A Critical Thinking Reed

学んだことのメモ。考えたことの記録。主に心理学。

差別論(4)心理学からみた差別③

目次

読んだ論文

新井雅, & 庄司一子. (2016). < 研究論文> 共生社会および共生教育の展開における 心理学研究の貢献可能性の検討. 共生教育学研究, 5, 35-71.

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共生とは

共生社会形成促進のための政策研究会(2005)では,共生社会について,
①各人が,しっかりとした自分を持ちながら,帰属意識を持ちうる社会
②各人が,異質で多様な他者を,互いに理解し,認め合い,受け入れる社会
③年齢,障害の有無,性別などの属性だけで排除や別扱いされない社会
④支え,支えられながら,すべての人が様々な形で参加・貢献する社会
⑤多様なつながりと,様々な接触機会が豊富にみられる社会
の5点から概念化している。

岡本(2011)は共生概念について,
・〈社会の中の多様性の尊重〉の上に〈社会の凝集性〉を実現しようとする概念であること
・「あるもの」と「異なるもの」の関係性を対象化し両者を隔てる社会的カテゴリ(社会現象を整序する枠組み)を更新する営みであること
・さらに完成状態としての概念ではなく社会的カテゴリの更新自体が生み出す新たな隔たりや葛藤の可能性をも視野に入れた継続的な営み(プロセス)
となり得るものであると指摘している。

ステレオタイプ・差別・偏見の定義

ステレオタイプ(stereotype)とは,客観的事実とは関係なく過度に一般化され,単純化された考えにより形成される認知とされており(Lippman,1922),たとえば,「障害者は苦労をしている」というような集団に対する固定的な信念や認知を指す(栗田・楠見,2014)。

偏見(prejudice)とは,過度のステレオタイプに基づいた態度で,実際の経験や根拠に基づかずに,ある人々に対して示す否定的な感情とされている(加賀美,2012)。たとえば,「○○人だからずるい」,「障害者は嫌だ,良くない」などのようなネガティブな評価や感情を指して用いられる(栗田・楠見,2014)。

差別(discrimination)とは,特定の集団に対する偏見に裏打ちされた敵意的行動である(中島・安藤・子安・坂野・繁桝・立花・箱田,1999)。当該集団に悪口を言ったり,「障害者を無視する,暴力を振るう」のようなネガティブな行動を指して用いられる(栗田・楠見,2014)。

心理学研究の概観

1.人格心理学的研究

・欲求不満攻撃仮説(Dollard, Doob, Miller, Mowrer, & Sears, 1939)

権威主義的パーソナリティ(Adorno, Frenkel-Brunswik, Levinson, & Sanford, 1950)

・偏見・差別等と関連する社会的な紛争問題においても,紛争解決を妨害する性格特性として,敵意性攻撃性他罰傾向があげられ,反対に紛争解決につながる性格特性として,共感性寛容性協調性などの重要性が指摘されている(Reykowski & Cislak, 2011)。

2.社会動機に関する研究

・社会的支配理論(Pratto, Sidanius, & Levin, 2006)
権威主義的パーソナリティの高い者と社会的支配志向性の高い者とでは,移民に対する態度が異なることを示した研究もあり,前者は受入国の文化に従わず同化しようとしない移民に反感を抱く一方,後者は受入国の文化を進んで受け入れ同化しようとする移民に反感を抱くと指摘されている(Thomsen, Green, & Sidanius, 2008)。
・社会的支配志向性の高い者は,他国からの流入者が自国民と同質化し同等の地位を得ることに強い懸念を持っている可能性がある(池上, 2014b)。

・システム正当化理論(Jost & Hunyady, 2002 ; Jost, Liviatan, van der Toorn, Ledgerwood, Mandisodza, & Nosek, 2010)
・特徴的なのは,その社会システムの中で不利な立場に置かれている者も,同じように動機づけられている点
・自己や所属集団の価値や利益を犠牲にしてでも,人々は社会の正当性を信じようとする傾向にある。階層の下位にいる人たちは現行の社会体制に対して不満や怒りの感情を抱くが,現状を打開するために行動を起こすことは少なく,現状に順応することで自らを納得させたり(自己欺瞞),怒りや不満を鎮静化させて精神の安定につなげている(池上,2014b)。

