,フレームが対立する情報との接触は,フレームの対立か一部のフレームを焦点化した情報処理を導く。すなわち,競合的フレーミング情報それぞれとの接触に時間的ギャップがなく,かつ対立するフレームの強さに差がない時には,フレームの対立が焦点化され,両フレームの拮抗し相反する作用により相殺効果が生じる。
・同時に接触しても,対立するフレームに強弱の差がある場合,強い方のフレームが焦点化されて後続の情報処理を左右し,片面効果が現れる。競合的フレーミング情報との接触が継次的な時には,最初に接触する争点フレーミング情報が頑健な態度の形成を促しそれが持続すれば,その情報を特徴づけるフレーム(先行フレーム)に沿った初頭効果が生じ,頑健な態度が形成されないか,あるいは形成されてもそれが時間の経過とともに減衰すれば,後に接触するフレーム(後続フレーム)を焦点化した処理で新近効果が生じる。

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差別論(4)心理学からみた差別③

目次

読んだ論文

新井雅, & 庄司一子. (2016). < 研究論文> 共生社会および共生教育の展開における 心理学研究の貢献可能性の検討. 共生教育学研究, 5, 35-71.

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共生とは

共生社会形成促進のための政策研究会(2005)では,共生社会について,
①各人が,しっかりとした自分を持ちながら,帰属意識を持ちうる社会
②各人が,異質で多様な他者を,互いに理解し,認め合い,受け入れる社会
③年齢,障害の有無,性別などの属性だけで排除や別扱いされない社会
④支え,支えられながら,すべての人が様々な形で参加・貢献する社会
⑤多様なつながりと,様々な接触機会が豊富にみられる社会
の5点から概念化している。

岡本(2011)は共生概念について,
・〈社会の中の多様性の尊重〉の上に〈社会の凝集性〉を実現しようとする概念であること
・「あるもの」と「異なるもの」の関係性を対象化し両者を隔てる社会的カテゴリ(社会現象を整序する枠組み)を更新する営みであること
・さらに完成状態としての概念ではなく社会的カテゴリの更新自体が生み出す新たな隔たりや葛藤の可能性をも視野に入れた継続的な営み(プロセス)
となり得るものであると指摘している。

ステレオタイプ・差別・偏見の定義

ステレオタイプ(stereotype)とは,客観的事実とは関係なく過度に一般化され,単純化された考えにより形成される認知とされており(Lippman,1922),たとえば,「障害者は苦労をしている」というような集団に対する固定的な信念や認知を指す(栗田・楠見,2014)。

偏見(prejudice)とは,過度のステレオタイプに基づいた態度で,実際の経験や根拠に基づかずに,ある人々に対して示す否定的な感情とされている(加賀美,2012)。たとえば,「○○人だからずるい」,「障害者は嫌だ,良くない」などのようなネガティブな評価や感情を指して用いられる(栗田・楠見,2014)。

差別(discrimination)とは,特定の集団に対する偏見に裏打ちされた敵意的行動である(中島・安藤・子安・坂野・繁桝・立花・箱田,1999)。当該集団に悪口を言ったり,「障害者を無視する,暴力を振るう」のようなネガティブな行動を指して用いられる(栗田・楠見,2014)。

心理学研究の概観

1.人格心理学的研究

・欲求不満攻撃仮説(Dollard, Doob, Miller, Mowrer, & Sears, 1939)

権威主義的パーソナリティ(Adorno, Frenkel-Brunswik, Levinson, & Sanford, 1950)

・偏見・差別等と関連する社会的な紛争問題においても,紛争解決を妨害する性格特性として,敵意性攻撃性他罰傾向があげられ,反対に紛争解決につながる性格特性として,共感性寛容性協調性などの重要性が指摘されている(Reykowski & Cislak, 2011)。

2.社会動機に関する研究

・社会的支配理論(Pratto, Sidanius, & Levin, 2006)
権威主義的パーソナリティの高い者と社会的支配志向性の高い者とでは,移民に対する態度が異なることを示した研究もあり,前者は受入国の文化に従わず同化しようとしない移民に反感を抱く一方,後者は受入国の文化を進んで受け入れ同化しようとする移民に反感を抱くと指摘されている(Thomsen, Green, & Sidanius, 2008)。
・社会的支配志向性の高い者は,他国からの流入者が自国民と同質化し同等の地位を得ることに強い懸念を持っている可能性がある(池上, 2014b)。