・システム変革動機(Johnson & Fujita, 2012)
・システム変革動機が強く喚起されるためには,「社会システムの変容可能性を知覚できるかどうか」が特に重要

3.認知心理学的研究

・仮説確証型の情報処理メカニズム
・人間には,ある考えをもつとそれと一致する事象が生じると予期し,その予期に従って新しい情報を探索,解釈,記憶する認知傾向があるため,ステレオタイプは容易に変容しない(上瀬, 2002)

・リバウンド効果(Macrae, Bodenhausen, Milne, & Jetten, 1994)

・分離モデル(Devine, 1989)

4.集団心理学的研究

・社会的アイデンティティ理論(Tajfel, Billig, Bundy, & Flament, 1971;Tajfel & Turner, 1986)

5.低減に向けた研究

・対象となる個人・集団との接触を重視した方法(Allport, 1954;浅井,2012)
・内集団と外集団の区分自体を変容させることで集団間バイアスを低減できるという観点から,様々なカテゴリー化を促す
・拡張接触や仮想接触と呼ばれるアプローチ(Crisp & Turner, 2009;Wright, Aron, McLaughlin-Volpe, & Ropp, 1997)

6.葛藤・紛争に関する研究

社会的葛藤

・個人間,集団間,国家間で生じる様々な葛藤・対立
・その背景にネガティブなステレオタイプ,偏見,差別が影響している場合も少なくない

パーソナリティ

・人間・集団間の安定した関係の構築においては,共感性や寛容性,協調性などといったパーソナリティの重要性が各種の研究から指摘されている

認知

・対立・葛藤場面に直面している当事者はしばしば事態を正確に認識できず,相手の事情や願望を歪んで捉え,解決法を見出したり妥協点を探ることが難しいことが多い(大渕,2015)。

・紛争状態における認知的理解が短絡的で単純な見方に留まるほど,他者への攻撃的行動が選択されやすく,さらに,これらの認知は恐怖や怒りなどの不快感情の影響を受けて悪化し,建設的な情報処理が阻害されてしまう場合もある(Reykowski & Cislak, 2011)。

建設的葛藤解決における「対話」

①相手の立場や要求内容の情報を得る
②交渉の中で提案される事項に対する相手の反応を知り合意の範囲を推測する
③統合的な合意を目指して互いに協力して解決策を練り上げる

解決に向けて

偏見・差別に関連する様々な葛藤・対立の解消には,建設的葛藤解決につなげるコミュニケーション・スキル,建設的葛藤解決を妨害する感情を鎮める感情調節スキル,相手の立場(視点)に立って物事をとらえながら自己利益と他者利益のバランスを取る視点取得,人の感情を自分自身のことのように体験できる共感性,葛藤対象となる相手のことを赦そうという姿勢を示す寛容性などが重要となる(大渕, 2015)。

アイデンティティ紛争とその予防

・社会的紛争とは,対立関係にある者同士の社会的アイデンティティが脅威にさらされていることをも意味することから,「アイデンティティ紛争」とも呼ばれる(Brewer, 2011)。

・二重アイデンティティ(e.g., Dovidio, Gaertner, & Saguy, 2009)の考え方に基づき,個々人が社会的アイデンティティの拠り所として重視する各集団間の存在や差異を肯定的に認めつつ,両集団を包含する上位アイデンティティを形成する

・多元交差社会的アイデンティティ(e.g., Hall & Crisp, 2005;Roccas & Brewer, 2002;)に基づく方法
→自らの社会的アイデンティティの拠り所となる特定の所属集団を大切にしつつも,その区分のみにこだわり過ぎず,様々な社会的カテゴリーの交差構造の中で人々の関係性が成り立っていることを認識することで,葛藤や紛争の元となっている固定的な内集団-外集団関係の変容を促す。

 

考える障害者(読書メモ)

読んだ本

考える障害者 (新潮新書)

考える障害者 (新潮新書)