・システム正当化理論(Jost & Hunyady, 2002 ; Jost, Liviatan, van der Toorn, Ledgerwood, Mandisodza, & Nosek, 2010)
・特徴的なのは,その社会システムの中で不利な立場に置かれている者も,同じように動機づけられている点
・自己や所属集団の価値や利益を犠牲にしてでも,人々は社会の正当性を信じようとする傾向にある。階層の下位にいる人たちは現行の社会体制に対して不満や怒りの感情を抱くが,現状を打開するために行動を起こすことは少なく,現状に順応することで自らを納得させたり(自己欺瞞),怒りや不満を鎮静化させて精神の安定につなげている(池上,2014b)。

・システム変革動機(Johnson & Fujita, 2012)
・システム変革動機が強く喚起されるためには,「社会システムの変容可能性を知覚できるかどうか」が特に重要

3.認知心理学的研究

・仮説確証型の情報処理メカニズム
・人間には,ある考えをもつとそれと一致する事象が生じると予期し,その予期に従って新しい情報を探索,解釈,記憶する認知傾向があるため,ステレオタイプは容易に変容しない(上瀬, 2002)

・リバウンド効果(Macrae, Bodenhausen, Milne, & Jetten, 1994)

・分離モデル(Devine, 1989)

4.集団心理学的研究

・社会的アイデンティティ理論(Tajfel, Billig, Bundy, & Flament, 1971;Tajfel & Turner, 1986)

5.低減に向けた研究

・対象となる個人・集団との接触を重視した方法(Allport, 1954;浅井,2012)
・内集団と外集団の区分自体を変容させることで集団間バイアスを低減できるという観点から,様々なカテゴリー化を促す
・拡張接触や仮想接触と呼ばれるアプローチ(Crisp & Turner, 2009;Wright, Aron, McLaughlin-Volpe, & Ropp, 1997)

6.葛藤・紛争に関する研究

社会的葛藤

・個人間,集団間,国家間で生じる様々な葛藤・対立
・その背景にネガティブなステレオタイプ,偏見,差別が影響している場合も少なくない

パーソナリティ

・人間・集団間の安定した関係の構築においては,共感性や寛容性,協調性などといったパーソナリティの重要性が各種の研究から指摘されている

認知

・対立・葛藤場面に直面している当事者はしばしば事態を正確に認識できず,相手の事情や願望を歪んで捉え,解決法を見出したり妥協点を探ることが難しいことが多い(大渕,2015)。

・紛争状態における認知的理解が短絡的で単純な見方に留まるほど,他者への攻撃的行動が選択されやすく,さらに,これらの認知は恐怖や怒りなどの不快感情の影響を受けて悪化し,建設的な情報処理が阻害されてしまう場合もある(Reykowski & Cislak, 2011)。

建設的葛藤解決における「対話」

①相手の立場や要求内容の情報を得る
②交渉の中で提案される事項に対する相手の反応を知り合意の範囲を推測する
③統合的な合意を目指して互いに協力して解決策を練り上げる

解決に向けて

偏見・差別に関連する様々な葛藤・対立の解消には,建設的葛藤解決につなげるコミュニケーション・スキル,建設的葛藤解決を妨害する感情を鎮める感情調節スキル,相手の立場(視点)に立って物事をとらえながら自己利益と他者利益のバランスを取る視点取得,人の感情を自分自身のことのように体験できる共感性,葛藤対象となる相手のことを赦そうという姿勢を示す寛容性などが重要となる(大渕, 2015)。

アイデンティティ紛争とその予防

・社会的紛争とは,対立関係にある者同士の社会的アイデンティティが脅威にさらされていることをも意味することから,「アイデンティティ紛争」とも呼ばれる(Brewer, 2011)。

・二重アイデンティティ(e.g., Dovidio, Gaertner, & Saguy, 2009)の考え方に基づき,個々人が社会的アイデンティティの拠り所として重視する各集団間の存在や差異を肯定的に認めつつ,両集団を包含する上位アイデンティティを形成する

・多元交差社会的アイデンティティ(e.g., Hall & Crisp, 2005;Roccas & Brewer, 2002;)に基づく方法
→自らの社会的アイデンティティの拠り所となる特定の所属集団を大切にしつつも,その区分のみにこだわり過ぎず,様々な社会的カテゴリーの交差構造の中で人々の関係性が成り立っていることを認識することで,葛藤や紛争の元となっている固定的な内集団-外集団関係の変容を促す。