 

本書は,芸人であるホーキング青山氏が「タブー」「タテマエ」「社会進出」「美談」「乙武氏」「やまゆり園事件」「本音」という7つの章に分けて,自らの“障害観”について語られていく。障害者にもさまざまな人がいて,本書で述べられていることも,必ずしも「障害者(みんな)の意思」ではないとは思われるが,非常に共感させられる指摘もいくつかあった。

障害への理解をめぐって

障害者が健常者に理解されないのはなぜか【p.17~】という点について

・そもそも健常者との接点が少ない
・善意の人が社会との壁になっている
・「とにかく大変だ」「不憫でかわいそうだ」というイメージが先行し過ぎている

という3点を指摘しており,この指摘は同書を最後まで貫く一本の大きな核となっている。こうした指摘を基に,ボランティアをめぐる問題や,いわゆる「感動ポルノ」など,様々な角度から主張を広げている。

また,障害者が「聖人君子」的なイメージになりすぎていることだけでなく,介護に携わる人間も,そのようなイメージで描かれることが多いことに対しても疑問を呈している。これは重要な指摘であろう。相模原障害者施設殺傷事件(本書では「やまゆり園事件」)について考える上で,重要な視点の一つであると感じた。

「障害者は生きていて良いのか」という問いに対して

ホーキング青山は次のように述べている。

・「この人は生きてていいか? 悪いか?」なんて問いを設定すること自体がおかしい。

・言うまでもなく,この世には障害者じゃなくても世間に迷惑かけているヤツなんていっぱいいる。

・会社にだって,給料泥棒と言われる人は珍しくないはずだ。(中略)だけど誰も「そんなヤツだから死んでいい」とも「殺しちゃえ」ともいわない。

・なのになんで障害者だけ,いきなり生き死にのことを他人に言われなきゃならないんだよ! これが私の意見である。【p.142-144】

結論に代えて

あとがきで述べられているように,本書には結論と思しき結論はない。ただ,随所に結論的な指摘はみられたので,そうした指摘を少し拾い集めてみたい。

・障害者の側に立つ人が,権利だけを主張するのではなく健常者側の論理にも理解を示し,また健常者の側も経済原則だけを押し付けるのではなく,障害者の側の気持ちを酌む,といった形での話し合いができれば望ましい。【p.148】 

・(障害者相手だって)「同じ人間」として見て,普通に接すれば良い。それ以上のことはないはずなのである。【p.153】

・障害者の側は,あまり臆することなく,もっと積極的にいろんなことに挑戦してもいいと思う。その過程では否応なしに健常者とも関わらなければならなくなるだろう。そしてここで良好な関係を作っていくことが何より「障害者の社会進出」を推し進めることになるはずだ。【p.172-173】

・だからこそ,もう対立するんじゃなくって社会の一員になるために,健常者もだが,障害者こそ心を開くべきだと思うのだ。【p.185】

大きく分けると2つの軸がある。1つ目が「障害者の社会進出のためには,障害者が積極的に社会に出ていくことが必要」ということ。2つ目が「障害者が権利を主張し続けるというよりも,お互いが相手のことを考え,社会のことを主体的に考えることの方が重要ではないか」ということ。確かに,これまでの障害者運動の歴史などを振り返った時に,そうした運動の持った意義が大きいことは否めないが,現代社会においてもそれが通じるかと言われると難しいものはある。

かつてよりも「ヘイト」的な言論が自由に発信できる空間となった現代社会において,障害者へのヘイトを集める可能性のあるような“古典的な”手法がどれほど有効なのか,私もやや疑問に思う部分がある。無論,一部の障害者の行動が「障害者」という括りでのヘイトを生むこと自体は明らかな誤謬を含んでおり,簡単に納得できるものとは言えないが,かと言って「ヘイトする方が悪い」なんて言ってしまうと,感情だから仕方ないなんて言われて,不毛な議論になってしまうだろう。そもそも「誰かが悪い」なんて構図で語ろうとすることが間違っているのかもしれない。コスト的な話がしきりに語られる現代だからこそ,障害者も「社会」に対するコストの視点を持たねばならないだろうし,健常者もコストだけでなく「障害者」という視点を持たなければならないのだろう。このような形で「障害者」「健常者」と分けることの正当性も疑わしいものはあるのだが,逆にこうして分けて議論することの方が本質的ともいえる。なかなかに難しいトピックである。

ホーキング青山の主張は,一障害者の意見にすぎないのかもしれないが,どこかで感じていた“違和感”が少しだけ本書を読んだことで晴れたような気がする。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)③

読んだ本

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第5章

・障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく,『価値がない』と思う人のほうに,『価値を見いだす能力がない』だけ
・物事を多角的にとらえ,そこに自分なりの価値や意味を見いだしていく能力が低いことの自己告白
→そうした能力の欠如が,日常を貧しく色あせたものにし,うっぷんを晴らす相手を見つけては憎悪をまき散らすような行動につながっている可能性もある【p.206】

・まちの人に,自分たちの存在を知ってもらうこと。そして,人目に付く場所にどんどん出かけ,地域で普通に生活する実践を積み重ねていくこと。それによって,人が変わり,地域が変わり,社会が変わっていく【p.223】

・「福祉が芽生える瞬間」
・お金じゃなくて,人には思わずカラダが動く場面がある。
・仕事だからやるんじゃなくて,カラダが動き,何より心が動く。【p.245-246】

・人と人が支え合うこと。それによって人は変わりうるのだということの不思議さに,人が生きていくことの本質もまた凝縮している【p.249】

人と人が「支え合う」ことの意味とは(雑文・感想)

 3回にわたって,“たった一冊の”新書の内容をブログにまとめた。これには大きな意味があったと思っているし,僕にとってここ最近読んだ本の中でも一番読んでよかったと思わされる作品になった。そもそも読もうとしたきっかけはTBSラジオの「荻上チキ session-22」にて紹介されたからなのであるが,大学で売り出されるのが遅く,気づけば出版から2か月近く経ってから読むことになった。

  さて,本書は「なぜ人と人は支え合うのか」という疑問形のタイトルであり,本文の中で答えが出てくるのかと思いきや,一応の主張はいくつかみられるものの,明確な答えは示されていない。だが,これが裏を返せば筆者の答えでもあるのだろう。ある意味,明確な答えが出なくて当然なのかもしれない。人は他の人を支える生き物なのである。そこに明確な理由は必要ないのかもしれない。心理学で扱われてきた「利他行動」については現在勉強中なので,今後まとめていきたいと思っている。

 最後に。本書で肯定的に描かれた「ボランティア」であるが,東京オリンピックをめぐる「ブラック・ボランティア」を筆頭に,「やりがい搾取」という言葉などにもみられるように,近年はかなり否定的な印象が強まっている。ここに少しだけ私見を加えておきたい。「ボランティア」や「やりがい」という名の下で,搾取が横行してしまうリスクはある。これは,場合によっては障害者支援の文脈でも起こりうる話であるだろう。決して他人事とは思えない。ここでは「視点」がいくつかあることに注意して考えていきたいと思う。

①支援者(ボランティア)の側の認識
②被援助者(ボランティアを集める人)の側の認識
③社会・世論の認識

 まず,①のボランティアを行う者自身の認識の問題である。これについては本書でも指摘されたように「支えることが支えられること」になっているという側面があると考えられる。ブラックボランティアと揶揄されるような東京オリンピックのボランティアでも,経験値になる人もいるだろうし,何らかの形で「支えられる」結果になる可能性は十分にあるだろう。

 次に,②のボランティアを集める側の認識であるが,搾取という批判の背景には「やりがいの押しつけ」とか「出せるお金を出さない」など,不誠実な印象を持たれていることが多いのではないかと考えられる。確かに「やりがい」の名の下で,労働力を搾取することは問題といえるかもしれない。だが,お金が出ていなくても得られるものがあるという点に着目すればどうだろうか。不誠実とは言えなさそうである。しかし,そうした理由で正当化することによって「出せるお金を出さない」としたら問題にも思える。これが最も難しい論点であるだろう。ある意味で「無償で働きたい」人と,「無償で働かせたい」人という利害が一致してしまえば,外野があれこれ言うことの意味とは何なのだろうと考えてしまう。