 

考える障害者(読書メモ)

読んだ本

考える障害者 (新潮新書)

考える障害者 (新潮新書)

 

本書は,芸人であるホーキング青山氏が「タブー」「タテマエ」「社会進出」「美談」「乙武氏」「やまゆり園事件」「本音」という7つの章に分けて,自らの“障害観”について語られていく。障害者にもさまざまな人がいて,本書で述べられていることも,必ずしも「障害者(みんな)の意思」ではないとは思われるが,非常に共感させられる指摘もいくつかあった。

障害への理解をめぐって

障害者が健常者に理解されないのはなぜか【p.17~】という点について

・そもそも健常者との接点が少ない
・善意の人が社会との壁になっている
・「とにかく大変だ」「不憫でかわいそうだ」というイメージが先行し過ぎている

という3点を指摘しており,この指摘は同書を最後まで貫く一本の大きな核となっている。こうした指摘を基に,ボランティアをめぐる問題や,いわゆる「感動ポルノ」など,様々な角度から主張を広げている。

また,障害者が「聖人君子」的なイメージになりすぎていることだけでなく,介護に携わる人間も,そのようなイメージで描かれることが多いことに対しても疑問を呈している。これは重要な指摘であろう。相模原障害者施設殺傷事件(本書では「やまゆり園事件」)について考える上で,重要な視点の一つであると感じた。

「障害者は生きていて良いのか」という問いに対して

ホーキング青山は次のように述べている。

・「この人は生きてていいか? 悪いか?」なんて問いを設定すること自体がおかしい。

・言うまでもなく,この世には障害者じゃなくても世間に迷惑かけているヤツなんていっぱいいる。

・会社にだって,給料泥棒と言われる人は珍しくないはずだ。(中略)だけど誰も「そんなヤツだから死んでいい」とも「殺しちゃえ」ともいわない。

・なのになんで障害者だけ,いきなり生き死にのことを他人に言われなきゃならないんだよ! これが私の意見である。【p.142-144】

結論に代えて

あとがきで述べられているように,本書には結論と思しき結論はない。ただ,随所に結論的な指摘はみられたので,そうした指摘を少し拾い集めてみたい。

・障害者の側に立つ人が,権利だけを主張するのではなく健常者側の論理にも理解を示し,また健常者の側も経済原則だけを押し付けるのではなく,障害者の側の気持ちを酌む,といった形での話し合いができれば望ましい。【p.148】 

・(障害者相手だって)「同じ人間」として見て,普通に接すれば良い。それ以上のことはないはずなのである。【p.153】

・障害者の側は,あまり臆することなく,もっと積極的にいろんなことに挑戦してもいいと思う。その過程では否応なしに健常者とも関わらなければならなくなるだろう。そしてここで良好な関係を作っていくことが何より「障害者の社会進出」を推し進めることになるはずだ。【p.172-173】

・だからこそ,もう対立するんじゃなくって社会の一員になるために,健常者もだが,障害者こそ心を開くべきだと思うのだ。【p.185】

大きく分けると2つの軸がある。1つ目が「障害者の社会進出のためには,障害者が積極的に社会に出ていくことが必要」ということ。2つ目が「障害者が権利を主張し続けるというよりも,お互いが相手のことを考え,社会のことを主体的に考えることの方が重要ではないか」ということ。確かに,これまでの障害者運動の歴史などを振り返った時に,そうした運動の持った意義が大きいことは否めないが,現代社会においてもそれが通じるかと言われると難しいものはある。

かつてよりも「ヘイト」的な言論が自由に発信できる空間となった現代社会において,障害者へのヘイトを集める可能性のあるような“古典的な”手法がどれほど有効なのか,私もやや疑問に思う部分がある。無論,一部の障害者の行動が「障害者」という括りでのヘイトを生むこと自体は明らかな誤謬を含んでおり,簡単に納得できるものとは言えないが,かと言って「ヘイトする方が悪い」なんて言ってしまうと,感情だから仕方ないなんて言われて,不毛な議論になってしまうだろう。そもそも「誰かが悪い」なんて構図で語ろうとすることが間違っているのかもしれない。コスト的な話がしきりに語られる現代だからこそ,障害者も「社会」に対するコストの視点を持たねばならないだろうし,健常者もコストだけでなく「障害者」という視点を持たなければならないのだろう。このような形で「障害者」「健常者」と分けることの正当性も疑わしいものはあるのだが,逆にこうして分けて議論することの方が本質的ともいえる。なかなかに難しいトピックである。

ホーキング青山の主張は,一障害者の意見にすぎないのかもしれないが,どこかで感じていた“違和感”が少しだけ本書を読んだことで晴れたような気がする。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)③

読んだ本

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第5章

・障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく,『価値がない』と思う人のほうに,『価値を見いだす能力がない』だけ
・物事を多角的にとらえ,そこに自分なりの価値や意味を見いだしていく能力が低いことの自己告白
→そうした能力の欠如が,日常を貧しく色あせたものにし,うっぷんを晴らす相手を見つけては憎悪をまき散らすような行動につながっている可能性もある【p.206】

・まちの人に,自分たちの存在を知ってもらうこと。そして,人目に付く場所にどんどん出かけ,地域で普通に生活する実践を積み重ねていくこと。それによって,人が変わり,地域が変わり,社会が変わっていく【p.223】

・「福祉が芽生える瞬間」
・お金じゃなくて,人には思わずカラダが動く場面がある。
・仕事だからやるんじゃなくて,カラダが動き,何より心が動く。【p.245-246】

・人と人が支え合うこと。それによって人は変わりうるのだということの不思議さに,人が生きていくことの本質もまた凝縮している【p.249】

人と人が「支え合う」ことの意味とは(雑文・感想)

 3回にわたって,“たった一冊の”新書の内容をブログにまとめた。これには大きな意味があったと思っているし,僕にとってここ最近読んだ本の中でも一番読んでよかったと思わされる作品になった。そもそも読もうとしたきっかけはTBSラジオの「荻上チキ session-22」にて紹介されたからなのであるが,大学で売り出されるのが遅く,気づけば出版から2か月近く経ってから読むことになった。

  さて,本書は「なぜ人と人は支え合うのか」という疑問形のタイトルであり,本文の中で答えが出てくるのかと思いきや,一応の主張はいくつかみられるものの,明確な答えは示されていない。だが,これが裏を返せば筆者の答えでもあるのだろう。ある意味,明確な答えが出なくて当然なのかもしれない。人は他の人を支える生き物なのである。そこに明確な理由は必要ないのかもしれない。心理学で扱われてきた「利他行動」については現在勉強中なので,今後まとめていきたいと思っている。

 最後に。本書で肯定的に描かれた「ボランティア」であるが,東京オリンピックをめぐる「ブラック・ボランティア」を筆頭に,「やりがい搾取」という言葉などにもみられるように,近年はかなり否定的な印象が強まっている。ここに少しだけ私見を加えておきたい。「ボランティア」や「やりがい」という名の下で,搾取が横行してしまうリスクはある。これは,場合によっては障害者支援の文脈でも起こりうる話であるだろう。決して他人事とは思えない。ここでは「視点」がいくつかあることに注意して考えていきたいと思う。

①支援者(ボランティア)の側の認識
②被援助者(ボランティアを集める人)の側の認識
③社会・世論の認識

 まず,①のボランティアを行う者自身の認識の問題である。これについては本書でも指摘されたように「支えることが支えられること」になっているという側面があると考えられる。ブラックボランティアと揶揄されるような東京オリンピックのボランティアでも,経験値になる人もいるだろうし,何らかの形で「支えられる」結果になる可能性は十分にあるだろう。

 次に,②のボランティアを集める側の認識であるが,搾取という批判の背景には「やりがいの押しつけ」とか「出せるお金を出さない」など,不誠実な印象を持たれていることが多いのではないかと考えられる。確かに「やりがい」の名の下で,労働力を搾取することは問題といえるかもしれない。だが,お金が出ていなくても得られるものがあるという点に着目すればどうだろうか。不誠実とは言えなさそうである。しかし,そうした理由で正当化することによって「出せるお金を出さない」としたら問題にも思える。これが最も難しい論点であるだろう。ある意味で「無償で働きたい」人と,「無償で働かせたい」人という利害が一致してしまえば,外野があれこれ言うことの意味とは何なのだろうと考えてしまう。

 最後に,③社会・世論の認識である。これは特に①の認識に影響を与える。実際に働いている人は,自らが働く環境に対して文句を言えなかったり,本当はおかしいのに納得してしまっているケースが考えられる。こうした時に,社会通念に照らし合わせて是正していこうとする取り組みも社会では行われる。いわゆる労働運動(ストライキを含む)ものがこうした側面を有するだろう。