 最後に,③社会・世論の認識である。これは特に①の認識に影響を与える。実際に働いている人は,自らが働く環境に対して文句を言えなかったり,本当はおかしいのに納得してしまっているケースが考えられる。こうした時に,社会通念に照らし合わせて是正していこうとする取り組みも社会では行われる。いわゆる労働運動(ストライキを含む)ものがこうした側面を有するだろう。

 結局のところ,ボランティアをめぐる問題は非常に複雑であり,ボランティアを一概に否定することも一概に肯定することもできないのである。その上で指摘しておきたいことが2点ある。一つ目は「ボランティアをする人自身がよく考える」ことである。ボランティアに時間を割きたいのか否かを“自ら”決定する,そこに他者からの圧力が介入しないようにする。ボランティアを強制するような行為は批判されてしかるべきだと私も考えている。職業選択の自由のようなもので,ボランティアをするかしないかも最終的には「自己決定」の下で決められる必要があるだろう。二つ目は「ボランティアをすると決めた人を非難しない」ことである。ボランティアを集める側への批判は,搾取になっていないかという観点からある程度自由であるべきだと思うが,ボランティア行為をすると決めた人に対する揶揄やバッシングは不毛であり,何の意味もない。ボランティアの目的はお金だけではない。その上,ボランティアを実際にした上で,日常生活では得られないような貴重な経験をし,「ボランティアしないなんてバカだよね」となる可能性だってある。実際,ボランティアをすること・しないことのどちらが良くどちらが悪いのかは断定することはできないし,その人次第とすらもいえる。だからこそ,他人の決定を揶揄するような言論に対しては批判的にみている。

 以前「荻上チキ session-22」の中で,昔のオリンピック・ボランティア経験者の方が電話出演されたときにややバッシングを受けていたのを思い出す。あの時は,番組リスナーは民度が高いものだと思い込んでいたが,よくも悪くも裏切られたのである。まじめそうな仮面をかぶった“正義の味方”は,意外と悪をバッシングしようとするのだが,実際のところ,決定的な“正義”などないのかもしれない。

 人と人は支え合う生き物である。同時に,人と人は攻撃し合う生き物でもある。オリンピック・ボランティアをめぐる議論は後者の側面を強く持っている。意見をぶつけることと他者を攻撃することは違うし,議論は勝負ではない。本書で描かれたような「支え合う」社会のためには,むやみに攻撃をしない人間性も必要ではないだろうか。

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)②

読んだ本

前回の記事

 

第2章

・自立生活をする障害者にとって,いかにも「あなたのことを思って」という,障害者への「やさしさ」「思いやり」を装った主体性への侵犯にこそ,最も抵抗しなくてはならないと思う【p.106】

・介助者は,黙って障害者の言うことを聞いていればいいわけでもない。そもそも「正解」や「教科書」などなく,お互いの立場や考え方を率直に話し合うのが一番【p.108】

・ボランティアや人助けをする人は,それによって自分の承認欲求や存在意義を埋め合わせている側面が少なからずある【p.120】
・「支える側」と「支えられる側」の逆転した関係【p.121】
・人は誰かを「支える」ことによって,逆に「支えられている」【p.125】
・世の中や社会というのは,「支えられる人」ばかりだと成り立たず,逆に「支える人」ばかりでも成り立たない【p.126】

第3章

・障害者と健常者の「共生社会」とは,障害者と健常者がお互いに助け合って生きる,思いやりにあふれた“やさしい社会”?
→実際は,異文化同士がぶつかりあう“混沌とした社会”に近い?【p.136】

・障害者と健常者が“同じ人間”であることは間違いないが,“違う人間”という側面に積極的に認識を向け,「共生」する上で何が生まれるかをごまかさずに考えていく必要がある。また,なぜ“違う人間”として分け隔てられてしまう理由を根底から問うことも必要。【p.137】

・私たちの社会は,「かわいそうな障害者」「分相応で控えめな弱者」にはやさしいが,社会に対して毅然と主張してくる障害者や,弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん,冷たくなる特質がある(あわれみの福祉観)
→福祉は“社会のお荷物”という認識になる【p.137-138】

・駅のバリアフリー化は,障害者がまず率先して声を上げ,社会の仕組みやあり方そのものを変革する努力を重ねた結果,それが障碍者のためだけでなく,「社会全体のトク」につながった,最もわかりやすい例【p.150】

・追い詰められて障害児の首を絞めた母親に対する同情論は,今の社会でも起こりうる
→「働けるか否か」によって決めようとする価値観,社会の圧力
→これが「差別」であるという認識の問題【p.155-157】

・自立とは,自分でものごとを選択し,自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり,そのために他人や社会から支援を受けたからといって,そのことは,なんら自立を阻害する要素にはならない。ましてや,その人の人格が侵されることもない【p.166】

 

なぜ,人と人は支え合うのか(読書メモ)①

読んだ本

久しぶりにいい本に出会えたなと思わせてくれた。
じっくりと余韻を味わいながら,印象的だった記述をメモ形式で以下に書き残しておきたい(本文を改変している場合も有り)。数回に分けて書いていく予定。

はじめに

・福祉とは「特別な人たち」のためだけのもの?
 →誰にとっても,やがてくるその日のための大切な備えであり,心構えであるはず
 →不安の少ない安定した社会をつくっていくための有益な“社会投資”【p.11-12】

・障害者について考えること⇒健常者について考えること⇒自分自身について考えること
・障害のある人たちが生きやすい社会をつくっていくことは,結局のところ誰のトクになるのか【p.12】

・世間一般で,障害者といえば崇高なイメージで語られがち
・そもそもメディアなどで伝えられる「障害者像」どおりの障害者など,この世には一人もいないといえばいないのかもしれない
・「障害者」といい,「健常者」といい,それらの言葉が意味するところは,じつにあいまいであり,その境界線も紙一重【p.13-15】

・なぜ健常者は障害者に会うと,つい,とまどいや緊張を感じてしまうのか

・「差別はよくない」「障害者は不幸ではない」「障害者も健常者も同じ人間だ」などという理念にしばられて緊張してしまうから?
・あれやこれやを考えると,関わらないに越したことはない,とつい考えがち
・「普通に接する」とは,心がけだけではどうにもならない【p.18-19】

・経験を重ねている人でも,意外な思い込みや偏見に凝り固まっているように見える場合も
・「経験しつつ考える」という行為を通して,思考や態度,関係性のバランスを保っていく【p.19-20】

第1章

・介護はお互い様
「障害者と介護者っていう二つの心があるでしょと。その二つの心が,お互いを思いやり合うのが介護なんだよと。」
「介護とはお互いの気持ちいい所を探り合うこと」【p.35-36】

・介護は,本当に「誰にでも出来る」仕事?
→「もし自分や肉親がその立場になったら」という視点が抜け落ちている【p.36-37】

・「障害者って生きてる価値ってあるの?」 →「では,あなた自身は,自分に生きている価値があると,誰の前でも胸を張っていえるんでしょうか? 価値があるとしたら,どうしてそういえるんですか?」【p.46】

・人に自分の意見は述べる,しかし,相手からの反論は受けつけない。そうした姿勢が植松被告(相模原障害者施設殺傷事件の犯人)の主張を成り立たせている根幹にはある【p.55】

・植松被告の主張は「優生思想」ではない。(彼にとって殺されるべき対象を)殺した後に社会がどう進歩し,どう発展するかについての構想がない。ただの排除思想,差別である。【p.56-58】

・「障害者なんていなくなればいい」といっている人だって,じつは厳しい社会状況に追い詰められ,人間性のどこかを深く病み,社会から落伍しかけているのかも
・自己責任やバッシングの言葉がいつ自分に降りかかるかわからない
・「支え合い」なんて不要だという風潮が強まるほど,ますます不適応者が増える可能性【p.61-62】 