 結局のところ,ボランティアをめぐる問題は非常に複雑であり,ボランティアを一概に否定することも一概に肯定することもできないのである。その上で指摘しておきたいことが2点ある。一つ目は「ボランティアをする人自身がよく考える」ことである。ボランティアに時間を割きたいのか否かを“自ら”決定する,そこに他者からの圧力が介入しないようにする。ボランティアを強制するような行為は批判されてしかるべきだと私も考えている。職業選択の自由のようなもので,ボランティアをするかしないかも最終的には「自己決定」の下で決められる必要があるだろう。二つ目は「ボランティアをすると決めた人を非難しない」ことである。ボランティアを集める側への批判は,搾取になっていないかという観点からある程度自由であるべきだと思うが,ボランティア行為をすると決めた人に対する揶揄やバッシングは不毛であり,何の意味もない。ボランティアの目的はお金だけではない。その上,ボランティアを実際にした上で,日常生活では得られないような貴重な経験をし,「ボランティアしないなんてバカだよね」となる可能性だってある。実際,ボランティアをすること・しないことのどちらが良くどちらが悪いのかは断定することはできないし,その人次第とすらもいえる。だからこそ,他人の決定を揶揄するような言論に対しては批判的にみている。

 以前「荻上チキ session-22」の中で,昔のオリンピック・ボランティア経験者の方が電話出演されたときにややバッシングを受けていたのを思い出す。あの時は,番組リスナーは民度が高いものだと思い込んでいたが,よくも悪くも裏切られたのである。まじめそうな仮面をかぶった“正義の味方”は,意外と悪をバッシングしようとするのだが,実際のところ,決定的な“正義”などないのかもしれない。

 人と人は支え合う生き物である。同時に,人と人は攻撃し合う生き物でもある。オリンピック・ボランティアをめぐる議論は後者の側面を強く持っている。意見をぶつけることと他者を攻撃することは違うし,議論は勝負ではない。本書で描かれたような「支え合う」社会のためには,むやみに攻撃をしない人間性も必要ではないだろうか。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)②

読んだ本

前回の記事

 

第2章

・自立生活をする障害者にとって,いかにも「あなたのことを思って」という,障害者への「やさしさ」「思いやり」を装った主体性への侵犯にこそ,最も抵抗しなくてはならないと思う【p.106】

・介助者は,黙って障害者の言うことを聞いていればいいわけでもない。そもそも「正解」や「教科書」などなく,お互いの立場や考え方を率直に話し合うのが一番【p.108】

・ボランティアや人助けをする人は,それによって自分の承認欲求や存在意義を埋め合わせている側面が少なからずある【p.120】
・「支える側」と「支えられる側」の逆転した関係【p.121】
・人は誰かを「支える」ことによって,逆に「支えられている」【p.125】
・世の中や社会というのは,「支えられる人」ばかりだと成り立たず,逆に「支える人」ばかりでも成り立たない【p.126】

第3章

・障害者と健常者の「共生社会」とは,障害者と健常者がお互いに助け合って生きる,思いやりにあふれた“やさしい社会”?
→実際は,異文化同士がぶつかりあう“混沌とした社会”に近い?【p.136】

・障害者と健常者が“同じ人間”であることは間違いないが,“違う人間”という側面に積極的に認識を向け,「共生」する上で何が生まれるかをごまかさずに考えていく必要がある。また,なぜ“違う人間”として分け隔てられてしまう理由を根底から問うことも必要。【p.137】

・私たちの社会は,「かわいそうな障害者」「分相応で控えめな弱者」にはやさしいが,社会に対して毅然と主張してくる障害者や,弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん,冷たくなる特質がある(あわれみの福祉観)
→福祉は“社会のお荷物”という認識になる【p.137-138】

・駅のバリアフリー化は,障害者がまず率先して声を上げ,社会の仕組みやあり方そのものを変革する努力を重ねた結果,それが障碍者のためだけでなく,「社会全体のトク」につながった,最もわかりやすい例【p.150】

・追い詰められて障害児の首を絞めた母親に対する同情論は,今の社会でも起こりうる
→「働けるか否か」によって決めようとする価値観,社会の圧力
→これが「差別」であるという認識の問題【p.155-157】

・自立とは,自分でものごとを選択し,自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり,そのために他人や社会から支援を受けたからといって,そのことは,なんら自立を阻害する要素にはならない。ましてや,その人の人格が侵されることもない【p.166】