・もし世の中が,能力のある人ばかりで埋め尽くされたとしたら,そもそも能力の意味がなくなってしまい,商品やサービスの価値も低下してしまう
・人は誰しも,「富の再分配」や,福祉的な支え合いによって暮らしている。もし,それをやめれば,そもそも人が,組織とか社会とか国家というものを維持する意味の大半がなくなってしまう【p.66】

・「天才と狂気は紙一重
・人間という種にとって,最もどうでもいい存在なのは,圧倒的多数の平凡な健常者ということになってしまう【p.69】

・世の中にはそれとは真逆に,「もし自分だったら」という言葉を用いて,いとも簡単に物事を判断し,結論を下してしまえる人もいる
・日常というのは,『わからない』の連続。そして,わからないからこそ,ここに『いる』というように,おだやかさや平安を導いてくれる【p.71】 

ハンナ・アーレント(読書メモ)

読んだ本

同書は,ハンナ・アーレントの生涯を中心にその思想の変遷や当時の社会情勢についてまとめられた著作であった。ここでは,思想にまつわる記述を中心に,気になったものをメモとしてまとめておきたい。

「理解する」とは

アーレントにとって理解とは,類例や一般原則によって説明することでも,それらが別の形では起こりえなかったかのようにその重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは,現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく,「注意深く直面し,抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく,既知のものと起こったこととの新奇な点とを区別し,考え抜くことであった。

アーレントは,因果関係の説明といった伝統的方法によっては,先例のない出来事を語ることはできない,と断言する。しかも全体主義という新奇な悪しき出来事は,「けっして起こってはならなかった」ことだった。(以下略)【p.105-106】 

ためらいと模索のための小休止(ホッファー)

人間は本能の不完全さゆえに,知覚から行動に移る間に,ためらいと模索のための小休止を必要とする。この小休止こそが理解,洞察,想像,概念の温床であり,それらが創造的プロセスの縦糸となり横糸となる。休止時間の短縮は,非人間化を促す。【p.140】 

科学技術をめぐって(アーレント

問題は,ただ,私たちが自分の新しい科学的・技術的知識を,この方向に用いることを望むかどうかということであるが,これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治的問題であり,したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定にゆだねることはできない。【p.142-143】

privateとdeprived

アーレントは私的(private)という語を「奪われている」(deprived)と結びつける。そこで奪われているのは,他人によって見られ聞かれることやさまざまな物の見方から生じるリアリティである。それがいかに温かく心地のよい家族的空間であっても,究極的には「同じものにかかわっている」ということだけが共通点であるような多数の物の見方,つまり他者の存在を奪われている,と言う。【p.149】

動きの自由

アーレントが「動きの自由」を思考の「身ぶり」と結びつけていることに注意しておきたい。世界での人間の自由が第一に経験される活動=行為においても,動きの自由は欠かせない条件であった。たとえば「国内亡命」のように,自由な動きができない暗い時代に人びとが思考へと退却する場合でも,「動き」が重要となる。思考に動きがなくなり,疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を,アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び,全体主義の特徴と見なしたのである。

「思考の動き」のためには,予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ,あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて,思考の自由な運動は可能になる。レッシングの動きのある思考は,たとえ世界と調和しなくても世界に関わり,多様な意見が存在することを重視する。それは,人びとが結合したり離れたりするような距離をもっていることと連関していた。【p.174】 

アーレントといかにして向き合うか

アーレントと誠実に向き合うということは,彼女の思想を教科書とするのではなく,彼女の思考に触発されて,私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。自分たちの現実を理解し,事実を語ることを,彼女は重視した。考え始めた一人ひとりが世界にもたらす力を,過小評価すべきではない。私たちはそれぞれ自分なりの仕方で,彼女から何かを学ぶことができる。【p.229 あとがき】 

 

悪と全体主義(読書メモ)②

読んだ本

第3章

・資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは,大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味した
→大衆の「アトム化」
・選挙権は得たものの,彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか,どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは,政治に対する関心が極めて希薄でした。
・「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様
・何も考えていない大衆の一人一人が,誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは,安直な安心材料や,分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。【p.120-122】 

・不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは,厳しい現実を忘れさせ,安心してすがることのできる「世界観」【p.124】

・人間は,何が真実なのか分からない,自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても,トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を登り詰めた,ごく一部の人たちだけ。自分も知りたい,教えてもらえるようなポジションに就きたいーーと思わせるようなヒエラルキーを,ナチスは構築した【p.133】

・そのようにして自立した道徳的人格として認め合い,自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を,アーレントは「複数性」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は,物質的な利害関係の調整,妥協形成ではなく,自律した人格同士が言葉を介して向かい合い,一緒に多元的なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他社と対話することがなく,常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは,次第に人間らしさを失っていきます。【p.149-150】

・現代でも,特に安全保障や経済に関連して,多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。(中略)が,世界はそれほど単純ではありません。
全体主義は,単に妄信的な人の集まりではなく,実は,「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。【p.154-155】 

第4章

アイヒマンが従った“法”は最初から間違っていて,私たちが現に従っている「法」は絶対正しい,と何をもって言えるのか? 哲学的に掘り下げて考えると,私たち自身が拠って立つ,道徳的立場に関しても不安になってきます。【p.176-177】 

・人が他人を心置きなく糾弾できるのは,自分(あるいは自分たち)は「善」であり,彼(もしくは彼ら)は「悪」だという二項対立の構図がはっきりしている場合に限られます。
アイヒマンに悪魔のレッテルを貼り,自分たちの存在や立場を正当化しようとした(あるいは自分たちの善良性を証明しようとした)人々の心理は,実はナチスユダヤ人に「世界征服を企む悪」のレッテルを貼って排除しようとしたのと,基本は同じです【p.181-182】

ユダヤ人社会や大戦後に建国されたイスラエルを覆っていた「ユダヤ人は誰も悪くない」「悪いのはすべてドイツ人だ」というナショナリズム的思潮に目をつぶるという選択肢は,彼女にはありませんでした。そのような極端な同胞愛や排外主義は,ナチス反ユダヤ主義と同じ構造だからです。【p.186】

・絶対悪を想定して複数性を破壊するような事象は私たちの身近にもあふれています。
・むしろ正義感の強い人,何かに強いこだわりをもって,それに忠実であろうとする人ほど実際は悪の固まり,ともいえます。【p.189-190】

アーレントのいう無思想性の「思想」とは,そもそも人間とは何か,何のために生きているのか,というような人間の存在そのものに関わる,いわば哲学的思考です。それは,異なる視点を持つ存在を経験し,物事を複眼的に見ることで初めて可能になるとアーレントは考えていました。そこに他者の存在,複数の目がなければ,自分では考えているつもりでも,数学の問題を解くように処理しているにすぎないと指摘しています。
・私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく,機械的処理。無思想性に陥っているのは,アイヒマンだけではないのです。【p.190-191】

・本当に「考える」ことができているでしょうか。実は既成観念の堂々めぐりを「無思想に」処理しているだけではないでしょうか。
・自分と同じような意見,自分が安心できる意見ばかりを取り出して,「やはり」「みんな」そう考えているのだ,と安心して終わっている

・そもそも異なる意見,複数の意見を受け止めるというのは,実際には非常に難しい
・(自分と同じような意見は)「分かりやすい」
・深く考えなくても,分かった気になって安心できる

・「分かりやすさ」に慣れてしまうと,思考が鈍化し,複雑な現実を複雑なまま捉えることができなくなります。【p.192-195】

終章

・日本でもプチ・アーレント・ブームになった時,(中略)あまりに簡単に共感する人が多いのを見て,正直言って,これでいいのかなと思ってしまいました。
・二項対立思考はダメだと言っている人自身が,二項対立思考しているというのはよくあることです。【p.201-203】 

・私たちは“議論”すると,往々にして勝負感覚になります【p.220】

・真摯に答えようとしたら,今までの自分を否定しないといけないので,聞いていて辛い,と思えるような対立意見をよく聴き,相手の考え方の原理を把握する。そこからしか,アーレントの言う意味での「思考」は始まらないのではないかと思います【p.220】